彩（あや）は、満員電車の中で肩をすぼめながら立っていた。いつもの通勤時間、体を支えるのは揺れる吊り革と無表情な自分自身だった。彼女は29歳、広告代理店で働く平凡なOLだったが、その内側では、どこか違和感のようなものが常に渦巻いていた。

　電車の窓に映る自分の姿を見て、彩はふと眉をひそめた。顔色が冴えない。肩も以前より丸まっている気がする。最近は疲れが溜まる一方で、目覚めるたびに重たい体が彼女を迎えるようだった。肌のくすみや、目元の小さなシワも気になる。かつて「明るい性格だね」と言われた笑顔も、ここ数年でどこか影を潜めてしまったようだ。仕事はそれなりに順調だったが、心の中には常に不満があり、疲れが心まで浸食していく感覚がしていた。

　その日、彩はオフィスでのいつものルーティンをこなしながら、ランチタイムに近所のカフェで休憩をとった。お気に入りの席に座りながら、手元に置いたスマートフォンで何気なくニュースをスクロールしていると、「身体の声を聞け」というタイトルの記事が目に飛び込んできた。

　「身体の声…？」

　思わず記事を開いた彩は、そこに書かれている内容に驚きを隠せなかった。記事には、「身体はその人の人生の全てを反映している」と書かれていた。そして、「もしあなたが何かに無理をしているなら、そのサインは必ず身体に現れる」という言葉が目に刺さった。

　読み進めるうちに、彩は自分の身体が発していた数々のサインを思い返した。肩こり、頭痛、胃のむかつき、どれも単なる「疲れ」や「ストレス」のせいだと軽く考えていたが、記事を読むうちにそれが自分自身への警告だったのではないかと思えてきた。

　その日、彩は仕事を終えた後、帰り道にふらりと入った本屋で「身体の記憶」というタイトルの本を手に取った。本の表紙には、「身体は嘘をつかない。あなたの身体が教える人生のヒント」という言葉が書かれていた。それはまるで、彩に向けられたメッセージのように思えた。

　家に帰った彩は、本を読みながら自分自身と向き合い始めた。思い返せば、大学を卒業してからの数年間は、ただ「社会に認められる人間になる」ことに執着していた。会社での評価を気にしすぎて、本当にやりたいことを見失っていたのではないか。身体の不調も、自分の気持ちを無視して生きてきた結果ではないか。そんな考えが頭をよぎる。

　翌朝、彩は早く目覚め、いつもより少しだけ丁寧にストレッチをしてみた。体を伸ばし、深く息を吸い込むと、胸の奥に溜まっていたモヤが少し晴れるような感覚があった。その瞬間、彩は決意した。これからは身体の声に耳を傾けてみよう、と。

　身体の声に耳を傾けることで、彩は何を失い、何を得るのだろうか。それはまだ誰にもわからない。しかし、人生がこれまでと同じではいられないことだけは、彼女自身がよく分かっていた。

　こうして彩の新たな旅が始まった――それは、身体の声に耳を傾け、自分自身を再発見するための旅だった。