11-1 忘却の記憶ー目覚めの静寂、揺れる記憶

――どこか遠くから聞こえる水の音、薄く響く鳥のさえずり。


静寂が支配する空間の中で、レヴァンはゆっくりと意識を取り戻した。

視界には白い天井が映り、ぼやけた輪郭が徐々に鮮明になっていく。


どうやら、個室にいるようだった。


「ここは……?」


体中に巻かれた包帯が痛みと共に自分の状態を伝えてきた。

動こうと試みるも、筋肉は鉛のように重く、全身に響く鈍い痛みがその試みを拒んだ。


――戦っていた。


星喰いの特異個体。漆黒の肌、金色の三つ目、そして冷たく響く人語……。

フラッシュバックのように断片的な記憶が押し寄せ、彼は思わず顔をしかめた。


「また、あの感覚だ……体が焼け付くような痛みと、どこか遠くから聞こえる囁き……。」


胸の奥でうごめく違和感。

それはただの戦闘による疲労や傷ではなく、自分自身の存在そのものに触れるような感覚だった。


静寂を破るように、個室の扉がゆっくりと開かれた。

グラハム支部長が足音も重く入室し、その後ろから白衣をまとった医師が続く。


彼の眉間には深い皺が刻まれ、その表情からは穏やかさの欠片も感じられない。


「目を覚ましたか。まあ、この状況では休む暇もないだろうが……よく持ちこたえたな。」


低く重い声が、部屋の静寂を切り裂いた。


レヴァンはわずかに身を起こそうとしたが、傷ついた身体がそれを許さなかった。

代わりにかすれた声で答える。


「ど…うやら......死にはしなかったようだ。」


彼の言葉には軽い調子が込められていたが、その裏には自分がここにいることへの複雑な安堵が隠されていた。


グラハムは部屋の片隅に置かれた椅子を引き寄せ、ドスンと音を立てて腰を下ろした。


その眼差しは鋭く、まるでレヴァンの心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。


「お前があの特異個体を倒したと聞いた。だが……正直、信じがたい話だ。他に接敵した部隊からは、1部隊全員でかかって何とか倒せたと報告が入っている。あれほどの力を持つ相手に対し、どうやって生き延びた?」


低く重々しい声が、個室の静けさを切り裂いた。


レヴァンは、問いかけにすぐ答えることができなかった。


昨日の戦いの記憶は曖昧で、鮮明に浮かぶのは身体が限界を迎えた瞬間と、その中で目覚めた精霊イゼリオスの力だけだった。


しかし、それをどう説明すればいいのか、自分自身も分かっていなかった。


「正直、自分でも説明はつかない。ただ……戦うしかなかった。それだけだ。」


彼は視線を下げ、包帯で覆われた手を見つめた。

その言葉には不安と自責が滲んでいた。


グラハムは短く息をつきながら、腕を組んで椅子にもたれた。


「サリアの報告通り、やはり精霊の力を得ているのか。」


その一言に、レヴァンの目がわずかに見開かれた。


「サリアが……?」


レヴァンは、初めて自分の隠していた事実が明るみに出たことを実感した。


グラハムの言葉が続く。


「やはりそうか。彼女はお前が戦いの最中、風の精霊を呼び出したことを目撃したと言っていた。お前が精霊と契約を交わしているのは間違いない。そして、その力をまだ使いこなせていないのもな。」


その言葉に、レヴァンの胸に深い痛みが走った。


イゼリオスとの契約は、彼自身がほとんど覚えていない過去の一部であり、今も自分がその力を完全に制御できていないことを痛感していた。


「確かに、あの時イゼリオスが力を貸してくれた。でも……俺はまだ、精霊の力を完全に扱えるわけじゃない。」


レヴァンの声には苦悩と葛藤が込められていた。


グラハムは厳しい表情を崩さないまま頷いた。


「分かっている。お前の力が未熟だとしても、あの特異個体を退けた事実は揺るがない。だが、お前自身がその力に飲まれるようでは、次の戦いで命を落としかねん。」


その言葉に、レヴァンの手が拳を握りしめた。

自分の弱さが痛いほど分かっているからこそ、次はもっと強くなりたいと願っていた。


その時、不意にレヴァンの胸を別の不安がよぎった。


「サリアや、他の第4部隊のみんなは……無事なんですか?」


彼は顔を上げ、真剣な眼差しをグラハムに向けた。

彼は一瞬の間を置いてから、安堵を含む声で答えた。


「大丈夫だ。全員生きている。サリアは重い打撲だが命に別条なし、他の隊員たちはマナの使い過ぎと肉体的疲労で別の場所で休んでいる。お前が特異個体を討伐したおかげで、全員無事に切り抜けることができた。」


「戦いも我々の勝利だ。複数の特異個体が確認されていたが、全て討伐。しかし、特異個体の出現から多くの死傷者を出してしまった。連合大隊が奮戦してくれたことと、我々、星の光と学園から派遣された生徒が遊撃部隊として立ち回ったのもあり、ヴァルネア村周辺のみの被害に抑えられた。」


その言葉に、レヴァンの胸の中に少しだけ安らぎが広がった。


戦いの勝利と全員無事という事実は、自分が倒れた後も戦いが続き、彼らが無事に生き延びた証だった。


「そうか……良かった……。」


彼は安堵のあまり、ベッドに体を預けた。

その顔には、苦しみの中に微かな笑みが浮かんでいた。


グラハムは再び厳しい視線をレヴァンに向ける。


「だが、これで終わりではない。あの線上にいた特異個体をすべて倒したことで、一時的に危機は収まったが、星喰いの進化の謎は依然として残っている。そして、その謎を解く鍵は今回の討伐報告の中にあるかもしれな。」


その言葉に、レヴァンは驚きと責任感を覚えた。


グラハムは立ち上がり、静かに言葉を続けた。


「休める時にしっかり休め。そして、自分の力と向き合え。精霊との契約も、その本質もだ。次に同じ状況に陥った時、お前がその力を完全に扱えるようでなければ、仲間たちを守ることもできなくなる。」


その背中を見送りながら、レヴァンは自分の拳を見つめた。


傷ついた手にこびりついた血と、まだ完全に扱いきれていない精霊の力。その全てが彼に新たな決意をもたらしていた。


「俺は必ず……この力を使いこなしてみせる。そして、次こそは…」


朝の柔らかな陽光が個室の窓から差し込み、レヴァンの顔を優しく照らしていた。



――空には薄い雲が浮かび、どこか穏やかな時間が流れている。窓の外で聞こえる鳥のさえずりが、戦場の記憶とは対照的な静けさをもたらしていた。


グラハムが個室から出て行ったのを見計らって、後ろに控えていた医師がレヴァンのベッド脇に静かに歩み寄り、慎重に脈を取り始めた。


「状態を見ますね。失礼します。」


その動作は、長年の経験からくる熟練の手つきで、迷いも躊躇もなかった。


彼の指が触れるたびに、レヴァンはわずかな痛みと冷たい感触を感じるが、それが逆に自分がまだ生きているという実感を呼び覚ます。


医師は次に包帯の結び目を確認しながら、その下に隠された傷の具合を目視で診断する。


包帯をわずかに緩めると、そこには深い切り傷の痕跡が赤く浮かび上がっていた。

しかし、その傷口には星紋術による自然回復の兆しが見られ、患部全体が薄い輝きを放っている。


「肉体的な損傷は確かに深刻でした。しかし、回復の星紋術による自然回復作用が驚くほど順調に進んでいます。この調子なら、数日の静養でほぼ元通りになるでしょう。」


医師の声には確かな自信が宿っていたが、その瞳の奥には、別の不安がちらついているのをレヴァンは見逃さなかった。


医師は手元の記録に目を落とし、淡々と続ける。


「ただし、肉体の回復が早い分、精神的な負担を見過ごすわけにはいきません。極限状態での戦闘は、体だけでなく心にも深い傷を残すことがあります。これ以上無理を重ねると、取り返しがつかなくなる可能性もあります。今はしっかり休むべきです。」


その冷静な指摘に、レヴァンは少し眉をひそめた。

彼にとって、休むという言葉は馴染みのないものだった。


だが、医師の口調は揺るぎなく、彼が反論する余地を与えなかった。


「体が資本です。倒れたままでは何もできませんし、誰の力にもなれません。」


その言葉には、患者を思いやる医師としての厳しさと優しさが入り混じっていた。


レヴァンはその視線を受け止めながら、苦々しい思いを胸に抱えた。


「……はい、分かっています。」


だが、その声の奥には回復するまで、戦いから離れざるを得ない自分への苛立ちが微かに滲んでいた。


個室の静寂が、再び彼らを包み込む。時計の秒針が規則的に刻む音だけが響き、どこか不思議な緊張感を生んでいた。


医師は記録を閉じながら、最後にもう一度レヴァンに注意を促す。


「急がば回れです。まずは回復に専念してください。それが、次の戦いへの準備となるのですから。」


その一言が、レヴァンの胸の奥深くに響いた。

彼は、包帯越しに力の入らない拳を軽く握りしめながら、まだ果たせていない自分の目標を思い返していた。



――柔らかな光が窓から差し込む個室。

そこにいるレヴァンの耳に、廊下から近づく重厚な足音が聞こえた。


ベッドで横たわりながら、かすかな空腹感に気づいた彼は、無意識に手を腹に当てた。


星喰いとの戦闘から意識を失い、食事どころか水すらまともに口にしていなかったことを思い出す。


扉が開くと、グラハムが無言で現れた。


手には木製のトレイがあり、湯気を立てるスープと焼きたてのパン、そして水が乗っている。


「お前、飯も食わずに根を詰めるのが得意だったな。こういう時こそ、腹を満たせ。」


彼の声にはどこか不器用ながらも優しさが滲んでいた。

レヴァンは意外そうな顔をしながらも、持ってきた食べ物を見て小さく笑みをこぼした。


「支部長が見舞いに来るなんて、珍しいな。」


「たまには支部長としての義務も果たさねばな。」


そう言いながら、グラハムはトレイをベッド脇の丸テーブルに置き、椅子を引き寄せて座った。


レヴァンはスープの器を手に取り、一口すすると、体の芯から温かさが広がった。

その瞬間、疲労感と戦いの緊張が少しだけ和らいだ気がした。


「……ありがとう。」


「礼を言うのは早い。お前のその体、もっと大事にしろ。倒れたら次の戦いどころか、飯すら食えなくなる。」


グラハムはそう言うと、椅子に深く座り直し、腕を組んで遠くを見るような目で語り始めた。


「あの特異個体……ただの星喰いではなかった。動き、星紋術への耐性、そして人語を話す異常さ……あれが単なる進化の結果だとは到底思えん。」


彼の声には疑念と危機感が混ざり合っていた。


「星喰いの進化がもし偶然の産物でないとしたら、それを操る何者かが背後にいる可能性がある。お前も戦いの中で感じただろう。あれは“目的”を持って動いていた。」


レヴァンはその言葉にハッとした。


戦闘中、確かに特異個体の動きには“意図”が感じられた。

単純な捕食者のそれではなく、明確な作戦を持つ指揮官のような……。


「もしその背後に何かがいるのだとすれば、国家やギルド全体を巻き込む大事になる。」


グラハムは一度言葉を切り、じっとレヴァンを見据えた。


「お前の体験と報告が、今後の方針を左右することになるだろう。正確に思い出せることは全て報告してもらう。」


レヴァンは少し迷ったが、昨夜の戦いで感じた“違和感”について話し始めた。


「あの特異個体にとどめを刺す直前……体の奥底で何かが目覚める感覚があった。力が流れ込むような……でも、それと同時に、遠くで誰かが囁いているような奇妙な感覚も。」


グラハムはその説明に考え込むような表情を見せた。


「囁き……か。お前の契約している精霊の影響か、それとも……」


しばらくグラハムと話していると、先ほどの医師がレヴァンがいる個室を訪れた。


「支部長、彼にはもう少し安静が必要です。議論は一旦ここまでにしてください。」


しかし、グラハムは立ち上がることなく、鋭い声で言い放った。


「安静が必要なのは分かっている。だが、時間は待ってくれない。」


その言葉に、医師もそれ以上反論することはなかった。


最後にグラハムは立ち上がり、静かにレヴァンに告げた。


「お前は間違いなく次の戦いの中心に立つことになるだろう。その時までに、自分の力を完全に理解しろ。星喰いの進化の謎を解くには、お前の力も必要だ。」


扉を閉める直前、グラハムは振り返り、もう一度言った。


「準備を怠るな、レヴァン。戦いは、これからが本番だ。」


その背中を見送りながら、レヴァンは拳を握りしめた。

彼の中に、次なる戦いへの不安と決意が絡み合うように渦巻いていた。



――数時間後。


「入ります。」


優しい声がレヴァンの個室に響き、扉が静かに開いた。


セリーネがふわりとした足取りで部屋に入り、背後から差し込む柔らかな日差しが彼女のシルエットを浮かび上がらせる。穏やかな光が彼女の表情をさらに柔らかく見せていた。


「無茶しすぎよ、レヴァン。でも……あなたが戦わなければ、もっと多くの人が犠牲になっていたかもしれない。」


セリーネはベッド脇の椅子に腰を下ろし、レヴァンをじっと見つめた。


その目には安堵と感謝、そして少しの緊張が宿っているようだった。彼女の存在に、レヴァンは少しだけ肩の力を抜くことができた。


「セリーネ……ここに来るということは、君も戦っていたのか?。」


レヴァンの声に、セリーネは微笑みながら頷いた。


「ええ、私は別の部隊で比較的、ヴァルネア村に近い戦場で戦っていたわ。幸い、特異個体とは接敵しなかったけれど……あなたたちの部隊があれを討伐したという報告が入った瞬間、私がいた戦場の様子が一変したの。」


「一変?」


レヴァンが眉をひそめる。


セリーネはその問いに応えるように少し前に身を乗り出した。


「ええ。ヴァルネア村の特異個体が倒されたと分かった途端、星喰いたちの動きが瓦解したの。あれほど連携していた群れが突然バラバラになって……混乱して逃げ出したり、闇雲に突っ込んできたりして、すぐに討伐が進んだわ。」


「群れが瓦解……」


レヴァンは考え込むように視線を床に落とした。


「やっぱり、あいつが群れ全体を支配していたんだな。まるで軍隊の指揮官みたいに。」


セリーネは真剣な表情で頷いた。


「その可能性が高いわ。だから、あの特異個体には普通の星喰い以上の意味があったんじゃないかしら。」


レヴァンは思い返すように目を閉じた。


あの特異個体との戦いは、ただ力を振り絞っただけではなかった。自分を挑発し、翻弄するような動き、そして敵であることを忘れさせるような人間じみた言葉。それらが不気味で、未だに頭から離れない。


「確かに……あの特異個体は、何かを企んでいるように思えた。星喰い全体に、もっと大きな意志が働いているのかもしれない。」


その言葉に、セリーネはさらに身を乗り出した。


「何か大きな意志……。それって進化の過程ってだけじゃなく、目的があるってこと?」


レヴァンは少し曖昧に頷いた。


「わからない。でも、あの瞬間、確かに何かが見えそうだった。何か、答えに近いものが……。」


二人の間に静かな緊張感が漂う中、セリーネは優しく微笑み、レヴァンの肩に手を置いた。


「きっと、それを明らかにするのも、あなたの記憶を取り戻す鍵になるのかもしれないわね。でも、無理はしないで。辛い時は、仲間を頼って。」


その言葉は、重圧で押しつぶされそうなレヴァンの心を少しだけ軽くしてくれた。

そして、セリーネの言葉が、次の戦いへ向かうための新たな力となることを、彼は感じていた。


セリーネが去った後、レヴァンは個室の窓際に移動し、外の景色を眺めた。


西の空には深い紅の夕焼けが広がっていた。


「……確かめなければならない。この力が、そして俺が……何者なのかを。」


彼の瞳には、星喰いの謎を追う強い決意が宿っていた。

その決意が、次なる戦いへの静かな予兆となっていた。

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