9-3 契約と代償ー風の力と代償

荒野を覆っていた暴風が徐々に静まり、試練を終えたレヴァンの周囲には、不思議な静けさが広がっていた。


風の音が低く響き、大地には新たな風が吹き抜けた。

その風は戦いの疲労を優しく包み込み、どこか安堵感すら漂わせていた。


突然、大地が淡い青白い光に包まれ、空間が変化を始めた。


光の中からゆっくりと現れたのは、祠だった。

その祠は古代の神殿を思わせる荘厳な造りで、石材には螺旋状の紋様が刻まれている。それらの紋様はまるで風そのものを象徴しているかのように、淡い光を放っていた。


「これが……風の祠か。」


レヴァンはその場に立ち尽くした。

初めて目にする祠に対して畏敬の念を覚え、自然と息を呑む。


祠全体が生命を持つように脈動し、周囲の風と調和しているのを感じた。


「この祠は、風の力を授ける場。そして、お前を新たな地へ導く入り口だ。」


風の精霊が祠の傍らに姿を現し、その重厚な声が周囲に響いた。

その言葉と同時に、祠の正面にある巨大な扉が音もなく開かれた。


扉の内側から放たれる光が広がり、彼を優しく誘うように揺れている。


「進め。風がお前を新たな地へ導くだろう。」


精霊の言葉に促され、レヴァンは一歩を踏み出した。


祠の中へ進むと、風が彼を包み込み、身体が軽く浮かぶような感覚に襲われた。

足元が光に包まれ、視界が白く染まる。その感覚は不思議と心地よく、恐怖や不安は一切なかった。



次に目を開けたとき、レヴァンは全く別の世界に立っていた。

目の前には広大な草原が広がり、その先には雲海に覆われた壮大な崖が聳(そび)えている。


崖からは無数の細い滝が流れ落ち、それらが風に乗って霧のように漂っていた。

滝から滴る水は、光を浴びて七色に煌めいている。


草原は青白い光を放つ花々で彩られ、風が吹くたびにその光が柔らかく揺れた。


遠くには風を動力源とした大きな水車のような構造物がいくつも並んでおり、それぞれが一定のリズムでゆっくりと回転していた。


「ここは……どこだ?」


レヴァンは呆然とその光景を見つめた。


この場所はただ美しいだけでなく、自然と精霊の力が調和しているのが感じ取れる。風の音が彼の耳に心地よく響き、身体の隅々まで風の力が浸透していくようだった。


「ここは風の力そのものが宿る地。この場で、風はお前と完全に一体化する。」


風の精霊が現れ、その言葉と共にレヴァンの胸元に宿る星紋が淡い光を放ち始めた。

精霊は彼を崖際へと導き、その場に立つよう促した。


崖の先端に立つと、風が一層強くなり、彼の髪と衣服を力強く揺らした。


しかし、その風はただ強いだけではなく、まるで彼を励ますかのような優しさを含んでいた。


「お前は風の本質を理解した。」


その重厚な声が響くたび、空気が震え、風がレヴァンの頬を撫でた。

精霊の言葉には威圧感だけでなく、どこか慈悲深い響きもあった。


「捧げる代償に応じて力を授け、我も味方となろう。では問おう。お前が捧げる代償は何だ?」


レヴァンは剣を鞘に収め、精霊の目を真っ直ぐに見つめた。


自分が選ぶべき代償が何なのか、頭を巡らせる。

戦いの中で得た風の力が、自分の中で息づいているのを感じながらも、代償という言葉が彼の胸を重く押し潰していた。


「俺の代償……それは寿命だ。」


レヴァンは決然とした口調で答えた。

寿命を代償に捧げる覚悟は、彼が旅の中で抱いてきた決意の表れだった。


だが、精霊は否定の言葉を彼に告げる。


「お前の寿命は、代償にはならない。」


風が鋭く吹きつけ、レヴァンの心を揺さぶる。

精霊の言葉は重く、避けられない真実を告げるようだった。


「なぜだ……?」


レヴァンは眉をひそめた。

記憶を失った空っぽの自分が差し出すべき代償が他に思いつかない。


記憶を失った自分には何があるのか、何を差し出せるのか。自身の存在そのものが疑問に思えてきた。


精霊は彼の動揺を見透かすように、柔らかい声で続けた。


「お前の星紋にはただならぬ力を感じる。過酷な運命を背負っているのだな。」


その言葉に、レヴァンの胸が締め付けられる。


運命――それは彼がこれまで自覚してきたことの一部であり、しかし完全に理解するには至っていない謎だった。


「寿命を捧げるというその覚悟は認める。だが、代償には値しない。ならば、お前の代償は……」


精霊はレヴァンの胸元に浮かぶ星紋に触れた。

その瞬間、星紋が輝き、鮮烈な光が辺りを包み込んだ。


光の中で、レヴァンは一瞬、意識を手放したかのように感じた。


次に目を開けたとき、目の前には精霊の手が彼の星紋に触れている様子が映った。

その触れる感触は、熱くも冷たくもなく、ただ深い感覚が全身に広がる。


「契約は果たされた。」


精霊は手を離し、レヴァンの星紋が青白い輝きを放つのを見つめていた。


その光には新たな力が宿り、彼の内なる存在と共鳴しているのがわかった。

形も変化している。少し遅れて、マナの量が大きく増えていくことも実感した。


「これで俺は……何を失ったんだ?」


レヴァンは思わず問いかけた。

契約の代償が具体的に何だったのか、自分にはまだ明確に理解できていなかった。


だが、その問いに精霊は答えなかった。

ただ静かにレヴァンを見つめ、その目には何かを悟ったような光が宿っていた。


「力を得るということは、同時にその責任を負うことだ。その責任を果たす覚悟があるかどうか、お前自身がこれから証明するのだ。」


精霊の声が静かに響く中、レヴァンの星紋は再び淡い光を放ち、風が彼の周囲を舞った。それは、契約が確かに結ばれた証だった。


「お前に我の名を告げよう。我の名はイゼリオス――風の精霊であり、お前の力の一部となる存在だ。」


その名が告げられると同時に、レヴァンの頭の中に一つの言葉が流れ込んできた。


それは、イゼリオスを呼び出すための呪文のようなものだった。彼は、感じたことのない頭の痛みに倒れこむ。


「お前の中に我との絆の言葉が深く刻まれた。これで、我を呼び出す際の言葉を忘れることはないだろう。」


イゼリオスは、さらに続ける…


「この力は、お前の宿命を切り開くための刃となるだろう。ただし、その刃が守るのは希望か、それとも滅びかはお前次第だ。」


イゼリオスの言葉は冷たさと温かさが交錯し、レヴァンの心に深く染み渡った。

彼は拳を握りしめ、その重みを全身で受け止める覚悟を決めた。


「俺が支払った代償は……一体何なんだ?」


レヴァンの問いに、イゼリオスは微かに微笑むように見えた。


そして、風に溶け込むように答えた。


「お前の星紋に触れたことで、我は感じた。お前の過去、その記憶、そして未来に待つ運命――それは決して軽いものではない。風は自由をもたらす。しかし、その自由には、大きな責任を伴う。だが、それを受け止める力は、すでにお前の中に宿っている。」


イゼリオスの声は、一瞬の静寂の後、さらに低く響いた。


「選ぶのはお前だ。その先に何が待ち受けようとも、我は共に在る。」


最後にイゼリオスはこう告げた。


「お前を元の世界へ戻した後、別の世界へ移る代償として、我は声を失う。それが我が選んだ代償だ。」


その言葉に、レヴァンは驚きを隠せなかった。


「声を……失う?今しているように、心の中でも語り合えないということか?」


「そうだ。しかし、声を失う代わりに、お前が正しき未来を選ぶのを見届ける。それが我が選んだ役目だ。」



風が再び吹き荒れると、レヴァンの視界が揺らぎ始めた。


イゼリオスの姿が次第に遠のき、彼の身体が元の世界へと引き戻されていく。

足元が淡い光に包まれ、風が彼を運ぶように身体を押し上げていく感覚が続いた。


「待て!まだ聞きたいことが――」


レヴァンの声が風の中に溶け込むように消えていく。


彼の言葉が届く前に、視界は純白の光に満たされ、耳には静寂が広がった。

それは、まるで世界そのものが彼を包み込み、新たな始まりを告げているかのようだった。



次に目を開けたとき、レヴァンはかつて風の扉が現れた場所に立っていた。

空は澄み切り、青く広がる天頂に柔らかな雲が漂っている。


先ほどまでの激戦と荒涼とした風景が嘘のように、草木が鮮やかに揺れ、風が穏やかに吹いていた。


「ここは……戻ってきたのか。」


レヴァンは呟きながら、自分の身体に意識を向けた。体中を包む感覚が確かに違う。

彼の手元の星紋が微かに光を放ち、風がその周囲をそっと撫でるように流れていく。


その風には、戦いを終えた彼をねぎらうような温もりと、再び立ち上がるための力強さが宿っていた。


地面に触れる足元はしっかりとしていたが、肩に触れる風がどこか優しい。まるで、見送る者の最後の手のひらの温かさのように感じられた。


「これが……新しい力か。」


レヴァンは剣を握り直し、胸に手を当てた。

その奥底に風の精霊との契約が刻まれているのを感じる。


イゼリオスから授けられた風の守護――それは単なる武器や術ではなく、彼自身の存在を一段階引き上げる感覚だった。


目を閉じると、風がすっと耳元を通り過ぎ、周囲の気配を伝えてくる。

それはただの風ではなかった。


遠くに鳥が羽ばたく音、風に揺れる葉のささやき、そして草の中を小さな生き物が跳ねる微かな振動さえも、彼の感覚を通じて伝わってくる。


「風の守護……こういうことか。」


彼は呟き、軽く息を整えた。戦いで消耗した身体が、風の癒しの力によってゆっくりと回復していくのを感じる。傷ついた筋肉は熱を帯びたような心地よい感覚で再生され、疲労で曇っていた頭が澄み渡る。


太陽の光が草原に注ぎ、木漏れ日が彼の足元に模様を描く。



風がふわりと彼の髪を揺らし、耳元でささやくような音を立てた。

その風はどこかでイゼリオスの声を含んでいるように感じられた。


「必ず、この力を活かしてみせる。」


その言葉は、自分自身に向けた決意であり、イゼリオスとの契約への誓いだった。


レヴァンは一歩を踏み出し、前へと進む。その足取りは確かで、肩には新たな力を背負う重みを感じていた。


背後では、風が再び優しく舞い、草原を駆け抜けていく。

その音はどこか励ますようであり、次なる戦いに向かう彼の背中を押すようでもあった。



レヴァンは再び歩き出した。


その道がどれほど困難であるかは、まだわからない。だが、イゼリオスと結んだ契約が彼に新たな力を与えた以上、彼には成すべきことがある。


「この力で守るべきものを見つける。そして、記憶を取り戻し、約束の地を目指す。」


力強く呟くと、風がその言葉をさらって空へと昇っていった。

それは、彼の決意を天地へと伝えるかのようだった。


日差しが降り注ぎ、彼の影が大地に伸びていく。

レヴァンの旅路は、ここからまた新たに続いていく。

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