8-2 風の扉ー試練への入口
夕日が山間に沈みかけ、森の木々が橙色(だいだいいろ)に染まる頃、レヴァンは野営地の準備を整え始めていた。
空が茜色あかねいろから紫色へと変わり、わずかに冷たい風が肌を撫でる。
焚き火を囲む準備を進める手を止めて、彼は一瞬その光景に見惚れた。
「いつ見ても、こういう景色は特別だな。」
自然と漏れた言葉が静かな空間に響く。
森全体がまるで生きているかのように呼吸し、遠くから聞こえる鳥の囀りと木々の葉が揺れる音が、夕暮れの静寂を引き立てていた。
焚き火を起こすと、燃え上がる炎が周囲を赤く照らし始めた。
レヴァンは地面に腰を下ろし、ゆっくりと手元の剣を点検しながら、これまでの旅を振り返った。
星喰いとの絶え間ない戦闘、仲間との出会いと別れ、そして記憶を失った自分自身への問い。
約束の地――その言葉は彼にとって唯一の目的地であり、同時に未だ手の届かない謎の象徴だった。
「何が俺をそこへ導いているのか……まだ分からない。」
レヴァンは呟きながら、炎に映る自身の影を見つめた。
その影は、まるで答えを持っているかのように揺らめいていた。
空腹を感じたレヴァンは、ヴェイルステッドに積んでいた食料袋から干し肉、パン、果物を取り出し、小鍋に水を注いでスープを作り始めた。
焚き火の上で小さな鍋が音を立て、立ち上る湯気と共に心地よい香りが漂い始める。
夕焼けの中で食事の準備をする時間は、戦闘の緊張から解放されるわずかなひとときだった。
干し肉を火で炙り、パンに挟んで一口かじる。肉の塩気とパンの素朴な味わいが疲れた体に染み渡った。鍋のスープも程よく温まり、彼は木のスプーンでそれを口に運ぶ。
「こうして静かに食事を取れるだけで、幸運だな。」
レヴァンはそう呟くと、手元の果物を取り出し、甘酸っぱい味わいを楽しんだ。
食事を終え、焚き火の炎が弱まり始めた頃、ヴェイルステッドが低い声で鳴いた。
レヴァンは振り返り、そのたてがみを撫でながら微笑む。
「今日はありがとう。お前も少し休んでおけよ。」
ヴェイルステッドは、彼の言葉を理解しているかのように静かに目を閉じた。
焚き火の傍らで横になりながら、レヴァンは明日への準備を心の中で整理した。風の祠という目標は、単なる手掛かりではなく、彼の記憶の一部を取り戻すための鍵であるように思えてならなかった。
森の夜風が、涼やかな手でレヴァンを包み込むように吹き抜ける。
葉がそよぐ音は、ささやきのように耳をくすぐり、どこか安らぎを感じさせる。それでも彼の心の奥底では、次の試練に対する緊張と覚悟が渦巻いていた。
焚き火はすでに小さくなり、赤い残り火が静かに揺れている。
――夜空には無数の星々が瞬き、森全体を柔らかな光で照らしていた。
その光景は、一見して平和そのものだったが、レヴァンの目はどこか鋭く、遠くの闇に注意を向けていた。
「本当に、これでいいのか……?」
彼は目を閉じ、静かに自問する。
記憶を失った自分が何者なのか、なぜこの道を進むのかという疑念が頭をよぎった。
だが、答えは明確ではない。それでも「約束の地」への手掛かりを求める意志が、彼を突き動かしていた。
「進むしか道はない。立ち止まることはできないんだ。」
自らに言い聞かせるように呟くと、彼の手が剣の柄を無意識に握りしめた。
剣の冷たい感触が、心をわずかに落ち着かせた。
これまでの戦闘や星喰いとの激闘が頭をよぎる。
その中で、自分の存在意義や、誰かに託された思いがあったのではないかという直感が彼を支えていた。
遠くで小さな動物が茂みをかき分ける音がした。
目を閉じているヴェイルステッドが鼻をひくつかせ、わずかに首を動かしたが、襲撃される心配がないことを理解しているのか、再び安らかな表情を浮かべた。レヴァンはその様子を見て微笑む。
「安心しろ、周りに肉食動物はいない。ゆっくり休め。」
彼はヴェイルステッドのたてがみを軽く撫でながら呟いた。
その瞬間、遠くの森でフクロウが鳴き声を上げた。
その響きが森全体に広がり、静寂の中にささやかな命の息吹を感じさせる。
レヴァンは焚き火の残り火に小枝を足して火を少しだけ大きくした。
揺れる炎が彼の顔を照らし、その瞳には確固たる決意が宿っていた。
「風の祠が俺に何をもたらすのかは分からない。だが、進むことでしか見つからない答えがあるはずだ。」
その言葉を胸に刻むように、彼は横たわり、空に広がる星空を見つめた。
無数の星々はまるで彼の行く手を示すように輝いていた。
風が再びそよぎ、森全体が彼を包み込むかのように静かに呼吸している。
眠りにつく直前、レヴァンの意識は半分夢の中に沈み込みながらも、次の一歩を踏み出すための計画を練り直していた。どの方向に進むべきか、どんな障害が待ち受けているのか。そして、試練に挑む覚悟が彼の心の中で静かに燃え上がる。
「明日、また新しい一日が始まる。」
彼の瞳が静かに閉じると、焚き火の炎も彼の意識に寄り添うように、心地よい音を立てながら揺れていた。
星空の下、森は再び静寂に包まれ、次なる冒険への幕が静かに開こうとしていた。
――次の日、山道を越えたあたりでレヴァンの目に映ったのは、何かを荒々しく引き裂く星喰いの姿だった。
巨大な鳥型の星喰いが鋭い爪で獲物を捕らえ、くちばしで貪っている。
周囲には小型の星喰いが群れをなしており、その動きは狩りの達人を思わせた。
「手強そうだな。」
レヴァンはヴェイルステッドから降り立ち、腰の剣を抜いた。
風の星紋術を発動させると、空気が彼の周囲で渦を巻き始める。
小型の星喰いがいち早く彼に気づき、牙を剥いて突進してきた。
「風刃一閃(ふうじんいっせん)!」
鋭い風の刃が小型の星喰いを切り裂き、血飛沫が舞う。
続いて複数の鳥型の星喰いが空から襲いかかってきた。
その巨大な影が彼を覆い尽くす。
「飛んでくるなら、こっちも対抗してやる!」
レヴァンは風を利用して跳躍し、鳥型の星喰いに向かって一直線に剣を振り下ろした。
「烈火嵐撃(れっからんげき)!」
風と炎が融合した一撃が炸裂。
鮮やかな炎と風の渦が巻き起こり、黒焦げになった星喰いを地面に叩き落とした。
「次!」
星喰いの群れを相手に、彼の剣技は冴え渡った。
彼は周囲の敵を一掃し、最後に鳥型の星喰いを仕留めると、荒い息をつきながら剣を鞘に収めた。
「ここを突破したら、もうすぐ森だ。」
ヴェイルステッドの背に再び跨がり、レヴァンは次の目的地へと進んだ。
――昼過ぎ、森の入り口に到達したレヴァンは、その異様な静けさに思わず足を止めた。
太陽の光が木々の隙間から差し込み、地面に影を落としているが、まるで生命の気配が消えたかのように、風も鳥も息を潜めている。
「ここが……風の祠へと続く場所か。」
低く呟いた声が、静けさの中で重く響く。
レヴァンは手元の地図を広げ、確認を終えると一歩を踏み出した。柔らかな苔が靴底に絡みつき、足音が吸い込まれていくようだ。
森の奥に進むにつれ、周囲の雰囲気がますます異様になっていく。
太陽の光は木々の濃密な葉の間からほとんど遮られ、薄暗さが増してきた。
木の幹には、まるで何かに見つめられているかのような錯覚を覚えるほど不規則な模様の苔がびっしりと生えている。遠くで枯れ枝が折れる音がしたが、そこに動物の姿は見えない。
やがて、進行を阻むかのように立ちはだかる巨大な石碑が視界に入った。
表面は緑色の苔に覆われていたが、手で擦ると古代文字が浮かび上がった。
「風を称たたえる塔……」
レヴァンは、声に出して読み上げた。
その瞬間、石碑から放たれる微かな風が彼の顔を撫でた。
それはただの自然の風ではなく、どこか意志を持ったもののように感じられた。
「間違いない、ここだ。ここを中心に探索してみるか。」
彼は慎重に石碑の周囲を調べ始めた。
その先には、崩れかけた建築物の残骸が点在していた。
石材の角は時間の流れに削られ、滑らかになっているが、ところどころに古代の彫刻が残っており、かつての栄華を物語っていた。
レヴァンは、書き写した暗号を再び確認した。
“風の声を聞く者よ、西へ進め。静けさの中で木々が揺れぬ時、風の扉はその場を現す。”
暗号を頼りに探索を続けていると、まったく風が吹かなくなり音が消えるのを感じた。空気が揺れ動き、周囲の温度が下がった後、突然吹いた風が冷たさを帯びている。
「何かが……始まる。」
その場に立ち尽くしていると、レヴァンの星紋が淡い光を放ち始めた。
手元の星紋が淡く輝き、身体がその力に反応する。
「これは……?」
驚きの声が漏れる中、突然、空気が震えた。
低く重い声が彼の内面に直接語りかけるように響く。
「お前は誰だ?私の声が聞こえるのか?」
その声にはただならぬ威圧感が宿り、レヴァンは瞬間的に剣を握り直した。
背筋を冷たい風が駆け抜ける。
「試練を受ける覚悟があるか?」
声の問いは、彼の心に突き刺さった。
恐怖と疑念が一瞬心をよぎるが、すぐにそれを打ち消し、深く息を吸い込む。
彼は剣を握り直し、静かに答えた。
「俺の名は、レヴァン・エスト……試練を受ける。自分の力を試し、進むべき道を見つけるために。」
その答えに応じるように、目の前に巨大な扉が現れた。
扉は風を象徴する模様で彩られ、静かに輝いている。
中心から漏れ出る光は穏やかでありながら、どこか試すような鋭さを秘めていた。
扉がゆっくりと開くと、風が渦を巻いて彼の周囲を取り囲んだ。
風の力は次第に強まり、彼の身体を宙へと引き上げていく。
眩い光が視界を覆い、現実の輪郭が消え去っていく。
意識がふわりと浮かぶような感覚に包まれた後、目の前には広大な青空と風に揺れる草原が広がっていた。
草原の空気は澄み渡り、風が吹き抜けるたびに草木がささやき声のような音を立てる。
「ここが……試練の場所か。」
レヴァンが呟いた瞬間、再びあの声が響いた。
「その覚悟、確かめさせてもらおう。」
声と共に風が強まり、周囲の空気が鋭い刃へと変わっていく。
突如として巨大な竜巻が現れ、その中から無数の風の刃が放たれた。
レヴァンは剣を引き抜き、深く息を吸った。
「これが試練なら、全力で応えるまでだ!」
竜巻の中から放たれる風の刃が彼に襲いかかる。
一つ一つの刃は凄まじい速度で迫り、彼の体力と反射神経を容赦なく試してきた。
彼は風属性の星紋術を駆使して刃を弾き返すが、次から次へと襲い来る刃に圧倒される。
それでも一歩も退くことなく、レヴァンは剣を振り続けた。
風はただの自然現象ではなく、意思を持っているかのように動いていた。
それは彼の心の揺らぎや隙を探るような動きだった。
レヴァンはそのことに気付き、心を静める努力をした。
「この風……俺の内面を見ているのか?」
風の刃に翻弄されながらも、彼の瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
剣を握る手に再び力を込め、彼は次なる一撃に備えた。
試練の本質は単なる戦闘ではなく、精神の強さを問うものだと理解し始めていた。
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