第8話 新しい【ボク】の始まり

 「んっ……うぅ……」


 やわらかい陽の光に瞼をくすぐられ、意識がゆっくりと浮上していく。まどろみの中、ぼんやりとした感覚が全身を包む。寝具は驚くほどふかふかで、身体が沈み込むような心地よさがある。


「ふぁ……? あ……れ?」


 次第に覚醒していく頭に、ふと違和感がよぎる。


 ボクのベッド、こんなにやわらかかったっけ……?


 指先が触れたのは、今まで感じたことのない滑らかな布地。それに、微かに漂う空気の匂い――どこか清浄で、甘く落ち着く香りがする。


「ここは一体……?」


 まだ重い瞼をゆっくりと持ち上げると、目に飛び込んできたのは純白の天蓋てんがい。透き通るように薄いレースがかけられ、陽の光をやわらかく受け止めている。

 四方を囲むカーテンは、淡い金糸の刺繍ししゅうが施され、まるで神聖なまゆの中にいるような錯覚を覚えた。頭を少し動かせば、ふかふかの枕に頬が沈み、繊細な刺繍の施されたシーツが肌に心地よく馴染む。

 ベッドフレームは重厚な白木の作りで、彫刻が施された柱が天蓋を支えており、すぐそばにある木製のサイドテーブルには銀の水差しと陶器のカップが揃えられていた。まるで王侯貴族が使うような、上品で端正な佇まいだ。


 けれど、ここはボクの知る場所ではない。


「……ここは」


 とっさに自分の手元を見る。細く、白く、どこか頼りない指先。昨日までとは明らかに違う自分。


「そうだ、ボク…… 女の子になって……それで……」


 途端に、昨日の出来事が脳裏を駆け巡る。

 のスキルを授かって女の子になったこと――

 父上に蹴り飛ばされ、勘当されたこと――

 母上には『産まなければ良かった』と存在すら否定されたこと――


 すべてが鮮明によみがえる。思い返すだけで息が詰まり、喉がこわばるような感覚に襲われた。目の奥がじんわりと熱くなり、涙が込み上げそうになるけれど、唇を噛んで必死に堪える。だってもう、前に進むって決めたんだから……。


「ハリオン様、起きていらっしゃいますか?」


 そのとき、静かだった部屋に優しいノックの音が響いた。扉の向こうから落ち着いた女性の声が聞こえる。その声にはどこか慈愛を含んだ温かさがあった。


「……っ、は、はい……」


 少しかすれた声で答えると、扉が静かに開き、ゆっくりと一人の女性が姿を現す。


「おはようございます」


 優雅な動作で入室してきたのは、漆黒の修道服に身を包んだ、物静かな雰囲気の女性だった。穏やかな笑みをたたえ、ゆったりとした所作で部屋の中を歩いてくる。

 ベールの下からこぼれる淡いブロンドの髪は朝日を受けて優しい輝きを帯び、細く華奢な体躯と相まって、どこか神聖で触れ難い雰囲気がある。

 透き通るようなエメラルド色の瞳は理知的な光を宿しており、慈愛に満ちたまなざしをまっすぐこちらに向けている。その神秘的なオーラに、ボクは思わず息をのんだ。


「あ……お、おはようございます……」


 慌てて挨拶を返すと、彼女はベッドサイドに膝をつき、そっと手を差しのべた。その静かな動きには、息を呑むような気品と美しさがあった。


「ハリオン様……お加減はいかがですか?」

「は、はい。おかげさまで、だいぶ良くなりました」

「それは何よりです」


 彼女はほっとしたように微笑むと、ボクの額や頬に触れて愛おしそうに撫でる。そのまなざしは深い慈しみに満ちていて、まるで母親のような温かさを感じさせた。


「あの……あなたは?」

「申し遅れました。私は当教会で助祭を務めております、エヴァンジェリンと申します。気軽にエヴァと呼んでください」

「エヴァ……ンジェリン様……」


 その名を口にすると、彼女は柔らかく微笑んでうなずく。その穏やかな表情に、ボクのこわばった気持ちも少しずつ解けていく。


「“様”などつけなくても構いませんよ。私はただの助祭ですから。それよりも、どうかリラックスしてくださいね」

「え、えっと……はい。エヴァンジェリン……さん」

「はい、よくできました」


 ボクがまだ慣れない様子で彼女の名を呼ぶと、満足そうにうなずいて微笑む。その様子につられて、こちらも自然と笑みがこぼれた。


「さて! 今日も新しい一日が始まります!」


 エヴァンジェリンさんは両手を合わせながら、どこか芝居がかった口調でそう告げる。


「まずは朝の支度をしましょう。新しい環境に慣れるためにも、身だしなみを整えることが大切です」

「身だしなみ……?」

「はい。まだ男性の服を着たままですよね? それでは動きづらいでしょうし、教会で生活する以上、きちんとした身なりを整えていただかないと」

「え、えっと……で、でも……」


 自分の着ている服に視線を落とす。彼女が言うようにボクはまだ男の服を着ている。ひどくぶかぶかで、袖も裾も余って動きづらい。けれど……

 これを脱いでしまえば男としてのアイデンティティを失ってしまいそうで、まだ少し脱ぐのには抵抗があった。


「さあ、ハリオン様。お召し物を脱ぎましょう」


 だが、ボクが躊躇している間にも、エヴァンジェリンさんは手際よく服を脱がそうとしてきて――


「え、ちょっと……っ! だ、ダメぇ……っ!」

「大丈夫ですよ。ほら、ばんざーいして?」


 あっという間に上着を奪われてしまう。

 このままでは丸裸にされる! そんな恐怖に駆られて、慌てて服の裾を押さえるが、ボクの抵抗をものともせずにエヴァンジェリンさんは服を脱がせていく!


「や……っ! あ……っ!」

「ほらほら、大人しくしてください」


 もうだめだぁ……っ! と、諦めかけたそのとき。


バタバタバタバタっ!


 部屋の外から床板を踏み抜くような足音が聞こえ、大きな音とともに扉が開いた。


「聖女ちゃん、おっっはよう~~!!」


 勢いよく開かれた扉の向こうから飛び込んできたのは、明るい声。そして視界に入ってきたのは、エヴァンジェリンさんとは対照的に、元気いっぱいな少女。

 鮮やかな桃色の髪がベールの下から溢れるように波打ち、その動きに合わせて柔らかく跳ねる様子は、まるで春の風に舞う花びらのよう。

 大きく見開いた紅色の瞳は好奇心と楽しげな光を湛えながら、ボクをじっと見つめている。


「あれれ? お着換え中だったかな? まあいいや! ついに聖女ちゃんが目覚めたって聞いて、リエルちゃん登場ですっ!」

「リエル……! あなた、もう少し落ち着きなさいと何度言えば……」


 エヴァンジェリンさんが困ったようにため息をつくが、リエルと呼ばれた少女はまるで意に介さず、ずいっとボクに顔を近づけてくる。


「うっわぁ~! やっと会えた! ねぇねぇ、聖女ちゃん! 体調はどう? ちゃんと眠れた? それにしても、やっぱり噂どおりめっちゃ綺麗だね! 肌もツルッツルだし! 髪もふわふわで真っ白だし!」

「え、えぇっ!? ちょ、ちょっと……!」


 ボクは慌てて身を引くが、リエルさんはそんなのお構いなしとばかりに、ボクの髪をふわふわと触りながら目を輝かせる。


「ねぇねぇエヴァ! この子さ、絶対かわいい服が似合うよね!? フリフリのとか、リボンのとか! あ、でもシンプルなドレスもいいかも……よーし! 着せ替え大会決定ーー!! 大盛り上がり間違いなし!」

「着せ替え大会!? ちょ、ちょっと待ってください!」


 ボクの動揺をよそに、リエルさんは興奮した様子で手を叩いている。

 リボン? ドレス? 着せ替え大会!? いったいこの人は何を言っているんだ……。


「だって、せっかく女の子になったんだから、おしゃれしないと! それに聖女ちゃんもかわいい服に興味あるよね!?」

「い、いや、ボクは興味なんて……」

「え~、かわいい服を着ると気持ちも明るくなるのに! ほらほら、エヴァもそう思うでしょ?」


 リエルが勢いよく振り返ると、エヴァンジェリンさんは少し困ったように視線をそらし、小さく咳払いをした。


「まぁ、確かに、ハリオン様には教会での生活にふさわしい衣服を用意する必要がありますし……」

「でしょでしょ! なら、さっそく選ぼう! うーん、ピンク系もいいし、清楚な白も捨てがたいし……あぁでも淡いブルーも絶対似合う! ねぇねぇ、聖女ちゃんはどんなのが着たい?」

「え、えっと……!」


突然の質問に戸惑うボクの前で、リエルの目はまるで宝石のように輝いていた。


「うん、やっぱり全部試そう! まずは基本の修道服から!」

「えぇえええ!?」


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