25.虚仮< こけ >のカルマ

叶野かのう流? 古武術のくせに、空手家並みに当て身稽古ばっかりやってるっていう――あの叶野流?」


 俺が眉をひそめて聞いたのは、最初、聞き間違いだと思ったからだ。


 こんなところで『叶野流古武術』の使い手と邂逅するとは想像だにしていなかった。

 一度目の人生の最期――叔父との最後の会話に出てきた叶野流古武術とこんな場所で出会うことになるとは。『西府中市首無し女子高生事件』に叶野流古武術の使い手が関わっていたとは……。


 裏格闘界の魔術師・穂村泰親の戦歴を語る際に、叶野流古武術を外すことはできない。

 一度目の人生で俺が聞いた話じゃあ、無敵すぎて敵無しだった魔術師が数年ぶりに本気になれた相手が、叶野かのう兵真ひょうまなる叶野流古武術の使い手だったという話だ。


 俺の質問に叶野辰真は覇気なく苦笑する。


「当て身稽古ばかりじゃない。先祖が当て身の技術でいくつか武勲を立てたせいで、過度に重要視されているだけだ。捕手とりても、かえしも、叶野流の技術体系の柱だよ。当て身以外の奥義もあるしな」

「……寸勁すんけいを使うって噂を聞きましたけど」

「ほう? よく知っているな」

「俺が知っているのは、叶野流古武術を使う叶野かのう兵真ひょうまのことだけですがね」

「……兄だ」

「なるほど。でも、拳聖とうたわれた叶野兵真に弟がいるっていう噂は、とんと聞いたことがなかったですね」

「天才の兄に対して、不出来な弟だからな」

「不出来……じゃあ、叶野兵真ほどじゃないってことか」

「やれやれ。はっきりと言ってくれる子供だ。まあ、あの化け物と比較されて劣っていると評されても、それは違うなどとは口が裂けても言えないが」

「やれやれってため息吐きたいのはこっちですよ。ゲヘナにいる武術家が、まさか叶野流だったとは」


 それから俺は、抱いていた野間さんを地面に下ろし、野間さんと青木さんの前に出た。


「と、東悟くん――?」

「待って杵築くん。杵築くんが危ない思いして闘わなきゃいけない感じ? なんかわたし、あの人から敵意は感じなくて……」

「わからない。ただ……あれ相手に、背中は見せたくないかな」


 確かに叶野辰真に敵意はないように見えるが、俺たち武術家は本心をよく隠す。

 いきなり距離を詰められて野間さんと青木さんを殺されてはたまったものじゃなかった。


「……叶野さんはここで何を? 俺のクラスメイトが変態にヤられそうだったんですが?」

「私はアレがやることには口も手も出さない。今この時だって、この部屋の様子すべてがVIP相手に生放送されているらしいが、どうやって止めるかも知らない」

「……VIPが見たかったのは、美少女がレイプされたり、殺されたりする映像だったと思いますがね。男二人が向き合ってる映像じゃないでしょうよ」

「はははっ。確かにそれはそうだな」

「……それで?」

「……私は――待っていただけだ。私を止める者を、死をもって私を罰してくれる者を」

「意味がわからない」

「具体的に言えば兄を待っていた。あの人は本物の天才だが、変に潔癖だからな。私が婦女暴行や弱者の殺人に関わっていると知れば、間違いなく怒り狂う。怒り狂って、今度こそ私を殺してくれるはずなんだ」


 迷彩服の男――叶野辰真の言葉を聞いている間、俺は、この人って何歳なんだろう? とか変なことを考えていた。


 美しいと言っていい顔付きや若々しい肌を見る限り、大学生という歳ではないが、ほぼ間違いなく三十路には届いていないだろう。

 多分、二十七か八…………とはいえ、叶野辰真が纏う空気感に、覇気や荒々しさや内に秘めた野望といった若者特有の活力の要素は一切なく、どう見たってすでに枯れ果てている印象だ。


 とんでもない若作りの百歳と言われたって、信じてしまいそうな男であった。


「他殺願望? 兄に殺して欲しいと?」

「闘いの結果の死が欲しいだけだ。別に兄じゃなくても構わないが、あの人が一番確実だからな」

「……まだ若いでしょ。どうして死を?」

「……『道の先』がな、途切れてしまったからだよ」


 叶野辰真の言葉の意味がわからなくて首を傾げた俺。


 すると、軽くため息を吐いた叶野辰真が、こう説明してくれる。


「子供の頃から必死に叶野流を学び続けた。強い兄の背中を追い、稽古狂いと言われた兄よりも愚直に、ひたむきに、必死に稽古を続けてきた。それでも兄には遠く及ばなかった」


 俺にとってはそれだけで十分だった。

 それで『道の先が途切れた』という言葉の意味は十分に理解できた。


「なるほど。武術家人生の挫折で、ね」


 人によっては、そんなことで……と理解できないかもしれない。


 だが、『穂村泰親直伝の空手』にどっぷり浸かった人生を十年送ってきたからこそ、俺はよくわかっていた。武術家には二つのタイプがいることを。


 一つは、己の弱さを見つめ、昨日よりも強くあるために日々過酷な稽古を続ける武術家で。

 一つは、己が誰かよりも弱いことを認められないがために、日々過酷な稽古を続けて強くなるしかない武術家だ。


 ならば――叶野辰真は、間違いなく後者の武術家だろう。 


「私はな、武術の才能がとんと無いくせに、徒手格闘において自分より強い人間がこの世にいることが許せないたちなんだよ。それは、血を分けた兄弟だろうが例外じゃない」


 ほら、やっぱりだった。


 そして俺の人生経験上、そういう武術家は、大体ろくな人生にはならないのである。


「……二十五の冬だった。正真正銘、命を賭けて兄に勝負を挑み、コテンパンにされた。身体のどこも潰されることなく、優しく気絶させられるという最悪のおまけ付きだ」

「……なるほど。見た目よりも老けた印象を受けるわけだ……」

「ははは。まあ、それで絶望して家を出た。兄が殺してくれなかったから、せめて武術家と闘って死のうとな」


 つまるところ、叶野辰真の人生はもう終わっている。


 どうやっても絶対に超えられない兄――叶野兵真という存在がいる以上、叶野辰真が生きている意味が無いのだ。


 あとは、自分が納得できる死に場所を求めてさまよい歩くしかなかったのだろう。


「だが駄目だった。強い奴がいるという噂を辿ってあちこち日本中を回ってみたが、どいつこいつも私以下。もういっそのこと武術家じゃなくてもいいと、ちまたで『殺人兄弟』とか呼ばれていた殺人鬼を狙ってみたが、アレも私を殺せる器じゃあなかった」


「……………………」


 叶野辰真の『死への巡行』を思い浮かべて、俺は少し背中が寒くなる。


 常人には理解できない武術を手にしながらも生きる意味を無くしたびとが、強者を求めて寒々とした街をさまよい歩く……それは俺にとって、口裂け女や怪人赤マントなんかよりもよっぽどリアリティのある怪談で、その生き様を少しだけ美しいと思ってしまうのだった。


美玖みくと出会ったのは武術家探しの旅の途中だよ。勝手に付いてきた女ではあるが、路銀を集める商才があって、日々の世話もしてくれるから好きにさせていた」


 美玖? ああ、あの白い女のことか。


「そんなあいつがある時言ったんだ。殺人兄弟を上手く使ってこの世の悪辣あくらつを極めれば、私の兄が――叶野兵真が噂を聞きつけて、私を殺しに来るかもしれない、と」

「……………………」

「あの聖人君子が我を忘れて弟を殺すほどの、この世の地獄を創り上げよう、と」

「……それが、ゲヘナが生まれた経緯か」


 俺の静かな声。

 反面、叶野辰真の声には力がこもり始めていた。


「ああ。そして今回は実に運が良い。また女子供の血を見ることになるのかとうんざりしていたら、殺人兄弟がその腐りきった生涯の最後に、『叶野兵真の代わりになるかもしれない鬼』を連れて来てくれたんだからな――」


 そして、かすかに微笑んだ叶野辰真から。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 突然の殺気と拳気だ。

 視線が叶野辰真の両目から離れなくなり、背筋がビリビリ震え、肌があわつ。


「逃がすものか。私とお前の、どちらが死ぬかだ――」


 街のチンピラなんかじゃあ絶対に出せない本物の殺気だった。


 叶野辰真の殺気を不動明王の睨みだとすれば、街のチンピラの威嚇なんてぬいぐるみのつぶらなまなこ程度。それぐらい別次元の気迫だった。


「ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい――東悟くん、あたしにもわかるって。この人ってあの変態よりも、全然――」

「ごめん杵築くん、ごめんなさい。この人に敵意がないなんて言ったの……絶対間違ってた」


 殺気と拳気が直接向けられたのは俺一人だが、これだけの殺気と拳気だから、その余波は背後の野間さんと青木さんにも当然届いている。


「ご、ごめ――なんか、立てなくて――」


 二人とも腰が抜けてしまったのか、その場にへたり込んで、仲良く二人で抱き合っていた。


 だから俺は、動けない野間さんと青木さんを守るために一歩前に出る。

 誰もが憧れるクラスのアイドル二人に、鍛え上げた広い背中を見せる。


「……………………」

「……………………」


 自然体で立って相対した俺と叶野辰真。


 不意に、叶野辰真がもう一度名乗りを上げた。


「叶野流古武術、叶野辰真」

「……………………」

「名乗れよ。立ち会いの礼儀だぞ?」

「……空手術、杵築東悟」


 俺の名乗りが遅れたのは、ただ単純に『穂村泰親直伝の空手』の正式名称を知らなかっただけだ。

 叔父からにはいつも『ただの古流空手だよ』とはぐらかされてきたし、勝手に『穂村流空手』とか言ったら叔父から怒られそうだな……なんて考えていただけだ。


 俺の名乗りを聞いて、叶野辰真が初めて生き生きと笑った。


からどう』じゃないんだな」


 それで俺も、「術しか教えてもらってないからね」と笑う。


 俺の返事が死人が生き返ってしまうほどにおかしかったのだろう。叶野辰真がいきなり大口を開けて、天井を仰ぎ、大爆笑し出すのだ。


「はははははははっ! 『みち』は不要か!」


 叶野辰真があまりにも嬉しそうに笑うものだから、自然と俺の意志と身体にも熱が入っていた。

 ゲヘナの映像作家を叩きのめした時の『邪悪な笑み』が、勝手に顔に宿っていた。


「ほう――」 

 叶野辰真が驚いた顔をして、ぴたりと笑いを止める。


 一方で俺は、叶野辰真と目を合わせたまま、悪魔のごとくニヤニヤ笑い続けていた。

 笑い続けたまま、心からの言葉を紡いだ。


「俺はね、人に恐れられ、心底から凄いと思われたいんだよ。――クラスのアイドルに、強すぎるからと引かれたり、涙目で頼られたり。粋がった悪党どもの鼻をへし折ったり。我こそが最強レベルと確信してる奴に、こいつには敵わないと絶望させたり」


 あまりにも俗物が過ぎる俺に、叶野辰真は「はあ――?」と一瞬声を失ったし、野間さんと青木さんだって俺の背後で俺の本心を聞いていることだろう。


 しかし――俺は、喉と舌と唇を止めなかった。


「こけの一念でここまで来たんだ」


 今日ここで死ぬかもしれないのに、これまでずっと隠し続けてきた本心を誰にも打ち明けないなんて、実にもったいない話だった。


 どうせなら野間さんと青木さんにも届いて欲しくて、『決心の宣誓』には、ことさらの力を込めるのだった。


「これが俺だ。俺の進む道は、ずっと虚仮こけの道でいい」


 背後にいる野間さんと青木さんの表情は見えないが、叶野辰真の顔は見えている。


 あれほど『行き先を失って死人のように沈んでいた顔』が――ニチャリ――俺のように大きく口を裂いて笑うのだ。


 俺も、叶野辰真も、おのが五体を支配する暴力性を存分に発露させていた――――


「業が深すぎるぞ悪鬼ぃ!!」


 踏み込みは叶野辰真が先だ。

 だが身長タッパは俺の方がある。


 動き出しの一秒後――――双方の打撃が届く間合いに侵入した俺と叶野辰真は、まったく同時に右拳を飛ばし、まるで己が打撃の威力を相手に知らしめるようにお互いの左胸を打った。


 そして知るのだ。

 相手の打撃の威力と恐ろしさを。この死合しあいに時間はそれほどいらないことを。


 お次は――――――――お互いの歩法の披露し合い。


 というか、俺も叶野辰真も、相手の死角に位置取ろうとしていただけだ。


 お互いがお互いの一番嫌なと、踏み込みと、退き下がりと、回り込みで動き続けるから、ダンスステップを踏んでいるみたいになっただけの話。


 俺が無理矢理踏み込んで、飛び込みの上段追い突きを放てば――


 頬が深く切れて血が弾けるほどに引き付けてかわした叶野辰真が――中段回し蹴り。


 メギィッ。


 俺の腹辺りから重たい音が聞こえるものの、それは俺の内臓が壊された音ではない。


 ――俺の肘が叶野辰真のすねをしっかり受けている――


 今の音は、叶野辰真の骨と前脛骨筋ぜんけいこつきんが軋んだ音だった。


「ちぃっ」


 蹴り足を引いた叶野辰真がバックステップを踏もうとするが、軋んだすねじゃあ、コンマ何秒かは動きが鈍る。

 叶野辰真との距離を完全に潰す俺の踏み込みに対応することはできなかった。


 ――――――――


 俺が見下ろし、叶野辰真が見上げる。まるで身体を寄せて見つめ合う恋人のような至近距離だが、俺がくれてやるのは親愛の囁きじゃない。


 叶野辰真のあばらぼねにヒビを入れる、超至近距離からの中段ちゅうだんかぎきだ。


「おぐっ――!?」


 衝撃が肺まで入って叶野辰真が鳴いたが、さすがは魔術師・穂村泰親にも通用したという叶野流古武術。脇腹にめり込んだ俺の拳を両手で即座にるなり――腕一本を持っていく関節技――わきがためを決めてくる。


 かぎきに使った腕を一直線に固められ、無理矢理前のめりにさせられた俺。


 このまま完全に押さえ込まれれば腕一本が犠牲になるが――――――――俺は、俺を床に押さえ込もうとしてくる叶野辰真の力を利用して、その場で『前方抱え込み宙返り』を決めた。


 結果、押さえ込む俺の身体が消えた叶野辰真は体勢を大きく崩し。


 ――――


 俺は腕を引き抜くことに成功。

 しかも、下になった叶野辰真の身体に寄っ掛かるようにして楽々着地を決めるのだ。


 俺に体重を掛けられた叶野辰真は、一歩、二歩と、大きくつんのめってしまった。


 当然、その隙を逃す俺ではない。

 ほとんど無防備な格好の叶野辰真の首を薙ぎ払う、最大威力の回し蹴り。


 慌てて振り返っただけの叶野辰真じゃあ何もできない。そう思ったが――――――叶野辰真は、膝も大腿だいたいも動かさずに、『膝下の筋肉のみを使用』という最小限の動きで大きなバックステップを決めたのだ。


 正直驚いた。俺が見たことも聞いたこともない叶野流古武術の歩法だった。


「はあ、はあ――」


「はあ、はあ――」


 それで一度距離ができた俺と叶野辰真。


 叶野辰真が笑って言ってきたから、俺も笑って応えてやる。


「恐るべし。恐るべしだな空手術!」

「叶野流もなかなか」

「師は聞かんぞ! お前が強い!」

「どうも」


 俺と叶野辰真は笑い合ったまま、同時に踏み込み――――――――それから先は、長い長い打撃戦だ。


 中段追い突きは当てた――


 上段肘打ちは避けられた――


 一本拳の顔面急所打ちは弾いて外した――


 内股への下段蹴りはくらった――


 正拳下突きは深く刺した――


 鉄槌てっついこつちは上段受けで防がれた――


 腹部へのぬきは上半身だけ大きく引いて威力を殺した――


 中段前蹴りは回り込んでかわされた――


 飛び上段回し蹴りは防御が間に合ったが腕が軋んだ――


 抱え込み中段膝蹴りは叶野辰真のうめきを響かせた――


 苦しまぎれの下段回し蹴りは綺麗にすねで受けて中段回し蹴りを返した――


 中段への打撃をフェイントに使った目突きは読んでいた――


 手刀首打ちはすんでで避けられた――


 金的蹴り上げは掌底打ちで潰した――


 上段裏拳後ろ回し打ちは叶野辰真の鼻先にしか届かなかった――


 上段飛び膝蹴りは――


 手刀顔面横打ちは――


 胴回し回転蹴りは――


 上段追い突き――


 寸勁すんけい――


 上段回し蹴り 中段鉤突き 上段縦肘打ち 山突き 飛び回し蹴り 下段回し蹴り 飛び上段横蹴り 上段正拳逆突き かぶせ突き 中段回し蹴り 金的蹴上げ 下段掌底打ち 貫手喉突き 上段飛び後ろ回し蹴り 上段掌底打ち 上段前蹴り 三日月蹴り 上段追い突き 中段膝蹴り 鉄槌アバラ打ち 正拳下突き 足刀関節蹴り 足刀飛び蹴り 飛び脳天手刀落とし 中段回し蹴り 上段縦拳突き 寸勁 上段手刀薙ぎ 金的膝蹴り 正拳上げ突き 上段裏拳 鉄槌顔面打ち 手刀顔面打ち 上段正拳突き 中段回し蹴り 足刀二連蹴り 正拳鉤突き 中段前蹴り 上段飛び膝蹴り 正拳下段突き 中段後ろ回し蹴り 回転足払い 下段踵蹴り 中段前蹴り 飛び込み上段肘打ち 中段鉤突き 上段掌底回し打ち  中段鉤突き 寸勁 両鉄槌アバラ打ち 中段後ろ蹴り 喉突き 中段掌底回し打ち 上段内回し蹴り 中段前蹴り 足刀飛び蹴り 目突き 引き寄せ上段肘打ち 上段縦肘打ち 中段肘打ち――――――――――



 ――――秘拳――――けん残月ざんげつ――


 

 それは俺の殺意すべてを込めた上段正拳突きだった。


 俺も、叶野辰真も、ここまでの攻防で血だらけだし、身体中あちらこちらが軋みに軋んでいる。双方が決着の時を感じ始めている。


 優勢なのは俺で、劣勢なのが叶野辰真だ。


 だから俺に削られ続けた叶野辰真は、常に逆転の策を講じ、必死に逆転の機会を探し――――死合しあいの決着を狙って放たれた、最速・最高威力の上段正拳突きを決して見逃さない。


 この時のためだけに温存していた叶野流のカウンター技術を放とうとして。


 ――ミシィッ――


 俺の上段正拳突きではなく、俺の『中段回し蹴り』が、知らない間に脇腹にめり込んでいることに心底驚愕するのだ。


 ――本物の殺気にて仮初めの打撃を本物に見せることこそが、けん・残月――


ぃぃぃりゃああああああああっ!!」


 残月によって隠された中段回し蹴りは決着を告げる一撃ではないが、叶野辰真の脇腹に深く深く斬り込んで、叶野辰真の動きを止めた。決着の打撃を打ち込む隙となったのだ。


 決着は――――叶野辰真の両胸への、正拳五連撃。


 死合しあい序盤に中段ちゅうだんかぎきでヒビを入れ、打撃の応酬の中でも散々に痛めつけていた肋骨ろっこつほとんどすべてを、最後の最後でメチャクチャに割り砕いた。


 左右の肺に折れた肋骨ろっこつが何本も突き刺さり、心臓さえも引き裂いていく。


「う――――――――――お――――――――――――」


 叶野辰真が声にならない声を上げ、いきなり力なくよろけて一歩、二歩、三歩、四歩と後退。やがて白いフロアの白い壁に辿り着いて止まった。


「……………………………………」


「……………………………………」


 そして、追撃しなかった俺と、膝を折らなかった叶野辰真が静かに向かい合う十数秒間があり。


「おえ゛――っ。おえ゛え゛え゛え゛――」


 叶野辰真がひどく湿った嘔吐えずきで吐き出したのは、胃の内容物なんかではなく、真っ赤な血の塊だった。

 『叶野辰真という人間の命の塊』だった。


 ベチャッ。


 大きな血溜まりが床に広がった音こそが、俺と叶野辰真の闘いの決着を告げるゴングだろう。


「はあ、はあ、はあ――――」

 死合しあい中ずっと全力駆動していたせいで、一度ちゃんとした呼吸を入れたら、一気に呼吸が荒くなってしまう俺。


「はあ、はあ、はあ――――」


 俺は荒い呼吸を晒しながら……………………叶野辰真が血反吐を吐いた瞬間、これ以上俺が攻撃するのを止めようとした野間さんと青木さんにしがみつかれている。


「東悟くんっもういいよぅ……っ。もう――もう終わってる、から……っ」

「お願いだからもうやめて。この人はきっと助からない。杵築くんが、最後の一撃を加える必要はないのよ」


 俺の罪を少しでも軽くしたいという、二人の思いやり。


 しかしそんな野間さんと青木さんの優しさを、壁をズルズルと滑ってその場に座り込んだ叶野辰真が笑った。


「どうした悪鬼? そんな女ども振り払って、私の命を取りに来いよ。とどめを、刺せ」


 俺は動かなかった。


「……………………………………」


 ただただ無言で、野間さんと青木さんに強く抱き付かれたまま、致命傷を負った叶野辰真の青い顔をじっと見つめていた。


「なぜわらう……?」

「……………………………………」


 笑っているつもりなど毛頭ないが、俺をじっと見上げている叶野辰真がそう言うなら、俺は今笑っているのだろう。


 叶野辰真の瞳に俺の顔が映っていないか目を凝らしてみても、結局よくわからなかった。


「ガハッ――。おえ゛――」

「……………………………………」


 またも大量に血を吐いた叶野辰真を見つめ続けているのに、何も言わず、動きもしない俺の真意を、叶野辰真は彼なりに考えていたようだ。


 そして、不意に思い付いてしまった嫌な考えを、力なく口にする。


「まさか……まさか、私の息が終わるのをそこで眺めて待つ気なのか……? 私が、お前を『甘い男』と言った、その意趣返しに……?」


「……………………………………」


 俺はまた何も言わなかった。


 しかし叶野辰真は、「この、悪趣味め――」と、少し嬉しそうに笑った。


 …………………………………………………………………………。


 …………………………………………………………………………。


 沈黙がしばらくあり――やがて叶野辰真が、自らの両手を、自らの顎と脳天にあてがってからこう言う。


「いいだろう。ならば、叶野辰馬最後の抵抗を、最後の技を見せてやる……」


 ――自害――


 笑っているという俺にこのまま看取られることを拒んだのは、最期の尊厳を保つためか。それとも叶野辰真なりのケジメだったのか。

 その真実を知る機会は、もうない。


 ただ――


 ただ、叶野辰真が自分自身に『首挫くびくじき』を掛けて首の骨を砕く瞬間――死を望み続けたびとは、本当に嬉しそうに微笑むのだった。


「地獄の、鬼め――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る