3.小学一年生:魔術師入門

「ヒーローごっこなら修悟さんにやってもらえ。僕は忙しいんだ」


 一風変わった――と言うにはあまりにもヘンテコな、叔父の家の間取り。

 一階には風呂もなく、トイレもなく……玄関を開けると、そこには一面の板間だけが大きく広がっているのだ。


 ひどく巨大でいかにも重そうなサンドバッグが、天井から吊るされて床に直置きされていて。

 分厚い角材を荒縄でぐるぐる巻きにしただけの物体が壁に据えられていて。

 壁際には、一つ三十キログラムはありそうなダンベルとか、片側の先端にだけ大きなコンクリート塊が付いた木棒とか、口が広めのかめといった鍛錬器具の類いがずらりと並んでいて。


 それは居住スペースではなく、立派な空手の道場だった。


 そんな場所で。

「ごっこじゃないよ。ちゃんとね、空手を教えて欲しいんだよ」

「嫌だね。なんの興味かは知らんが、これ以上姉さんに怒られてたまるか。さっきも怒鳴られたんだぞ」

 俺は、七歳の歩幅で三歩離れて、Tシャツ・ハーフパンツ姿の叔父を見上げている。


 西暦二〇三六年の叔父も相当若作りだったが――西暦二〇〇六年――三十路(みそじ)の叔父の身体には、人類には不必要と思えるほどの、熱とみずみずしさと怖さが備わっていた。


 身長は百九十センチ近く。体重は、脂肪の少ないアスリート体型なのに、多分百キロ超。


「おじいちゃんのお葬式の時だって、どこかで闘ってたんだよね? かっこいいなぁ」

「……いいからもう帰れ。子供は寝る時間だ」


 午後八時。板間にはしっかりエアコンが効いているが、叔父は汗だくだった。


「空手を教えるって約束してくれるなら帰るよ」

「首根っこを引っ掴んで、姉さんに戻してもいいんだぞ?」


 張りのある肌からしたたり落ちる汗。

 空手の稽古中に押しかけたのだから当然だろう。


 いや……違う。当然ではない。

 叔父は空手の型を稽古していたのだが、明らかに汗をかきすぎている。息が上がりすぎている。

 まるで死力を尽くした実戦の直後のようだ。


 たかだが『型稽古なんか』でここまで疲弊するものだろうか……?


 やはり――だ。

 やはり――穂村泰親の空手は何かが違うのだ。


 俺が身に付けるべき『力』は、『穂村泰親の空手』以外にはないと、たった今、再確認したからこそ――叔父を逃がすまいと可愛く首を傾げてみる。


「なんで教えてくれないの?」

「面倒くさいからだよ」


 俺を見下ろす叔父は分厚い右手を腰に当てて、大きなため息を吐いた。


「甥っ子とはいえ、誰かのために時間を使うのが面倒くさいし……姉さんに『余計なことを』って怒られるのも面倒くさいんだよ。僕じゃなくて、普通の空手教室に通いなさい」

「え〜〜」

「え〜、じゃない。ゲーム買ってやるから」


 つれない返答。

 しかし、そんなこと予測済みの俺に焦りはなく、くすりと鼻で笑うのだ。


「シスコンの叔父さんにとって、悪くない話だと思うけどなあ」


「……ちっ……どこで言葉を覚えたんだか……」


 あえて七歳らしくない含みを持たせた口振りで叔父の関心を引くと。

「昨日ね、お父さんとお母さんが話してたけど――この街でね、強盗ゴートーってのがあったんだって。おばあさんが死んじゃったんだって」

 嘘偽り百パーセントの、口から出まかせだ。


 どうせ今日家に帰ってきたばかりの叔父のこと、この街の状況に精通しているわけがない。物騒な事件なんて大体いつもどこかで普通に起こっている。


 だから俺は、叔父の説得のためにと、ありもしない凶悪事件だってでっち上げるのだった。


「叔父さんって、いつも家にいないよね」


 かすかだが、俺の言葉に叔父の眉がピクリと動いた。


 痛いところを突いたと思ったから、俺は妖しい笑みと可愛い声色でこう言葉を続ける。

「それでボクのお母さんを守れそう? もしもボクの家にも強盗ゴートーが来ちゃった時、お母さんが怖くなっちゃわない?」


 無敵の穂村泰親は、重度のシスターコンプレックスだ。


 四歳離れた実姉――俺の母親のことが好きでたまらなくて、心配でたまらなくて、隣に家まで建ててしまった始末。

 姉の言うことには基本逆らわないし、そもそも空手を始めた理由だって、『とある厄介な揉め事から姉を守るため』と聞いたことがある。


 そんな叔父に、俺は、母さんが強盗に襲われたら? と問うた。殺されるかもしれないし、犯されるかもしれないし、と想像させた。


「でもさ、ボクが叔父さんの空手を覚えたらさ、ちゃんとお母さんを守ってあげられるよ。お母さん、お昼は仕事だし、夜はいつもボクと一緒だもん」


 そして、無邪気に、自信満々にこう言う。


「お母さんはボクに『優しくなってね』って言うけど、強盗ゴートーの方がずっと強いもんねえ」


 ちょっとばかし自信満々すぎて、子供離れしすぎた顔をしているかもしれなかった。


 力なき正義が無力というのは、力を持つ叔父にとって実に身に染みた話だろう。

 どれだけ優しくとも、どんなラブコメストーリーの主人公だろうとも、実行力を伴った悪意に狙われれば哀れに蹂躙されるのが現実だ。

 警察が四六時中守ってくれることもない。


 ――だから、野間さんと青木さんも無惨に殺された――


 叔父は俺の顔をまっすぐ見下ろしつつ。

「……誰だ、お前」

 静かにそう呟く。まるで裏格闘界の強敵を見つめるような真面目な目付きで、少なくとも甥っ子を前にした態度じゃなかった。


 反面、俺はニコニコ笑って愛嬌抜群だ。

「トーゴだよぉ。杵築東悟。ソダチザカリ? って言うのだから、わかんなくなっちゃった?」


「……………………」


 二十秒近くの沈黙のあと、不意に叔父の口元が弛んだ。

「七歳のガキが、笑って僕を脅すかよ……」

 唇の片側だけを持ち上げる形で白い歯を見せて、悪魔みたいなだいぶ悪い顔だ。


 そのままの顔で太い首筋をぽりぽり掻きつつ、「四代前といい、クソジジイといい、僕といい――穂村の家に、また変人か」なんて、大笑いを押し殺したかのような上擦った声。


「……………………………………」


 また黙った。口端が耳まで伸びた笑顔で俺を見つめたまま、さっき以上に長く黙った。


 ……十秒を数え。


 …………二十秒を迎え。


 ………………三十秒に達し。


 やがて、ひどく怖い笑顔を崩すことなく、くすくす笑いと共にこう言う。

「東悟が姉さんを守り切れるとは思わんがよ、お前が何をするつもりか、僕の空手がお前を何者にするのか――面白そうだから一つ協力してやる」


 その言葉に今度は俺が笑いを強める番だ。


「姉さんはお前が説得しろよ」


 そう言われた時には歓喜の絶頂地点だったし。


「やるだろう? バケモノ小学生?」


 当然至極、当たり前のことすぎて、やるかどうかなんて聞いて欲しくはなかった。


 俺が穂村泰親と同じ技術を身に付ける――きっと、母さんはひどくひどく悲しむだろう。


 ――心底どうでもいい――


 母さんにどれだけ嫌がられようが、どれだけ泣かれようが、別段どうでもよかった。

 母さんが泣くことのない優しい男の人生はもうやった。その結果、俺はヒーローになりそびれた。


 一度目の人生では、親父と一緒に母さんの最期を看取った俺だ。

 あの人がどれだけ俺を愛し、どれだけ俺に弱いかは、骨身に染みてよくよくわかっている。

 俺の人生を左右するワガママに、首を縦に振らせるなんてこと……多少手こずったとしても、確実な勝利が見えている確定事項でしかなかった。


 ――――――


 ニチャリ、と大きな笑顔が出ないわけがない。


「わかった。行ってくるね」

 そう言って踵を返した俺を、「ちょっと待て」と呼び止めた叔父。


「お前な、その顔、邪悪すぎるから気を付けた方がいいぞ」


 ありがたい忠告だった。

 確かにこんな『歓喜と邪心まみれの笑顔』で母さんに突っ込んだら、何事かと警戒されるかもしれなかった。


 本当にありがたいと思ったから、俺も叔父に一つ忠告する。

「叔父さんも、その顔、絶対にお母さんに怒られるよ?」


 多分、俺は今、穂村泰親とまったく同じ顔で笑っているのだろう。

 顎を引いて、口端を最大限伸ばして口をパカリと開けて、大きく持ち上がった頬のせいで両目を三角形にして――


 鬼や悪魔だって引いてしまうような欲望まみれの笑顔。


「ったく、ガキのくせに悪い顔をしやがって」

「えへへぇ♪ 嬉しいと、こんなふうに笑っちゃうんだぁ」


 エアコンの駆動音をうるさいと思うほどに静かな部屋。


 変態が二人、互いを見合って笑い合っていた。

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