第2話

エピソード1



エピソード1(森博嗣風改訂版)


朝の教室は、いつものようにどこか軽薄な空気が漂っていた。教室という空間が持つ特有の閉塞感は、時間の流れを歪める。

窓際の席に座る相沢アイは、手のひらで顔を覆いながら机に突っ伏していた。隣の席の誰かが笑っている。前方では教師が声を張り上げている。アイにとって、そのすべてがノイズだった。


「ねえ、アイちゃん、宿題見せてくれない?」

唐突に声がかかり、アイはうっすらと顔を上げる。目の前に立っているのはコユキ。彼女の口元には小さな笑みが浮かんでいる。その笑みは、相手の拒絶を一切想定していない種類のものだ。


「……どうして私に頼むの?」

アイはゆっくりとした口調で尋ねた。


「だって、アイちゃんって頭いいじゃん。全国模試で一位とか、すごいよね!」

コユキは冗談めかして言うが、その声にはどこか打算が混じっている。


「……それがどうしたの?」

アイは目を細めながら返した。その声には熱がなかった。コユキの頼みごとに対する苛立ちではなく、単純にすべてに興味を失っているだけのようだった。


コユキは少し困った顔をしたが、すぐに笑みを浮かべ、軽く肩をすくめて席に戻っていった。アイは再び机に突っ伏す。彼女にとって、このやり取り自体が煩わしいものだった。


授業が始まると、アイはさらに自分の殻に閉じこもった。教師の声が教室中に響くが、彼女の耳には届かない。

窓の外に広がる冬の空。曇天の薄い光が教室に差し込む。その光さえ、アイにとっては不快だった。


「……どうして、こんな無駄な時間を過ごさなければならないの?」

アイは心の中で呟いた。教室に座っている時間は、彼女にとって浪費そのものだった。教師が説明する内容はすでに理解しているし、試験対策なら自宅で参考書を開く方がはるかに効率的だ。


全国模試で一位を取ったときも、学校の授業は役に立たなかった。ただ分厚い問題集と向き合い、その解説を何度も読み返した。それだけだった。


「相沢さん、次の問題を解いてみてください。」

突然名前を呼ばれ、アイは顔を上げた。視線が一斉に彼女に向けられる。

前方に立つ教師の目には、期待というよりも試すような冷たさがあった。


アイは無表情のまま立ち上がり、黒板に向かう。出された問題を見た瞬間、それがいかに簡単かを理解した。だが、彼女は意図的に答えを間違えた。


「全国模試一位が間違えるなんて!」

誰かの笑い声が後ろから聞こえる。アイは無言で席に戻り、机に視線を落とした。


昼休み。アイは校舎裏の階段に座っていた。冷たいコンクリートの感触が彼女の背中に伝わる。

スマホの画面には、未読メッセージの通知がいくつも並んでいた。それらはすべて、つい最近別れた彼氏からのものだった。


「……もう、いいって言ったじゃん。」

彼女は小さく呟きながら、メッセージを一つずつ削除していく。彼のことを思い出すと、苛立ちと虚しさが交互に胸に湧き上がる。


彼の軽薄な態度。彼女の体だけを求める視線。それを思い出すたび、彼女は自分が利用されたような気分になる。


曇天の空を見上げる。灰色の雲が広がり、どこまでも続いているように見える。

アイは目を閉じ、小さく息を吐いた。その吐息が冬の空気に溶けていく。


「……ここじゃないどこかに行きたい。」

彼女は自分の中に芽生えつつある何かを感じていた。それは自由への憧れなのか、それともただの逃避なのか、自分でもわからない。


それでも、アイは微かに微笑んだ。どこかに希望がある気がした。

それを信じてみてもいいかもしれない――そう思えたのは、ほんの一瞬だった。

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