六月八日 孝雄、心臓が破裂しそうになる
いつの間にか、外はすっかり明るくなっていた。カーテンの隙間から射し込む光が眩しい。
塚本孝雄は奇妙な気だるさと心地よさとを感じながら、部屋の中を見回す。こんな気分は、本当に久しぶりだ。いつもなら覚醒剤の切れ目の時には不快感しかないのだが、今は何とも言えない満足感を味わっている……。
やがて孝雄は、部屋の隅に転がっていたペットボトルを手にした。ミネラルウォーターの入ったものだ。蓋を開け、一気に飲み干す。渇ききった体は、あっという間に水を吸収していった。
昨日、受け取った覚醒剤は間違いなく上物だった。少なくとも、自分が今まで射っていたものとはまるで違う。打った直後の感触から、はっきりとわかった。まさに、脳天を貫くような衝撃が走ったのだ。孝雄の頭に津波のような快感が押し寄せ、次の瞬間には仰向けに倒れていた。
混ぜ物が入っているネタの場合、こうはならない。酷い物だと、打った直後に違和感を覚える場合さえある。砂糖や塩、さらには水道水に入れるカルキなどでかさ増しされたものだ。
さらには、薬が切れた時……体に異常なまでの不快感を残すこともある。頭痛、四肢の痺れ、吐き気、悪寒、さらには筋肉痛といったインフルエンザのような症状が現れることも珍しくない。
だが、今回はそういった症状がないのだ。間違いなく上物である。これがグラム五千円なら、破格の値段だ。まさにお買い得である。
そして、孝雄は自身の幸運に感謝した。あの小津が入院し、一時はどうなることかと思ったのだが……むしろ、それから運は好転している。これだけ安いネタが手に入るのだから……。
今の孝雄の頭からは、ついこの間の不思議な出来事は消え去っていた。買った覚えの無いネクタイが、自分の部屋にあった事実。そんなものは、彼の頭からは綺麗さっぱり無くなっていたのだ。
実際には、何の解決もしていないというのに。
水を飲み終えた孝雄は、また覚醒剤を打とうと注射器に手を伸ばした。
注射器の針を自らの静脈へと突き刺す。そこから、覚醒剤の水溶液を一気に注入する──
直後に脳天を襲う、突き抜けるような快感……その口からは、あえぎ声のような音が洩れる。恍惚とした表情を浮かべ、孝雄は天井を見上げた。
だが、次の瞬間──
孝雄の体は、思わず跳ね上がった。愕然とした表情で、天井を見上げる。あまりの衝撃に全身が硬直し、動くことが出来なくなっていた。
その直後、鼓動が異常なまでに早くなる。心臓が凄まじい勢いで胸を打ち始め、孝雄は思わず胸を押さえていた。
苦しい!
孝雄の心臓は今、異常なまでの速さで動いている。ただでさえ、覚醒剤を打ったことにより交感神経が活発になっているのだ。そんな時に、あり得ないものを見てしまった。その衝撃が彼を驚愕させ、尋常ではない状態になっていたのだ。
孝雄は深呼吸をした。どうにか、呼吸を落ち着けようと努める。
しばらくして、心臓が落ち着きを取り戻した。彼の若さが幸いしたのだ。このまま、突然死してもおかしくはなかっただろう。
孝雄は胸をさすり、荒い息をつく。どうやら、ネタの純度の良さが災いしたらしい。もし粗悪なネタだったら、ここまで鼓動が跳ね上がったりはしなかったはずだ。
いや、そんな事はどうでもいい。
あれは何だ……。
孝雄はもう一度、顔を上げた。天井を見上げる。そこには、赤いペンキでこう書かれていた。
「お前は人殺しだ」
様々な考えが、孝雄の頭を駆け巡る。ただでさえ理解不能な事態なのに、覚醒剤がさらに混乱の度合いを強めた。天井に書かれた文字は、どこの何者が書いたのか?
いったい誰だ……。
誰が、こんなものを書きやがったんだ?
その時、突然スマホが鳴り出す。孝雄は弾かれたように飛び上がった。見ると公衆電話からである。いったい誰だろうか。
孝雄は、じっとスマホを凝視する。やがて切れてしまったが、メッセージを残していったらしい。
孝雄は、そのメッセージを再生してみた。
(この人殺しが……何人殺せば、気が済むんだ?)
「俺は誰も殺してねえ!」
喚きながら、孝雄はスマホを投げつける。
孝雄は頭がパンクしそうになっていた。あり得ないような妄想が、頭に浮かんでは消えていく。覚醒剤が効いているせいで、思考が止まらないのだ。
そう、覚醒剤が効いている時、人間の想像力は異常なまでに高まる。常人にはあり得ないような思考や発想が出来るのも、確かな話なのだ。
しかし、その発想があり得ないような結論を導き出すこともある。
たとえば覚醒剤が効いている者が外出し、通行人の何気ない視線を感じてしまった……その時、彼の頭の中では一瞬のうちに様々な思いが駆け巡る。大抵の場合、それは被害妄想へと変わるのだ。
あいつは、俺が覚醒剤をやっているのを気づいているのではないか?
いや、それどころか……奴は、俺の行動を監視しているのではないか?
道行く人の視線から、そんなことを考えてしまう。挙げ句、その通行人に襲いかかって行ったりするのだ。
また視線だけでなく、音に反応してしまうケースもある。赤の他人のひそひそ話や、ちょっとした笑い声。それらが、自分に向けられたものだと勘違いしてしまう。
(おい、あいつはポン中だぜ)
(間違いないよ。ポン中のくせに出歩いてやがる)
(死ねよポン中が)
他人の何気ないひそひそ話が、こんな言葉に聞こえてくる。結果、無関係の人間を怒鳴りつけるもある。酷い時には、通り魔と化して通行人すべてを殺そうと襲いかかることもあるのだ。
まして、今の孝雄の部屋はあまりにも異様な状態だった。何者かが、天井に落書きをしている……普通の人間が相手でも、怯えさせるには充分だ。
そして、覚醒剤により高ぶった感情が激発的な怒りを生み出し、孝雄の頭の中を駆け巡る。
どこの誰だ?
誰がこんな事をしやがったんだ?。
殺す!
こんなふざけた真似をしやがった奴は、必ず殺してやる!
孝雄は血走った目で、辺りを見回す。どこかで、自分を見張っている何者かがいるのだ。部屋にある物を片っ端からひっくり返し、ベッドの下を見る。彼は部屋の中を、隅から隅まで探した。
その作業は、覚醒剤の効き目が無くなるまで終わらなかった。
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