六月五日 隆司、アルバイトを始める
「ええと、今日からこちらでお世話になることになりました佐藤隆司です。全くの未経験なので、皆さんに迷惑をかけることもあるかと思いますが、よろしくお願いします」
居並ぶアルバイトや社員たちの前で、隆司はそう言って頭を下げた。だが、他の者たちの反応は薄い。軽く会釈を返しただけ……なのはまだマシな方で、大半の者は隆司のことを見ようともしていない。
隆司は顔を上げる。もう一度、目の前の者たちを見渡した。全員、雰囲気がまちまちだ。ヘラヘラ笑いながら、隣にいる者とひそひそ話をしている学生風。どう見ても、日本人ではない男女。明らかに堅気ではない雰囲気を醸し出している者。リストラされたサラリーマン風の中年男などなど……正直、あまりいい環境とは思えない。
だが、隆司は平然としていた。この程度、刑務所に比べれば屁でもない。何より、今は社会復帰に向けての大事な一歩なのである。まずはここで、しっかり頑張ろう。働いて金を貯めると同時に、社会での自身の立ち振舞いなどを、もう一度見直してみるのだ。
そうでないと、いつか刑務所に逆戻りしそうな気がする。
昨日、面接を終えてすぐに家に帰り、くつろいでいた時のことだった。突然、携帯電話に連絡が入ったのだ。画面を見てみると、全く知らない番号からの着信である。もっとも、出所してから買った携帯電話なので、登録してある番号も十件に満たない状態である。
不安を感じながらも出てみると、今さっき面接に行った日東産業だった。
その内容はというと……あなたは採用になりました、出来れば明日から出社してくださいというものだった。
あまりにも急な返事である。正直、戸惑った。そもそも、こんなに早く採用の連絡をくれるのならば、面接の時に即決してくれれば良かったのに……とも思った。
だが考えてみれば、会社組織とはそういった場所なのである。自分もかつてサラリーマンだった時、上司のハンコ待ちのために無駄な時間を費やしたことがあるのだ。
そして今、隆司は倉庫の中にいる。求人紙には、アットホームな職場です、などと書かれていたが……隆司が見た感じでは、アットホームとは程遠い雰囲気である。むしろ、殺伐とした空気が漂っていた。アルバイトの表情も、明るいものではない。
もっとも隆司は、アットホームの部分には毛ほどの期待もしていなかった。求人紙など、どうせ嘘が大半なのだ。そもそも本当にアットホームな職場だとしたら、求人広告など出す必要はないだろう。それ以前に、アットホームな環境は前科者の自分にとって、非常に居づらい場所ということになるのだ。
そんな隆司の思いをよそに、係長だか班長だか、よくわからない役職の偉そうな人間が何やら講釈をした後、ようやく作業が始まった。
三時間後、昼休みになった。隆司は倉庫の隅でひとり、弁当を食べる。他の者たちが忙しなく動いているのが見えていた。倉庫に出入りする物の流れは、止まることがない。人間の方が、交代で休みを取るのだ。
自分で作ってきた弁当を食べながら、隆司は改めて社会復帰について考えてみた。特に、今の自分に出来ること、出来ないことについてはきっちり知っておかねばならない。前科があると、就けない仕事もあるのだ。
さらに大手企業などは、独自の調査方法で新入社員の身許をきっちり調べ上げる……という話も聞いたことがある。本人だけでなく、親兄弟に至るまで徹底して調べ、その中にひとりでも前科のある者がいた場合、確実に弾くと聞いた。もっとも、都市伝説なのかもしれないが……。
自分のせいで、親戚の誰かの就職や結婚がダメになった可能性もあるのかもしれない。そう考えると、隆司は胸の奥に痛みを感じた。
やがて休憩時間が終わり、隆司は作業を再開した。何も考えず、作業に没頭する……こういったタイプの仕事をするのは、学生の時以来だ。
大学を卒業した後、隆司は営業部に配属された。持ち前の人当たりの良さと明るい性格、そして粘り強さが評価され、成績は上位だったのだ。
隆司の人生は、極めて順調にいっていた。だが、事件を起こしたあの日に全てが終わってしまった。隆司は一気に、犯罪者として裁かれる立場に転落してしまったのだ。
一般的に、ほとんどの人間は徐々に悪くなっていくものである。まずは、幼い頃に悪さを重ねる。初めのうちは、しょうもないイタズラがほとんどだ。それがケンカや万引きになり、そこからタバコやバイク、さらにはカツアゲやドラッグへと、どんどん悪くなっていく。そう、始まりは本当に些細なズレだ。本人も気づかないくらいの小さなズレである。
しかし、そのズレを放ったまま進んでいくと、確実に道を外れている。気がついたら、裏街道を歩いているのだ。
少なくとも、隆司が刑務所で出会った者は皆、そういうタイプであった。隆司のように、一足飛びに刑務所に来てしまうような者はいなかったのだ。
自分は見えざる神の手により、一気にどん底まで転落させられていた。
そういったことを考えていると、胸に暗い何かが湧き上がってくるのを感じた。己の理不尽な運命、世の中に対する強い怒りと憎しみ……そういった気持ちを振り払うためにも、隆司は目の前の作業に集中した。
午後五時になり、日勤の仕事が終わった。隆司はタイムカードを押し、更衣室で着替える。想像していたより、ずっとキツい仕事だ。立ったままの作業で、下半身の筋肉と関節が悲鳴を上げている。学生時代であったなら、一日で音を上げ辞めていただろう。
だが、今はそうも言っていられない。どんなに辛くても、目の前の与えられた仕事をこなしていく。そうでもしていないと、ドス黒い感情に呑み込まれてしまいそうだった。
「お先に失礼します」
社員たちに挨拶すると、隆司は倉庫を出て行く。駅まで歩き、電車に乗った。
「お帰り。久しぶりの仕事はどうだった?」
家のドアを開けると、芦田美礼が迎えてくれた。彼女の笑顔を見ていると、仕事の疲れも消えていく。
「うん、疲れた。でも、しばらくは働いてみるよ」
そう言って、隆司は微笑んだ。
確かに、自分は犯罪者となり……何もかも失ってしまった。だが、失えないものはまだ残っている。
ならば、その失えないもののために生きよう。
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