慟哭ぶ/マンション東棟ベイビー

 月明かりのみが照らす空虚な部屋に、じっとりとした気持ちの悪い空気が籠る。

 湿気とも嫌悪感とも判別できない異様な雰囲気は、きっとこの部屋が八か月も溜め込み続けたものだろう。


 部屋に入った時には感じることができなかった、お姉さんの抱えていた歪な感情を知って、僕の心臓は何とも言えない感覚に包まれていた。

 ドロリとした重たい“何か”を飲ませられたような、吐き出したくても吐き出せない、形状しがたい気持ち悪さだ。

 怪異という存在に関わるようになって六年近く経つが、やはり人間の生々しい話はいつになっても慣れないものである。



「気が付いたら、こんな姿になってたわ。きっとこの羽はホーちゃんのものよね?」

「……おそらくは、そうですね」


 痛々しい生傷が残る左腕を見つめ、お姉さん––––––宿木若菜さんは呟いた。

 きっと自分でも予測はついていたのだろう。僕の肯定を受け、微かにほほ笑んだ。


 彼女は間違いなく、生まれてすぐに命を散らした我が子への未練を原因に、怪異に成り果てた。

 きっと、飼っていたフクロウも、その時に亡くなったのだろう。

 泣き声を聞いた大家さんの通報で、二人と一匹の亡骸が発見されたらしい。


 この部屋で赤ん坊の泣き声がする仕組みは不明だが、この部屋を荒らされたくない一心で、入居者を追い出そうと画策していたのだろう。

 真っ赤な布団の上で、物音ひとつなく眠る、我が子を眠らせるために。

 だが、どんな理由であろうと、罪のない人間の生活を脅かすことは許されない。


「宿木さん、あなたの境遇は痛いほどわかります。でも、死者が人間を困らせてはいけません。人間が死者を愚弄してはいけないのと同じです」


 あんな話を聴いた手前、琴葉ちゃんたちのように戦闘するのは避けたい。

 心の弱い僕では、この人を躊躇なく斬り捨てられる自信が無い。

 だから頼む。諦めて、成仏してくれ。

 自信をこの部屋を縛り付けるしがらみを、断ち切る決意をしてくれ。



「宿木さん––––––」

「––––––この子のせい、なんです」


 …………ん?

 妙に引っかかる言い方だ。

 確かに先ほど、この部屋に居る理由を語る際、似たようなことを言っていた。

 この赤ん坊のせい……とはどういう意味だ?



「私、やっぱり弱いままみたいです」


 血まみれの遺体を優しげに見つめ、彼女は思いを吐露する。

 それはまるで、自分の息子に対して弁明をしているようだった。


「この子のことを考えると、罪悪感がこみ上げてくるんです」


 しかし、その声音は怯えている。

 目の前の異形に怯え、言い訳を述べているように見えてしまう。


「この子を育てなくちゃ、って思うと、逃げられないんです」


 顔を上げると、恐怖と狂気に満ちた瞳が月の光を反射した。

 どうして、そんな顔で僕を見るんだ。

 僕にどうして欲しいんだ。何を求めているんだ。


 まさか、彼女自身ではどうにもできないのか?

 彼女一人の意志では、この部屋から離れることができないのか?

 だとしたら、それはまるで––––––––––––






「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、はらへった」




  ◆◆◆




「––––––なるほど、ありがとうございました」


 怪訝そうな顔の住人が、アタシの会釈を聞いてから扉を閉めた。

 恒くんが本腰を入れて調査をしている間、アタシは他の住人に話を伺っていた。

 三階の住人はもちろん、真下の204号室も含めて、一通り挨拶した。

 そしてたった今、扉を閉めたのが404号室の住人さんだ。


 しかし、有益そうな情報は得られなかった。

 みんな揃って「泣き声なんて聞こえない」と言うし、人によってはアタシが警察だと知っただけで嫌そうな顔をしていた。

 きっと、全員がこの手の話題にうんざりしているのだろう。大家さんが言っていたことと一緒だ。


 う~ん、恒くんに任せっきりになっちゃいそうだな。

 一応はバディをやらせてもらってるし、役に立つところを見せたかったんだけど。


 次の目標を見失い、何をするべきか思案していた、その矢先。

 ポケットに入れたスマホから着信音が鳴った。



「はい、音切です」

『……あ、もしもし、風見酉ですけども』


 電話の相手は、異譚課文献係の風見酉さん。

 異譚課が担当した事件をファイリングし、怪異譚の管理を行っている人だ。

 噂では、自身が怪異譚に呪われてしまわないように複数の偽名を使っているとかなんとか––––––


『まだ現場ですよね? ちょっと気になる点があったんですけど』

「はい、まだマンションにいますよ」

『えっと……現象が発生した時の最初の住人、たしか池田さんって名前でしたっけ?』


 池田さん。

 赤ちゃんの泣き声を最初に聞いた、第一の被害者。

 大家さんからその話をされたし、風見酉さんに頼んで居住者のデータに目を通してもらっていたはず。


『……三人家族、なんですよね?』

「…………ん?」


 いや、そんはずはない。

 大家さんの話では、子供はいなかったはずだ。

 「引っ越してきたばかりの新婚夫婦」だと、「子どもなんかいない」と言っていたはずだ。



『いや、実は半年前の戸籍によると、1歳の娘がいるはずなんですけど……』

「え、半年前って、そんなの……」

『それに、大家さんとの会話音声聴きましたけど、引っ越しの際にまで引っ張り出した、って』



 頭からつま先まで、シーンと冷えたような感覚があった。

 新婚夫婦で、引っ越した当時には娘がいたはずで、部屋には既に育児用品があった。

 なのに、「子どもなんかいない」と言っていた。

 そんなのまるで––––––––––––




 あの部屋で幼子が、消されているみたいだ。




「––––––風見酉さん、他の入居者も調べて下さい」

「もう文献係の人に手伝ってもらってます。もうすぐまとまりますよ」


 仕事が早くて非常に助かる。

 どうやら、足手まといはアタシだけらしい。

 本当に今日は上手くいかないなぁ……。


「恒くん、ごめん……!」


 風見酉さんから送られたデータファイルを流し見しつつ、アタシは真下の空き部屋に向かって走り始めた。




  ◆◆◆




 胸が張り裂けそうな感覚だ。

 頭の中で痛みがガンガンと響き、手足が震え、嫌でも涙が溢れそうになる。

 僕はその渦中で、父さんの亡骸と母さんの弱々しい笑顔を幻視していた。


「……ぅ、おえぇ…………げほげほっ……」


 この感覚を、全身を苛むおぞましい感情を、僕は知っている。


 これは、罪悪感だ。



「ごめんなさい、刑事さん……」


 うずくまってしまった僕を見下ろし、宿木さんは心からの謝罪を口にした。

 意味がわからない。何が起こったんだ。


 血で染められた布団、その中央に眠る赤ん坊の木乃伊。

 その口が開き、酒に焼けたような低い男の声が聞こえたと思ったら、全身の震えが止まらなくなっていた。


 まさか、この赤ん坊まで怪異だって言うのか。



「––––––私がこの子を育てないと。私がエサをあげないと」


 虚ろな表情で、冷や汗をかきながらも、傷ついた羽を大きく広げる。

 その顔色は僕のよく知っているものだった。

 今の僕と同じ、自責の念に追い立てられた人間の顔だ。


 宿木若菜も、鮎川恒吾と同じ、罪悪感に駆り立てられて動いている。

 その中心に居る存在は、十中八九あの赤ん坊だ。

 事件の主犯格は“姑獲鳥”だとしても、その裏側には別の悪意が働いていた。



「赤ちゃんの肉が一番美味しいらしいけど、優しい刑事さんなら、きっと満足してくれるから」


 ダメだ。“ぬらりひょん”のスキルがもう通じていない。

 宿木さんの状態は、考えられる限りで最悪の部類に入る。

 最初から「自分以外の存在を、全て信頼していない」状態に類するパターンだ。

 仲の良い相手でも、優しくしてくれる相手でも、等しくエサとしか見えていない。


「……くそ、下手扱いたな」


 頭が割れるように痛いし、勝手に父さんと母さんの顔が浮かんでくる。

 脳天から爪の先まで、無意識にとはいえ家族を巻き込んでしまった後悔が駆け巡る。

 “口裂け女”と“鴉天狗”を退けた奴と戦える状況じゃない。


「でも、ここで折れたらカッコ悪いよなぁ……?」


 でも、その時の後悔を乗り越えるために鍛えて来たんだ。

 二度と後悔しないために、異譚課に入ったんだ。

 ここで刀を抜けなきゃ、僕はもう二度と、琴葉ちゃんにも母さんにも顔向けできない。


 ギザ歯の特徴的な、あの後輩にも、顔向けできなくなってしまう。



「……できれば、大人しくして欲しいのだけど」

「そいつは無理な相談だぜ。お姉さん」



 あなたがどんな後悔を抱いているのか、当人じゃない僕にはわからない。

 “ぬらりひょん”のスキルをもってしても、どれだけ優しい言葉をかけても、自分の子供を見殺しにした罪悪感を帳消しには出来ない。


 でも、檻から逃げ出す手伝いなら僕にも出来る。

 トゲを抜いて、傷を癒して、立ち上がる勇気を与えてやれる。

 あなたはフクロウなんだから、飛べる用意はいつだって可能なはずだ。


 その義務を、僕は…………は、決して諦めない。



「秘技……《風遁:破柱凍風ばじとうふう》!!」



 ベランダと部屋を隔絶していたガラスが、音を立てて弾ける。

 細切れになった断片は、まるで鳥の羽のように、暗い部屋へと舞い上がった。

 遅れて、前髪が崩れるほどに強い風が吹き抜ける。


 月の光を背中に浴びて、僕の仲間がやって来た。



「結界が張られていた故、秘技を使うための時間を要したでござる」

「恒くん、遅れてゴメンね」


 刺股を片手に構え、軽く頭を下げるツムジさん。

 隣には、スマホを片手に息も絶え絶えな琴葉ちゃんがいた。


「いや、最高のタイミングだよ。ありがとう」


 その様子だと、僕が辿り着いた結論に、琴葉ちゃんも気付いたのだろう。

 僕の安全を確認し一息ついた彼女は、宿木さんを見つめ、口を開いた。



「今回の事件の根幹は、“姑獲鳥”じゃない––––––」


 宿木さんは諦めたように、表情一つ変えず、彼女の言葉を聞く。




「根幹はそこの赤ちゃん……“コインロッカーベイビー”だよ」

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