覚醒パスポート
美崎あらた
第1話 ある日、森の中、クマさんと出会った。
ある日、森の中、クマさんと出会った。
そう表現すると童謡のようで可愛らしい感じがするけれども、現実でこれが起こってしまうとむしろ動揺を禁じ得ない。
そのクマは実際のところ可愛らしい子熊であった。登山道沿いの沢で水浴びをしている。それだけなら良いのだが、いつ親熊が現れてもおかしくない状況である。つい昨年まで高校の登山部だった僕だが、この状況は初めての体験だった。一人での山行は久々だったので、油断して熊鈴を携行していない。いや、出会ってしまってから鈴なんて鳴らしても刺激してしまうだけだ。親熊が現れる前に即下山しよう。
決意したその時だった。可愛い子熊とバチッと目が合ってしまう。子熊は僕に向かって無邪気に駆けだす。キャンキャンと犬のように。僕はうっかり笑顔で抱きとめてしまいそうになるが、次の瞬間、踵を返して逃げる。なぜならその子の向こうにガフガフと唸る親熊の黒い巨体が見えたからである。
足音が迫る。森を抜けると山々の水を集めるダム湖が眼下に広がる。
「ええい」
思い切って飛び込む。クマは泳げるのだったか? クロールしながら振り返る。無邪気な子熊と興奮した親熊がザブンと水しぶきを上げて犬かきならぬ熊かきを始めたところであった。
「ひぃ!」
息継ぎなのか悲鳴なのかわからない。思うように体が動かない。水泳の授業のようにはいかない。
「助けが必要でしょうか?」
その時だった。男の声が聞こえる。山岳救助隊の到着……にしては、声に落ち着きがありすぎる。僕が何も応えないので、聞こえていないと判断したのか、同じ文言がゆっくりと繰り返される。
「助けが、必要でしょうか?」
声の主は背泳ぎで僕と並走していた。黒のスラックスに白のワイシャツ。ネクタイをしっかり締めている。およそ水泳には向かない身なりであり、山中にもふさわしくない。格好もおかしいがもっとおかしいのは頭部である。精悍な顔立ちではあるのだが、奇妙に歪んだサングラスによって目元は隠されており、耳元にはヘッドホンのようにして二つのベルが装着されているのであった。ジリリとけたたましく鳴る古き良き目覚まし時計を思い出させる。
「あなたは悪い夢を見ておられる」
夢。そう夢だ。何かに追いかけられる夢というのは、悪夢の中でも割とメジャーなものではないだろうか。逃げたいのに、決まって思うようにスピードが出せないのだ。
「まだお若いのに、心労が絶えないようだ。こういう悪夢をよく見るのでしょう?」
「そう、そうなんです!」
ダム湖の対岸に上がると、そこはどこかの空港のターミナルだった。あまりに唐突な場面転換だったが、夢ということなら仕方がない。この場所においては、突如現れた目覚まし時計男の格好もあまり違和感がない。こうなると違和感があるのはむしろクマの方である。
「クマがまだ追ってきます!」
僕は助けを求めて男を見る。
「それはそうでしょう。そういう悪夢なのですから」
そう答えた男はいつの間にか、出国審査カウンターの向こうに座っている。
「覚醒パスポートはお持ちですかな?」
「かくせいぱすぽーと?」
そうこうしている間にも興奮した親熊が背後に迫っている。夢だとわかっていても、クマの爪と牙で八つ裂きにされるのは怖い。
「それがあればお好きなタイミングで悪夢から覚醒することができるのです。覚醒というとなんだか違法な感じがする。そうお思いなのでしょう? でも大丈夫。ここは夢の中なのですから、合法も違法もございません」
「なんでもいいから、その覚醒パスポートとやらを発行してください!」
「承知いたしました」
男は手元でポンとスタンプを押し、僕の方に紺色の手帳を寄越した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます