ラーハラ

ぴのこ

ラーハラ

 飛行機を降りると、しんと冷えた空気が肌を刺した。

 1月の朝の新千歳空港は鋭い冷気で満ちている。冷気は重ね着した防寒インナーを貫通して体を震わせ、奥歯をがちがちと鳴らせた。以前からずっしりと重かった肩が、より重くなったように感じる。動悸が強まり、体の節々がずきずきと痛む。

 空港の外に出ればさらに冷たい風に襲われるのだろう。そう思うと辟易した。

 しかし挫けてはならない。極寒を耐え抜いた先には楽しみがある。限界まで体を冷やしたほうが、美味く感じられるというものだ。


 真冬に食べる札幌ラーメンは、素晴らしく美味いのだ。



 新千歳空港から快速に40分ほど揺られ、札幌駅で南北線に乗り換えてすすきの駅へ。駅から目的地までは10分ほど歩く。

 すすきのの街は、どこを歩いても道が雪に覆われていた。道の端には雪の山がどっさりと盛られている。私は一刻も早く目的地に着くよう歩を進めた。滑らないよう注意していたのだが、やはり盛大に転んでしまった。雪がコートを濡らして冷たいが、仕方が無い。これも今だけの辛抱だ。

 道には滑り止め剤が入った砂箱が点在し、初めて北海道を訪れた観光客らしき集団が物珍しそうに砂箱の写真を撮っている。この大通りで人を集めているのは砂箱の他に、もう一つ。


 札幌ラーメンの名店、『らーめん 謙信』だ。


 この旅行の二大目的のうち一つは、札幌のラーメンを楽しみ尽くすこと。ラーメン屋巡りが大好きな私は、札幌ラーメンの食べ歩きがしたくてこの旅行を計画したのだ。以前の日帰り札幌旅行では4店ほどしか訪れられなかったのだが、今回はもっと多くの店を巡るつもりだ。

 その最初の店は、やはり味噌ラーメンと決めていた。札幌といえばまずはこれだろう。

 開店30分前であったが店の前には既に10人程度の行列があった。これであれば店に入れるのは1時間後といったところか。私はもっと早くの飛行機に乗るべきだったと後悔しながらも行列の最後尾に並んだ。

 まあ仕方が無い。今朝はどうしても、地元の店で限定の朝ラーメンを食べたかったのだ。あん肝をふんだんに使用した濃厚スープは、強烈なコクと塩味で目が覚めるような味わいだった。

 冷風に吹かれながら順番を待ち、指先が冷え切って痛みさえ発するようになった頃、ようやく従業員が私に入店を促した。私は数あるメニューの中から、迷うことなく味噌ラーメンを注文した。


『らーめん謙信 味噌』

 私は逸る気持ちを抑えながら箸を割った。たっぷりと盛られたもやしを掻き分け、熱々の味噌スープから麺を引き出していく。湯気が丼から立ち上る。私は麺にふうふうを息をかけ、勢い良く麺をすすった。小麦の風味と、麺に絡む味噌スープの旨味が口いっぱいに広がる。

 かなり濃厚な味わいだ。動物ダシのまろやかな旨味と甘みあるコク深さを鮮明に感じられ、適度な塩味が味を引きしめている。王道ではあるが、全ての要素が一段上のハイレベルな味噌ラーメン。非の打ちどころが無い完璧な一杯だった。

 スープの最後の一滴まで余すことなく堪能した私は、大満足で店を出た。もう寒さは感じなかった。腹を温めるのは今しがた食べた味噌ラーメンか、あるいは美食に出会った感動か。両方なのかもしれなかった。


 さて、まだ12時前だ。札幌を回る時間はまだ山ほどある。私は再び駅に向かい、小樽行きの電車に乗って石狩湾へと近づいて行った。

 発寒中央はっさむちゅうおう駅で降りると、駅前に大きなスーパーが建っているのが見えた。旅先のスーパーで、その土地の人々が何を買うのか観察するのは楽しい。旅の醍醐味と言える。

 だが今回はスーパーに寄らず、次の店へと向かった。一刻も早く次のラーメンを食べなければ。寄り道をしている暇は無い。私は、はあはあと荒くなった息で口周りの空気を白く染めながら店に急いだ。

 味噌の名店はさっきの店だけではない。さあ、この店はどんな味か。


『麺や 柊 味噌ラーメン』

 スープをひと口飲み、ほう、と息が漏れた。豚ダシの旨味がとにかく強い。しつこさを出すギリギリの線まで攻めた旨味が強烈に舌を刺激する。加えて、ともすれば塩辛すぎると思われるほどの塩味。それらの要素をラードのまろやかさでカバーした、足し算の極みのようなラーメンだった。

 なるほど、味噌ラーメンが飽和したこの地域であってもこれならば人気が出るだろう。私は夢中でスープを飲み干し、気が付けば丼は空になっていた。


 二度あることは三度ある。二杯も続けて美味いラーメンに出会えたのだから、三杯目もきっと美味いだろう。私は札幌駅に戻ると、今度はすすきの駅とは逆方向の電車に乗った。札幌市内を回るとなると、当然ながら札幌駅を中心に動くことになる。滞在中に何回ほど札幌駅を利用することになるだろうか。

 麻生あさぶ駅では階段で転んでしまった。段数の低い階段だったことは幸いだった。この旅行中に転ぶ回数は、札幌駅を利用する回数とどちらが多いだろうか。私はコートの汚れをはたきながら舌打ちした。

 駅からは、駅に併設されたイオンの中を経由して地上に出た。北海道でもイオンの売り場は地元と変わらない。見慣れた光景を見たことで私の心は少し温まったが、地上を吹きすさぶ寒風で瞬く間に冷やされてしまった。

 早く温まらなければならない。私は足早に道を歩き、途中で一度転倒しながらも3店目へと辿り着いた。


『らあめん境界線 あってり味噌』

 “あってり”とはあっさりとこってりの中間という意味だそうだ。なるほど、さらりと口当たりの良い質感でありながらも鶏と魚介の風味が重厚に感じられる味噌スープ。実食するとメニュー名の意味がよくわかるラーメンだ。おそらく複数の味噌をかけ合わせている。塩分濃度は高めなのだろうが、ダシ感が強いので抵抗なく飲める。これはなかなか出会えない美味さだ。

 体の中から痛烈な悲鳴が響いているが気に留めない。私は丼を両手で持ち、ぐいとスープを飲み干した。


 実に気分が良い。体が軽くなってきた。私は少し膨らんできた胃を軽く撫で、満足気に麻生駅へと戻った。これまでに食べた味噌ラーメンは3杯とも素晴らしい味わいだった。味噌に満足した私は、そろそろ塩ラーメンが食べたくなってきていた。札幌といえば味噌のイメージが強いが、塩の名店もあるのだ。

 塩ラーメンといえばあそこだ。以前にも食べたが、あそこの塩は外せない。私は再びすすきの駅へと向かった。

 まだ15時だからか、店の前の行列は短かった。これが夕飯時になると長蛇の列になるのだから、今のうちに食べておいたほうがいいだろう。


『麺屋氷嵐 鴨がら塩らーめん』

 鴨の旨味が濃く出た淡麗スープが相変わらず素晴らしい。以前より味が濃くなり、はっきりとした美味さになったようだ。鴨ダシに貝や昆布や野菜の風味が複雑に絡み合い、強烈なダシ感で塩味を中和している。ばつんと歯切れの良い中細麺も食べていて心地が良い。味噌が3杯も続いていたから、淡麗な鴨塩ラーメンがさらに美味く感じられる。私は迷うことなくスープを飲み干した。



「グ…ギッ…ガアアアアアアアアアアア!!!!!」


 私に憑いている霊が叫び声を上げた。砂漠の中央で苦しむような、ひどく渇いた悲鳴だった。

 どうした、苦しいか。

 私はにたりと笑い、次の店へと歩き出した。


 さあ、私の腹がはち切れるのが先か。お前が消え去るのが先か。

 勝負といこう。




「自分、憑いとるで。どこで拾うて来てん。べったりと仲良う重なりおってからに」


 住職は痰の絡んだ声で言った。

 先週のことだ。私はある時から異様に体が重く、全身を刺すような痛みに襲われるようになっていた。しっかりと食べているのに体重が落ちてげっそりと痩せてしまった。さらに不運に見舞われることも多くなり、日に何度も転んだり、頭に何かが落ちてきたりして生傷が絶えなくなった。

 これは何かがおかしいと思い、寺にお祓いに行ったところ、住職に先の言葉を投げかけられたのだ。


「ははあ、妬まれとんな。自分、普段からええもん食って空腹とは無縁の生活しとんのやろ。やっこさんはそれが気に入らんかったらしい。せやから自分に憑いて、自分が食ったもんを半分くらい吸い取っとんのや。飢えて死んだ者の霊やなあ」


 住職は飄々とした関西弁を口にした。住職は老いた顔に薄ら笑いを絶やさなかったが、その目には常にぎらりとした眼光が覗いていた。霊を射竦めているのだ、と私は直感的に理解した。


「こういうんは、宿主が死ぬまで離れんもんやが。ま、安心せんかい。自分が元気なうちに、祓えば済むことやさかいな」


 おもむろに立ち上がった住職は、私の頭に手を置くと唇を弓なりにして微笑んだ。続いて手で印を結び、朗々と唱えた。


「のうまくさまんだ ばさらだん せんだん まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん」


 住職の声は乾きかすれていながらも、力強い声量を放っていた。私の鼓膜がびりびりと震えた。


「うん、これでええやろ。後は清めをすりゃあ霊は消え去るで。後は自分のほうで頑張んなや」


 私の背中を叩き、住職は明るく告げた。清めとは何をすればいいのかと私が問うと、住職はぽりぽりと肩を掻きながら言った。


「阿呆。昔っから、清めと来たら塩と相場が決まっとる。霊は自分が食ったもんを吸い取っとんのや。せやから、霊に塩を浴びせりゃあええ」


 住職は皺だらけの顔に笑い皺を刻ませた。


「塩分の高い飯を、食って食って食いまくるんや」




 寺からの帰り道で、私は札幌行きの飛行機のチケットとホテルの予約を取った。

 なにしろ住職の話を聞くに、今の私はどれだけ食べてもカロリーも塩分も半分になるのだ。私が食べたものの半分は霊が吸い取ってしまうのだから。この機を逃す手は無い。

 一度でいいから気が済むまでやってみたかったのだ。北海道ラーメンの食べ歩きツアーを。

 霊を祓うには塩だと言うのなら、思う存分に浴びせてやろう。


 ラーメンで、祓ってやるのだ。

 




『さくら 特製味噌ラーメン』

 塩ラーメンを挟んだことで味噌がまた食べたくなった。ここは札幌屈指の有名店だ。1時間並ぶことになったが、寒空の下で冷え切った体に熱い味噌スープが染み渡って殊更に美味く感じる。

 豚と野菜の旨味がよく出たダシが濃厚な味噌に溶け込み、とろりとした甘みあるコクがたまらない。それがぷりぷりの縮れ麺によく絡み、ひと口すするごとに口いっぱいに幸福感が広がる。これほど美味い味噌ラーメンが他にどれだけあるだろうか。

 どうだ?お前も幸福か?


「ギッ…ギッ…」


『麺屋 花衛門 鶏白湯』

 鶏白湯も食べておきたい。さらりとした鶏白湯スープは、あっさりと口当たり軽やかでありながら鶏の旨味が濃密。コク深くも上品なスープが中細麺に絡みつく。何杯でも食べられそうな味わいだ。しかしこの後には本命が控えているため、この一杯を飲み干して店を出た。


「ガ…」


『ふくたわかめ すすきのブラック』

 夜も更けた頃に開店するこの店が今回の旅行の本命だ。私が店に辿り着いた頃には既に行列ができており、入店までには30分ほど待った。

 ブラックの名の通り醤油のように真っ黒に染まったスープだが、見た目に反して塩気はあまり感じない。いや、それなりに塩分は高いのだろうが、それを上回るダシの旨味の濃さが強烈なのだ。ダシの厚みに加え、ほのかな酸味ある醤油に背脂の甘み、そして胡椒の風味がすさまじく味覚を刺激する。唯一無二の美味さだった。

 私は迷うことなくスープを飲み干した。


「ガアアアアアアアアアアアア!!!!」


 絶叫が響き、そして途切れた。

 瞬間、私の体は突如としてふっと軽くなった。

 私に憑いていた霊が消滅したのだと悟った。住職に言われたとおりに行った“清め”が成功したのだ。私の体を好き勝手に痛めつける霊が疎ましかったが、これでようやく解放された。


 私が喜色を浮かべたのも束の間、腹にずしんと重たい感触を抱いた。喉を猛烈な乾きが襲った。

 そうか、霊は今のブラックラーメンを受け止めきれずに消滅したのだ。どういう仕組みかはわからないが、一度は霊に吸収されたブラックラーメンの半分が私の体に返って来たのだろう。

 腹具合から察するに、私に返されたのはさっきのラーメンの半分だけのようだ。私は冷や汗を流した。もしも今まで霊に吸い取られた分が一度に返ってきていたら、腹がはち切れていたところだったではないか。いや、もしかするとそれはあの住職が防いでくれたのだろうか。


 とにかく、もう霊は居ないのだ。私はほっと胸を撫でおろしたが、ひとつ問題がある。ここからはラーメン一杯まるごとを私一人で食べていかねばならない。

 札幌では夜遅くまでやっている店は多い。まだ回りたいが、今の腹具合でどれほど食べられるだろうか。

 まあ、やれるだろう。霊が消えたことで不調が改善し、霊に憑かれる前より体が軽く感じるほどなのだ。塩は魔除け。また霊に目を付けられることが無いよう、多く摂取しておいたほうがいい。


 私はその晩に3杯のラーメンを食べ、翌日には5杯食べて大満足で帰路に就いた。

 ずきりと、雷のような頭痛が走った。こめかみが圧迫される。動悸が激しさを増した。

 突如として起こった不調の中、私は口角を吊り上げた。

 私の頭部を間隙かんげきなく襲う激痛と、ひどく早鐘を打つ心臓は霊が起こすものではなく高血圧によるものだ。私の体は確かに私が動かしているのだ。


 確かにそう思えることが、私の心を安らかにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラーハラ ぴのこ @sinsekai0219

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ