異世界転生寿司職人~転生した赤子の使命ーー異世界のうま味成分を駆使して、魔物に変えられた人々を救う~

@Sushi_fantasy

第1話 魂を喰う

「君の能力と技術、そして君の開拓精神は、寿司がない異世界でこそ適している。そこでまた、一から寿司を握ってみないか?」


釈迦のその言葉が、すべての始まりだった。

________


銀座の路地に足を踏み入れた瞬間、冷えた夜風が頬を刺した。静まり返った裏通り。昼間の喧騒はとうに消え、高級料亭「まさ」の暖簾のれんだけが静かに揺れている。表の世界とは隔絶されたこの空間に足を踏み入れると、俺は自然と背筋を伸ばした。


暖簾のれんをくぐった途端、空気が一変する。湿気を含んだわずかな木の香り。どこか張り詰めた緊張感が店内に満ちていた。床板がきしむ音がわずかに響き、俺は思わず歩幅を狭める。


「寿(ことぶき)、次はにしんだ。」


料理長の低い声が背後から響き俺は返事をせず、魚箱を開けた。銀の皮に青が混じる、新鮮なにしんが数匹横たわっていた。包丁の柄を握る手が、無意識のうちに動き出す。魚の頭を落とし、内臓を取り除く。その動きに迷いはない。流れるように、骨を抜き、血合いを丁寧にすくい取る。


板場には他の職人も数人いるが、誰も声を発しない。包丁の音と、微かな湯気の音だけが響いていた。カウンターの向こう、黒い大理石のカウンターに肘をつき、外国人観光客たちが並んでいる。スーツを着こなした男と、深いスリットの入ったドレスの女。高級ブランドの香水がかすかに漂い、酢飯の香りと交じる。


俺は顔に出さないが、心の中では微かに眉をひそめていた。彼らの視線は、目の前の寿司ではなく、俺の手元にある包丁に向けられている。正確には、スマートフォンのレンズ越しに。


「次はトロか?」


男が軽い調子でカメラを向けたまま尋ねた。


「はい。」


短く返事をしながら、握り始める。シャリを掌で転がし、切りつけたトロを乗せる。指先でそっと形を整え、仕上げの握りを一け。差し出す瞬間の寿司は、ため息が出るほど美しかった。この寿司を握れる技術と経験は、俺の誇りだったが。


「うまいね。でもさ、この角度から撮ったほうが映えるかな?」


男は寿司を一口で平らげ、またスマートフォンを構え直す。映えるというその言葉が、無音で俺の心に突き刺さる。俺が打ち込んできた寿司は、もう味わうものではなく、写真に収めるための道具なのか。一つひとつの寿司に込めた魂も、指先から伝わる熱も、彼らには届かない。


「写真を撮りたいなら、遊園地にでも行ってくれよ……」


そんな言葉が喉まで出かかるが、ぐっと飲み込む。客にぶつけるようなものじゃない。そんなことはわかっていた。

ふと、視界の隅で異変が起きた。奥の席で、料理長が客と言い争っている。男とその連れの女。高級ブランドに身を包んだ派手な格好をしていたが、まとった空気は薄っぺらだった。だが突然、女が苛立ったように声を荒げる。


「こんな店、二度と来ないわ!」


吐き捨てるような声が店内に響いた。女は肩を大きく振り、苛立ちを隠そうともせずに立ち上がる。連れの男も、それに続くようにカウンターから離れた。高いヒールがコツコツと床を鳴らし、その音が静まり返った店内に妙に響く。二人の姿が暖簾のれんを乱暴に揺らしながら消えていくのを、誰もがただ見送るしかなかった。


「大変申し訳ございません。」


料理長の低い声が静寂を切り裂いた。深々と頭を下げる彼の姿に、胸が締めつけられるようだった。その場の全ての客に向けた謝罪の形は、店の矜持きょうじそのもののように見えた。

だが、何があったのか全く掴めない俺は、戸惑いながら視線を泳がせた。すると、隣のカウンター席に座っていた常連が、苦笑混じりに話しかけてきた。


「さっきの女な……カウンターで化粧直しを始めやがったんだ。」


その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが引きちぎれるような感覚に襲われた。


化粧直し?カウンターで?


飲食店で、ましてや高級寿司店のカウンターでそんなことをする客がいるのか。俺の中で常識の枠が崩れる音がした。


「ありえない……。」


自然と呟きが口をついて出た。常連は、俺の表情を見てか、わずかに口角を上げながら続けた。


「あれを見て黙っていられる料理長じゃないだろ? 注意したら、逆ギレってわけだよ。」


料理長が注意した光景が脳裏に浮かぶ。落ち着いた声色で淡々と諭し、それでも譲らない姿勢を貫いたのだろう。

しかし、それが結果として彼女の怒りを買った。反論し、口論になり、そして彼女は「二度と来ない」と吐き捨てて店を出た。

俺はその話を聞きながら、料理長の背中に視線を戻した。彼は、ただ静かに立っていた。頭を下げたまま、拳を固く握りしめている。その拳が小刻みに震えているのが、店の明かりに照らされてわかった。その震えが、怒りなのか悔しさなのか、それとも別の感情によるものなのか。俺には分からなかった。ただ、その背中が、これ以上ないほど重く見えた。


「そりゃあ、大将も怒るさ。」


常連は軽く肩をすくめてそう言ったが、その声にはどこか慰めのような響きがあった。

だが、料理長は一切反応を見せず、ただ背中を丸めて立ち尽くしていた。


俺はその姿を見て、言葉をかけることができなかった。かけたい言葉はたくさんあったけれど、それを発したところで、彼の心を癒やすには遠く及ばないだろう。

静まり返った店内に、誰も声を発せずただ、料理長の拳が震える音だけが、微かに響いていた。


その夜――。


店を閉めた後、俺は冷え切った板場に立ち尽くしていた。換気扇の音だけが、静かに空間を切り裂くように響く。床を拭いたばかりの板場はひんやりと冷たく、足元からじわりと寒さが染みてくる。

握り台の上には、乾いたまな板と包丁だけが残っていた。

ふと、奥の席で料理長と揉めていた男と女の姿が脳裏に浮かび、あの女のヒールが床を打つ音まで、鮮明に蘇る。


……俺は、何のために寿司を握ってきたんだ。


冷たいまな板の表面を指先でなぞるがそれでも、寿司を握るような温度にはなりそうもない。

脇にかけられた、出刃包丁や刺身包丁のその刀身に、俺の顔が映るほどに綺麗に研がれている。まるで鏡のようなその光景を前に、包丁を研ぎ続けた日々を思い出す。


「違うよな...俺は、そんなことのために寿司を握ってきたわけじゃない。」


そして魚の目利きを学び、指先の感覚を研ぎ澄ませてきた時間も含めてそれは、金持ちの道楽や、ステータスを誇示するためのものじゃない。


「うまい」という、その一言を引き出したくて、ただひたすら握ってきたはずだった。


それなのに、今残っているのは……。


客のいなくなった静まり返った店と、使われなかった小皿のひとつ。誰の心にも届かなかった。握り台を軽く叩く。乾いた音が小さく響いた。


俺は、このままでいいのか……。


答えの出ない問いを抱えたまま、冷えた空気が張り詰める店内に、俺はしばらく立ち尽くしていた。


________________


数週間後、料理長に呼ばれた。


「寿(ことぶき)、ちょっと話がある。」


いつもとは少し違う料理長の表情に、胸の奥で警戒心が芽生えた。普段はあまり表情に変化を見せない料理長が、何かを隠すように言った。


「実は急遽、海外出張に行くことになった。」


俺の目が瞬時に見開かれた。「海外出張」という言葉には、これまでの経験から何度も触れてきたが、自分が行くとなると話は別だ。


「だが、俺も副料理長も行けなくなってしまってな...

大事な客のもてなしがあるから、どうしてもこのタイミングで外せない。」


そう言って、料理長は俺に視線を向けた。


「だから、寿、お前が行ってくれないか? というより、今はお前にしか頼めない。」


それは料理長の俺に対する信頼が含まれていた。

俺に任せても問題ないという、彼の安心しきった顔が印象に残る。

実際に出張の依頼が来た理由は、とある国の高級ホテル。外交や企業セレモニーなどを行うレストランで寿司を振る舞うというもので、名目は「現地企業の懇親会」だった。料理長と副料理長は、このような仕事には慣れているが、突然の事情で出張に行けなくなったのだ。


「……わかりました。」


俺は少し戸惑いながらも答えた。自分がその役割を果たすべきだとは思ったが、急な話に心の中では準備ができていないことも感じていた。

それでも、普段の仕事から一歩離れれば、何かが変わるかもしれないという期待が、胸の中に湧き上がっていた。

出発前に準備を整えるも、出発前夜は眠れぬ夜を過ごした。空港での荷物の手続きを終え、飛行機に乗り込む頃には、少しだけ心の中で覚悟を決めたような気がしていた。


だが、その期待はすぐに裏切られた。セレモニーの場には、多国籍のスーツに身を包んだ裕福そうな連中が集まり、歓談している。傍耳を立てていると、日系の株価がどうだとか、俺には関係のない話ばかりだった。

歓談が終わり、俺の寿司の前に大勢の人がやってきた。豪華なネタが並んだ寿司を目の前にして、彼らはまるで宝石を眺めるように興味深そうに見つめていた。トロやウニやアワビ、輝くネタの一つ一つが、高級な価格を誇示しているかのように、色鮮やかに並べられている。


だが、彼らの目に映っているのは、そのネタ自体ではなく、背後にある「ステータス」だけだった。彼らは次々と寿司を手に取り、スマートフォンを構えて写真を撮り始める。目の前に広がる光景が、まるでショーの一環のようだ。食事を楽しんでいるわけではなく、ただその「体験」を記録し、後で見せびらかすためだけに消費している。その光景を見ていると、銀座のカウンターで感じた虚無感がよみがえった。

いくら高級なネタが並んでいても、そこに込められた職人の魂や、寿司そのものの「意味」を理解しているわけではない。ただ、その瞬間の「見栄」だけが重要なんだ。


セレモニーが終わり、俺はホテルへ戻るためタクシーに乗り込んだ。煌びやかな高級街を通り抜ける。夜の街灯がネオンのように輝き、華やかなショップやレストランが並ぶ。都会と言えど、東京とは違い、もっと雑然としている。

だが、信号でタクシーが止まると、目の前に広がるのは一転して薄汚れた路地。狭い歩道にはゴミが散乱し、雑然とした小さな店がひしめき合う。古びた建物の隙間から漏れる光が、ここに住む人々の生活の一端を物語っている。

ふとすると、路地の片隅に薄汚れたシャツを着た少年が、座り込んでいるのが目に入った。腹を押さえている様子が、まるで何かに耐えているかのようだ。その傍らで、少女が小さなパンの欠片を差し出している。

俺は思わず目を細め、心の中で息を呑んだ。少年の顔は疲れていて、腹の虫を感じさせるほどの空腹感が伝わってくる。


「寿司を……この子たちは知っているだろうか。」


俺は無意識に、タクシーの窓を少し下げた。熱帯のジメジメした空気が頬に張り付く。日本で育った俺には、寿司が身近なものだった。回転寿司で一皿百円の寿司を、家族とともに食べて育った。誰でも、ちょっとしたお金で寿司を楽しむことができる。そんなことが当たり前だと思っていた。

でも、ここでは違う。寿司は、この国では遥か遠くの贅沢でしかない。俺の胸が締め付けられる。あの少年たちのような人々が、寿司を食べることは夢のまた夢だろう。

その瞬間、俺の心に強く湧き上がった思いがあった。


「寿司をもっと身近なものに……命すらつなぐ料理にしたい」


どんな国、どんな人でも、寿司を食べられるようにしたい。命を繋ぎ、人々を笑顔にできる料理として広めたい。タクシーのエンジンが再びかかり、信号が青に変わった。車は走り出し、俺は車窓に広がる景色に目を戻すと、もう一度自分の気持ちを再確認した。


「俺は、寿司で世界を救いたい」


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