第四話 ひと目惚れ

 和泉屋の暖簾をくぐると、女将のお志摩が色目を流して出迎えた。

 噂に違わずいい女だが、勇次はこの手の女が好きではない。おそらくこの女は遊女上がり。数多あまたの男を虜にしてきた強者だ。長年妓楼で生きてきた男の直感のようなものである。大抵の男ならころりと騙せるのだろうが、彼はそう易々と引っ掛からない。


「玉代と茶代は俺のおごりだ」


 熊次郎がお志摩に目配せする。あいよ、と吐息交じりに答えると、お志摩は艶っぽい腰つきで勇次の腕に絡みついた。そのまま席へと案内する。


「お兄さん、歌舞伎役者か何かかえ?」

「あんな河原かわらもんと一緒にするな」

「じゃあ、れんけいの芝居小屋の役者だね。当たりだろ? だってこんないい男、そんじょそこらじゃ見かけないもん」

「俺が制外者にんがいもんに見えるか?」


 勇次が鋭い眼光を刺し向けるとようやくお志摩は黙った。うざったそうに腕を振りほどき、着座するなり煙管きせるを取り出す。お志摩はチッと舌打ちしながら厨房へと消えていった。


「年増は好みじゃねぇか?」


 熊次郎が斜めに腰掛ける。


「いや、としは関係ねぇ。ただ、ああいうのが好かねぇだけだ」


 刻み煙草を指で器用に丸めながら勇次は呟いた。熊次郎が耳打ちする。


「昔は深川にいたらしいぜ」

「きゃんにゃ見えねぇがな」


 勇次はお志摩を一瞥し、雁首がんしゅの灰皿に丸めた刻み煙草を軽く押し入れた。

 深川の遊里では遊女や芸者のことを「きゃん」と呼ぶ。吉原とは違い薄化粧、あえて簡素な着物で客を出迎えるさまが「粋」とされた。それが「きょう」に繋がり、転じて「きゃん」となったのである。

 だがお志摩の濃い化粧とむせるような色香は、深川とはどうしても結びつかない気がした。

 それにつけても川越には好みにかなう女がいない。遊郭ではよく心中沙汰が起こるが、命懸けで恋愛できる奴らが実は羨ましくもある。

 春をひさぎ、色を売る遊郭にいながら、自分の身体を取り巻く空気にはまったく〝色〟を感じないのだ。

 煙管の吸い口をくわえ、熊次郎に火を借り、ゆっくりとすする。大きくは吸い込まず、口の中で香りを転がすように味わった。膝を組み、ふーっと煙を吐き出す。この煙のように灰鼠はいねず色の日常。なんの代わり映えもしない。


「今年もけっこう死んだな……」


 梅毒や結核などの病死のみならず、首吊り、身投げ、心中、折檻……。遊郭あるあるを数え上げればきりがない。遊郭の日常は死と背中合わせだ。

 華やかな表舞台に隠された苦界で八歳から過ごし、いつの間にか人の死というものに鈍感になってしまっている自分にも嫌気がさす。

 熊次郎は勇次のだるい表情を見て話題を変えた。


「最近は江戸……じゃなくて東京行ってるか?」


 熊次郎の問いに首を振る。倒幕を機にそれまで江戸に詰めていた武士らは各藩へ帰郷してしまった。武家相手に商いをしていた商人たちも東京から離れていった。

 逆にその一方で、飢饉などで納税できなくなった近郊の貧農民たちが村を捨てて流入してきているのだ。なのに簡単に仕事が見つかるわけもなく、野非人となって放浪するばかり。

 戦災孤児も格段に増えた。彼らは空き家となった武家屋敷などに勝手に住み着いては疫病を撒き散らかしている。開国によって異国から持ち込まれた伝染病がそれに輪をかける。

 無宿者らを人足寄場に集めようにも、そこもすぐに満員になるといった有り様だ。結局、末路は非人だめで野垂れ死に。

 失業したのは武士も同じで、使い道のない刀を抱えた浪人たちがあふれている。混乱に乗じて盗人、かどわかしが横行する騒擾そうじょうに巻き込まれるのは真っ平御免だ。

 遠い眼をして二口目を吸い込む。熊次郎のほうは煙を吐き出した。


「昔は竜弥とよく遊びに行ってたじゃねぇか」


 その何気ない一言に勇次がピクリと反応した。地雷を踏んでしまったらしい。ぶるぶると煙管を握りしめる拳を見て、熊次郎はしまったと口を塞いだが後の祭り。


「竜弥……そうだ、あいつのせいだ。あいつが出てったせいで俺は邑咲屋に縛り付けられる羽目になったんだ。あいつのせいで俺はずーっと傾城屋のまんまだよ。とっとと借金ぇして川越とおさらばしようと思ってたのに跡取りなんかにされちまって今じゃがんじがらめ。人別帳にも戻れねぇ、俺は一生制外者だ」


 勇次は煙と愚痴とを一気に吐き出した。

 そうだ、元々の跡取りは竜弥のはずだ。竜弥は先代妓楼主の息子で、現妓楼主の異母弟なのだから、彼が邑咲屋を継ぐのは既定路線だったはず。それを突如として川越から出奔してしまった。

 姉の夫である妓楼主は機能不全だから子は望めない。竜弥がいなくなった邑咲屋の将来は妓楼主の義弟勇次に託されてしまったのだ。


「くそっ。どうせ売られるなら吉原が良かったぜ。いや、根津でも新宿でもいいや。川越なんかより江戸の方がよっぽど面白おかしく暮らせたろうよ」

「いや、江戸だったらおめぇ、湯島のかげ茶屋に売られてたって聞くぜ」


 陰間茶屋は男を買う色里だ。天保の改革で壊滅したかに見えたが、需要が後を絶たないため、幕府の目を盗み、湯島や芝あたりでこっそり営業を続けていたらしい。

 美童だった勇次は、女衒が半十郎でなければ陰子として売られていたともっぱらの噂だ。衆道しゅどう通人つうじんたしなみとされていた時代もあったが、そんなわけで勇次にとって良い印象はない。


「それだけは絶対にだ」

「だったら川越で良かったじゃねぇか」

「……」


 それは聞かなかったことにして、再び悪態をつきまくる。


「小江戸川越なんて言ったってよ、昔は十七万石あったか知らねぇが今じゃ八万石の小せぇとこだぜ。小京都の加賀が百万石なのになんで小江戸の川越は十万石もねぇんだ? だいたいよぉ、川越なんか海はねぇし、お城に天守閣はねぇし、つきがねやぐらの鐘の音は汚ねぇし、河越茶はいつのまにか狭山茶とか呼ばれてるし、女は芋ばっかだし……」


 べらべらべらべら……よくもそこまで悪し様に言えるなと、熊次郎は逆に感心した。


「てか、あがりはまだか? おうっ、あがりが遅せーぞ、女将!」


 苛立った勇次の声が店内に響く。年末で人手不足なのだと熊次郎がなんとかなだめると、勇次は苛々と最後の一服を吸い込んだ。そのときだ。


「お待たせしちまって申しわけねぇべな。お客さん、堪忍してくらっしぇ」


 狭山茶を運んできたのは女将ではなく、十四、五歳の年頃の小柄な娘だった。眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔を見せる。


「お詫びにお茶菓子持ってくるだに、ちっとんべぇ待っててくらっしぇ」


 狭山茶を置いてニコッと微笑み、茶汲み娘はぱたぱたと奥へ引っ込んでいった。

 勇次は無表情でその可憐な後ろ姿を見つめていた。煙草を味わうのも忘れて口と鼻からふーっと煙を吐き出す。


「熊さん、今のあれ、なに?」

「あれ?」

「あれだよ、あれ! あの可愛い生き物、なに⁉」


 いきなり熊次郎の肩を興奮気味にゆっさゆっさと揺らし、茶汲み娘が去った方向を煙管で差し示す。


「ああ、あれは女将の娘だ。ほれ、奥に小久保おくぼ村ってあるだろ。そこの百姓の娘で普段は野良仕事をしてるんだが、ここんとこ水茶屋のほうが忙しくて人手が足りねぇからよ、今日から手伝ってもらってんだよ」


 どうりで初めて見る顔だ。あんな可愛い生き物がこの川越に棲息していただなんて知らなかった。川越って広かったんだな……と、あらためて吐息を漏らす。


「名は?」

「りん」

「りん……」


 その名を口にしただけで頬は紅潮し、身体は熱を帯びてゆく。

 暖簾は喜多院慈恵堂の五色幕、侍どもの下品な笑い声は氷川神社の涼やかな風鈴の音。春になれば蓮馨寺が桜に染まるがごとく、見えるもの聴こえるもの、関わり合う全部が今、鮮やかに色付きはじめた。


 ——落ちるときって本当に一瞬なんだな……。


 勇次は生まれて初めての感情に驚きつつも、ワクワクとドキドキが止まらない胸が嬉しくてたまらなかった。

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