第5話 追放人事は中止
「失礼します、山本中将殿。本国から電報です」
ホテルの一室で日記を綴っていた山本五十六は、ペンを置き、立ち上がると、足早にドアまで歩いた。
「日本からの極秘電報です」
ドア先にいたのは駐独大使館員の職員であった。
車や宿の手配の際に世話になった、若い職員だった。
「ありがとう、わざわざすまないね」
「いえ、仕事ですので。何かありましたらいつでも呼んでください」
職員は封筒を渡すと、敬礼をして去っていった。
山本はドアを閉め、ベッドに腰を下ろすと、机からハサミを出して封筒の封を開けた。
紙を取り出し、山本は一度それを見て、もう一度見返した。
「本当なのか!?」
差出人が同期の海軍軍務長、吉田善吾中将になっているその文は、堀の軍復帰を知らせるものであった。
※ ※ ※
漆原大佐が伏見宮元帥に事情を説明してから数日後、伏見宮元帥は同じく艦隊派の中核である
皇族の軍令部総長にその言いなりの海軍大臣に、老将の大将と、海軍の中枢権力が動員されたこの調査は、上海事変時の堀少将が指揮していた第三戦隊が所属していた第三艦隊で、参謀や将校の一部が堀の評価を下げるために意図的に情報を撹乱させていたことが最終的に発覚し、その人物らが退職を申し出たことで終結した。
同期の中でもずば抜けて成績が良く、これからの昇進が期待されていた堀への妬みや嫉妬、更にはかなり先進的な思想を持っていた条約派である堀を潰すために艦隊派の一部の圧力によって起きたものとされる。
艦隊派の一部は事態を闇に葬ろうとしたが、かえってそれが目立つ結果となり、伏見宮元帥の怒りを買った。
更に調査の思わぬ結果として、軍内での過度ないじめ、暴行、収賄、戦闘記録の書き換えなどなど、とても陸軍を馬糞となどと罵っていられない海軍の腐敗の実態も表に出ることになる。
海軍丙事件と後に呼ばれることになるそれは、昭和天皇にも咎められ、最終的に事件の主犯に加えて、海軍内の過激派や溢者の追放にまで発展した。
伏見宮軍令部長が主導したことから、伏見人事とも呼ばれることになる。
追放、予備役編入されていた条約派の多くは、その人事で現役に復帰させられ、その中には山本中将の親友であった堀中将も含まれていた。
事件の影響で艦隊派は半分内戦状態に陥り、伏見や加藤ら従来派と、強硬派の意見の食い違いや対立が原因で艦隊派は崩壊した。
また条約が失効したことで存在意義を無くしていた条約派は旧艦隊派と合流し、海軍内の構造は大きく変化した。
しかし、ドイツに滞在していた山本はその変動を掘の現役復帰ということでしか、知ることができなかった。
※ ※ ※
一九三五年一月一四日
「小官にドイツに行けと!?」
漆原大佐は我が耳を疑って、それを聞き返した。
「ああ、そうだ。欧州航路の定期便が、明後日には出港する。漆原にはそれに乗ってドイツに行ってもらう」
まだ驚きが隠せない表情の漆原大佐に向かって、大角海軍大臣からもらった命令書を見せる。
「陸軍技術本部からも何人か行くことになっていてな、いい機会だし最先端技術を学んでこい」
欧米の技術は最先端だ。
ドイツはその中でも突出しており、訪問はいい体験になるだろう。
「はあ、しかし今は人事問題の真っ最中ですし...」
漆原大佐はあまり乗り気ではないようだ。
それもそのはず彼はここ数日伏見人事に翻弄されて、あれやこれやと海軍内を行き来しており、疲労困憊の様子だった。
「それはこっちが何とかする。それに乗るのは客船『靖国丸』だぞ、疲れているようだし休養も兼ねるといい」
「靖国丸ですか...」
漆原大佐はそれを聞いた途端に目の色を変えた。
軍務での移動は交通費が支給されるので、事実上タダで欧州旅行ができるようなものだ、乗って損はないだろう。
「艦政本部としても第八部にしてもらいたいことがあってな、藤本造船技官の頼みでもあるんだ」
藤本造船技官はかつての艦政第四部長で、吹雪型、最上型、千鳥型などの駆逐艦、巡洋艦、水雷艇などを設計したことで有名で、溶接や屈曲煙突など革新的な技術をいち早く取り入れては実現していた。
しかし友鶴事件で謹慎処分となり、今週脳溢血で逝去された。
その報は新聞の一面を飾り、海軍内でも名声が高かった彼の死に多くの人が嘆いた。
西澤も彼の部下だった時期があり、惜しい人を亡くしたと思う。
「藤本技官の頼みとはなんですか?」
「ドイツの電気溶接技術を日本に取り入れることだ。本当はドイツに滞在中の山本中将に交渉してもらう予定だったんだが、中将クラスがドイツと交渉することに外務省が反対してな。その代わりにお前に白羽の矢が立ったというわけだ」
日本は電気溶接技術が列強に比べて遅れており、マル三計画もあるので早急にそれらの技術を刷新する必要があった。
「分かりましたよ、引き受けましょう」
漆原はどうせ命令でしょうし、と言って命令書を受け取った。
なお、予約されていた『靖国丸』の船室が三等船室だったのは、また別の話であった。
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