うしろ眼

@to1026

第1話

医師国家試験


源太が詩織と出会ったのは、提携大学との交流会、技術公開等の目的で開催されている、東都医科大学での合同解剖実習見学会に参加したときである。

東都医科大学理事の娘である詩織は、細身の体に白衣をまとってはいたが、

パンツルックの色は常に派手目であり、振る舞いも一際目立っていた。

数度の見学会で会釈を交わす程度の事であったが、長身、長髪、彫りの深いマスクの

源太に強い印象を持ったのは詩織の方である。

医学生で、肩まで伸びた長髪は珍しく、学内で咎める人もおらず、白衣の襟をたてて

学内を闊歩していた源太であった。

詩織が源太と付き合いだしたのは、医師国家試験会場で不思議な体験をしてからである。

医師国家試験は毎年二月の第一週の土曜日、日曜日の二日間で行われていた。

第一日目の一時限目は九時半より七十五問、制限時間は二時間四十五分、

二時限目は五十問を、一時間三十五分、三時限目は七十五問を、二時間三十分で回答を求められる。

合計四百問を十五時間弱で解かねばならぬ、ハードな試験である。

数年前までは、三日間の試験で、出題も五百問にも及んでいたが、現在は二日間で、

四百問に変更されている。

とは言え、設問が十数行に及ぶ問題もあり、速読でもかなりの時間を要し、

一問当たり約二分での回答作業は困難を極める。

その上内視鏡、エックス線写真、心電図等の資料が別冊として配布され、

それらのチェックにも時間を割かれる試験であった。

当然マークシート方式ではあるが、カンニング防止の為、マークシートの種類が、

左からも右への横式と、上から下への縦式の二種類があり、

一列目には縦式のマークシート用紙が配布され、二列目には横式のマークシートが、配布されるスタイル。

これで左右のカンニングは不可能となるのである。

大学卒業、卒業見込み者は、それぞれの大学当局が一括して、医師国家試験受験の

願書申請をする。

席順はこれまたカンニング防止の為、同一大学の学生が並ぶ事の無いようにA大学、

後ろにB大学、次にA大学、B大学と交互にの配置に並ばせるのである。

源太の教室には百人程の受験生がいたが、半数は見知った顔であった。

普通は三人掛けの机であるが、真ん中を空け、左右に二人が着席をする形式である。

源太の席は一番廊下に近い列であり、偶然にも後ろが最後尾の詩織の席であった。

詩織は父親の力によるコネ入学の為、成績が一向に上向かず、医師国家試験には、

可なりの危機感を持って試験に臨んでいた。

試験会場には年配の男性主任監督官と、男性監督官一人、女性監督官一人が配置されていた。多分女性受験生のトイレ退席の同行に対応出来る様に、女性監督官を配置しているのであろう。

優秀な医師の遺伝子を受け継いだ源太、助産師である大叔母からのマンツーマン教育、幼いころから医学書に囲まれ、言い換えれば医学書しかない環境、その上寝ている間も知識が増える時間を持つことが可能な源太にとっては、医師国家試験など、

個性の強い教授の期末試験より、レベルは数段低く感じられ、残り時間の三十分前には、全ての回答を終えて天井を眺め時間を潰していたのである。

詩織が不思議な体験をしたのは、一時限目の終了時間が余すところニ十分ごろに、

始まった。

一人の女性受験生が黙って右手を上げ、男性監督官が近づき一言、二言の会話の後、

男性監督官は、女性監督官に手招きをした。

受験生はトイレタイムの要望を出したらしく、女性監督官と教室前方の引き戸を開け、静かに教室を出て行った。

寒い二月の午前中、緊張感の漂う試験場、トイレに行きたい感覚には誰もがなる。

女性監督官と共に受験生が出た後、慌てた様に他の女子受験生の挙手があった。

先の女性と一緒に出れば良かったが気後れしたのか、

男性監督官が近づき、一声かけるとコクリと頷いた。

男性監督官が、主任監督官と目のやり取りで、受験生を廊下に連れ出そうとするが、主任監督官は一向に気付かない。仕方なく主任監督官の近くまで行き、女子受験生の方を指さしながら、小声で話しかける。

主任監督官は女子受験生の方を漠然と眺め頷く。

男性監督官は先の女性監督官が向かったトイレに受験生と共に出て行った。

源太は同じ階のトイレの位置も確認済、教室が十室分の距離であり、往復にはある程度の時間を要する。

二人目の受験生を女性監督官に引き渡し、一人目の女性を引き受けるため、男性監督官が教室に戻るまでは主任監督官が一人になった。

主任監督官は監督指導要綱の指示書でも確認しているのであろうか、机に目を落とし続けている。

詩織は解けない問題を飛ばし、最後に近い問題六十八番目に取り掛かっていた。

十数行にも及ぶ設問と別冊の資料を見比べ、手を焼いていると、男性のくぐもった声が聞こえた。

「六十八番の回答はAとE」と確かに廊下側の壁の中より聞こえる感じがした。

感じたのではなくはっきり聞こえた。

回答は一択もあれば、二択もある。

その問題は{三十八歳の男性、ひと月前からの腹部膨満感と、全身倦怠感とを主訴に来院。三年前に慢性骨髄性白血病と診断され通院治療を受けていた。

しばしの中断後・・・・}問題が長すぎると詩織は感じる。

十数行に及ぶ設問、別冊のカラー写真より、治療として適切なもの二つ選ぶ問題。

A 抗癌化学療法

B 分化誘導療法

C 免疫抑制療法

D サイトカイン療法

E 同種造血幹細胞移植

詩織は添付資料のカラー写真を見るが、大きさの比率から見て、赤血球の薄紫、

白血球の半透明のピンクは判別できるが、血小板が見当たらず治療法が分からない。

残り時間が少ないため、声の指示に従い素早くAとEを塗りつぶす。

周りの受験生は誰も気付かない。

焦り気味の詩織は、後僅かな時間でやり残しの問題へ遡る。

その問題は五十五番{慢性呼吸不全患者の動脈血ガス分析(自発呼吸)結果を示す数値が多数示され、呼吸商(ガス交換率)0.8である時の肺胞気道脈血酸素分圧較差を求める・・・・}

詩織は計算式を全く思い出せない。A~Eの回答から一択の形式ではなく、横並びの二つの枡の中へ数値を選び記入する形式であった。

縦二行に0~9までの数が記されており、左の列より

変則の問題であり、指が小刻みに震え、詩織の混乱は頂点へ。

壁の中より「五十五番の回答は三十六」と先ほどのくぐもった声が聞こえた。

無我夢中でその声に従い左の枡に三を右の枡へ六を記入するが字が乱れている。

男性監督官と先の受験生が引き戸を開けて戻ってきたが、その音にも気配にも、

主任監督官は気付いてはいなかった。

一時限目が終了し、滅多に料理をしない母が持たせてくれたお弁当を食べながら、

壁に向か微笑み、感謝する詩織であった。

二時限目の制限時間は一時間三十五分と短めであり、トイレタイムの退出希望者は、

皆無であり残念ながら壁からの声は聞こえなかった。

午後四時から始まった三時限目の試験では、二時間ほど過ぎると夕方の寒さか、

複数の受験生がトイレタイムを希望し、教室全体に落ち着きが無くなった。

詩織はそれどころではない、必死に問題と向き合うが、一向に捗らない。

問題は{七十八歳の女性、繰り返す失神を主訴に来院した。自宅近くの診療所で、

発作性心房細動の治療中・・・}配布資料の症状出現時の心電図より、現時点で行う処理として、適切なものはどれか二つ選べ。

A ジキタリス投与

B 抗不整脈薬の中止

C 一時的ペーシング

D 埋め込み型除細動器移植術

E 永久型ペースメーカー移植手術

資料には心電図の波形が三段に並び中段部分に波形の無い部分が示されていた。

どれもが正解のようであり悩みつつ期待を込めて壁を見やる詩織。

「五十番の回答はAとC」三度目の声が聞こえるが、何故詩織が解けない問題が分かるのか?本人はそれどころではない、慌ててAとCにマークを入れる。

周りの受験生は小さな声に気付かないのか、無視しているのか、残り僅かな時間で、皆、必死の形相。

主任監督官の「止め!!」の声で一日目の試験は終わった。

二日目の監督官も同じメンバーであり、詩織はなぜかホットした。

一時限目の終了間近には昨日と同様に複数のトイレタイムを希望する者がおり、

主任監督官が一人になるケースが度々あった。

残り時間が僅かとなり、詩織が問題に行き詰っていた時も源太は、余裕ですべての問題は終了しているのか、手持ち無沙汰のようで、後ろの髪の毛を弄ぶ。

詩織が三十三番の問題に取り掛かり、理解不能で持て余している時、

「三十三番の回答はCとD」何故壁の声は詩織の解けない問題が分かるのか?

不思議ではあるが、今はそれどころではなく、一問でも多くの正解が欲しいので、

声に従いCとDにマークをいれる。

あの声に縋るつもりで、飛ばして来た十番の無回答の問題を眺めていると、壁と源太の中間の距離位から、回答を指示する声が聞こえた。

源太の左手は口を覆っている様で、耳の上の髪が少し動いていることに気付く。

詩織は声の主は源太ではないかと感じた。

その日は合計八問の回答を壁の声より貰い、二日間で合計15問の回答を得たが、それが正解である保証は無い。

正解不可能な問題が、15問回答できれば、合格に近づくことは有り得る。

源太は何故うしろの席の詩織の困っている問題が分かったのか、これは第六感、

以心伝心、フィーリングの一致、相性の良さ、ますます詩織は源太への興味を持ち始めた。

医師合格試験の発表は例年三月の第三週の金曜日に行われているが、

源太は他の受験生とは違い、合格を確信していたので合否の確認すらしていない。

その日の午前中にメールの交換もしていない詩織より、合格の知らせと、お礼のメッセージが入った。多分父親の力でメールでも調べてもらったのであろう。

それ以来、詩織の強烈な、真剣なアプローチが続き、根負けするように、二人の付き合いが始まったのである。




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