第2話 水底を這えども、あたたかく
その日の彼女は、遅い帰宅となった。
蓮見夏子は少し苛立ちを覚えていたし、身体は疲労で重く感じていた。
タクシーに料金を払い、家の門を開ける。
彼はもう眠っただろうか。
ピンヒールを玄関に脱ぎ捨てると、寝室へと向かう。寝室の扉を開いてはじめて、夏子の表情は緩み、ほうっと息を吐いた。
「おかえりなさい」
はるとの声に、目尻を下げて夏子が返す。
「ただいま。夕飯は食べられた?」
夏子は、首に巻かれていたスカーフをほどき、ベッドへと腰掛けた。
「夏子さんが作っていってくれましたから……。おいしかったです」
夕飯の味を思い出すように頬を緩めるはるとを見ながら、夏子はシルクのシーツに体を預け、彼を呼ぶ。
「ねえ、きて」
白を基調にした寝室を、間接照明が程よく照らしている。足元に敷かれた絨毯は柔らかかった。その上で、自由帳と車の図鑑を広げていた彼は、立ち上がり、ベッドにのぼる。
「夏子さん、あの、今日はお洗濯ができました……!」
はるとはそう言って、洗い立てのカバーがかけられた夏子のまくらを抱き寄せて見せた。
カバーはよくシワが伸ばされていて、はるとなりに丁寧な仕事をしたことが窺える。
「枕のカバーも洗っておいてくれたのね。ありがとう」
夏子はそう言って、彼の頭に手のひらを添え、撫でる。
やわらかな指のにおいが、微かにはるとの鼻に届く時、夏子の手ははるとの頬を強く打った。
勢いのまま、はるとはベッドから転げ落ち、また、はるとの手から離れたまくらが床に転がる。
「背中のジッパーをおろして、紐をゆるめて欲しいのよ」
夏子は背中を示して見せる。頬を打ちすえられたはるとは、痛む場所を手のひらで押さえながら、なんだそんなことかと微笑んだ。
肉を打つ音の大きさに驚き、拍動を早めた心臓がすぐに落ち着きを取り戻す。
はるとが朝の夏子を思い出せば、確かに繊細なレースで覆われたコルセットをつけていた。いつもより時間をかけてセットされた髪も覚えている。
いい香りの中、夏子の白い指が黒髪を結い上げる朝は、ほころんだつぼみのように美しかった。
背面の紐を締め上げるのには、はるとの手が必要だったのだから、それをゆるめるのも自分の役目であろうと、はるとは思う。
床に落ちたまくらを拾い、軽く埃をはたく。そうしてから、ベッドへと膝をつけた。
ワンピースの小さなジッパーをつまみ、引き下ろすと、夏子の艶やかな肩甲骨と、背骨にそったくぼみが露わになる。
夏子の背には、肩甲骨にふたつ、腰近くにひとつ、ほくろがあるのをはるとは知っている。他に傷やしみはなく、彼女が結い上げた髪を解くと、流れるように滑り落ちた毛髪から、芳しい香りが立つ。
腰のほくろは、今日はコルセットに覆われていて見えなかった。
夏子の細い腰を締めている紐を解く。
ふぅ、と、夏子が息を吐く。前面のホックをはずし、コルセットを脱ぎ終わると、押し上げられていた乳房が重力に従ってやわらかく下へと流れた。
夏子の白い肌には、赤く圧迫痕が残り、痛々しくも思えた。
豊かな乳房にも、圧迫された痕が残っている。それは艶かしく、そして加虐欲を煽るものであったが、はるとはその痛々しさが早く消えないかと、労わる気持ちで夏子に触れた。
「ああ……」
夏子の唇から、安堵の声が漏れる。
振り返り、はるとを胸に抱く。はるとの黒髪に鼻先を埋め、宝石のように装飾された爪で優しく彼の頭皮を掻いた。
「今日はね、少し疲れたの」
夏子の肌からは、いつものボディクリームとは違うにおいがしていることに、はるとは気づいていた。
シーツの上で、夏子ははるとを抱え込み、横になる。ひんやりとしたなめらかなシーツは、夏子たちのからだを縁取るように皺を作っている。
しっとりとした夏子の肌。あまいにおいに、はるとは目を閉じる。すぐにまどろみが訪れる。夏子の肌は、はるとの頬を、指先を、優しく吸い付くように受け止めていた。
閉じた瞼の裏に、夏子の姿が浮かぶ。それは日々の姿であった。
慈愛に満ちたまなざしを、はるとへ向ける夏子。暖かな日差しを背負いながら本を読む彼女を、はるとが見つめていることに気づき、目線をあげて微笑んでくれる姿。
残酷な遊戯に笑う、熱を帯びた瞳。長いまつ毛に縁取られた黒い目が、はるとを見据え、微笑む唇の赤さ。ふっくらとした唇を割り開き、現れる舌が、はるとのために言葉を発する。夏子の声音が、はるとの鼓膜を震わせて冷徹に振る舞う。声ばかりが冷たく、その心根にあるを慈愛を隠せていない。
どれも、はるとを見て、はるとのために発されている。それは微睡の中に見る、幸福の夢のひと時であった。
しかし、うとうとと訪れた穏やかな眠りは、指先に感じた強い痛みに打ち消された。
「いだァ……!?」
夏子の胸に置いていた手首は、反射に引くことも叶わなかった。
「う、ふぅ、うぐ……」
手首を夏子の手が掴んでいる。湧き出した涙にぼやける視界の中で、はるとは自分の指を見る。爪と指の間には、先ほど夏子が髪を解いた際に抜いたヘアピンが深々と刺さっていた。
「寝てていいのよ」
夏子は微笑んだ。はるとは夏子の言葉そのまま、また乳房の間で目を閉じようとする。
じんじんと痛む指先は熱を持っているかのようであった。それを紛らわそうと目を閉じた数秒後、夏子はヘアピンをつまんで揺らすのだ。
途端に、耐えがたい痛みが指先から駆け上がり、はるとの喉は悲鳴を上げる。
「ぐぅ、ぎぃっ……!」
痛みに吹き出した汗が、はるとの額に玉を作る。はるとは、夏子に嬲られる自身の指を凝視していた。爪の間から滲み出した血液が、雫になり、指を垂れる。夏子の白い肌に落ち、惑うように湾曲した線を描きながら、彼女の産毛へと吸われていく。
「ああ……」
はるとはたまらず声を出す。それは苦悶ではない。別の感情から漏れ出たものであった。
「なつ、こさん……」
「なぁに。眠れないの?」
夏子の指がヘアピンから離れ、はるとの髪を掻き分けた。頭皮をかすかに引っ掻く刺激は心地よく、はるとを目を細める。
指先が燃えるように痛んでいたが、はるとの心は穏やかであった。指先を苛む痛みと、夏子の指先の動きだけに集中することは、夏子の全てを受け取っているような気持ちになれた。
夏子はようやく、ヘアピンをはるとの指先から引き抜く。はるとはまた悲鳴をあげたが、再びヘアピンが彼の指の肉に埋められることはなかった。
「シャワーを浴びてくるから、先に寝てていいからね」
やわらかな温もりが離れていく。はるとはぼんやりとした目で、夏子のいなくなったベッドを見ていた。途端にシルクのシーツが冷たく感じられる。
夏子の脱ぎ捨てたコルセットを抱くと、彼女の肌のにおいがしていたが、ほんの少し混じる他の何かは不快に感じられた。
「なつこさん……」
すん、と、鼻を鳴らす。はるとは、血の玉を浮かせる自身の指を、夏子のコルセットへと近づけた。内側の目立たないところに、ぽとりと血の滴を落とす。
——叱られるだろうか。
期待している。夏子がはるとを打ち据えている間だけは、完璧な二人だけの、他者の介入を一切許さない時間だからだ。
夏子のコルセットからは、自分の血の匂いがほのかにする。はるとは満足げに微笑んだ。
安心するにおい。この家に中に満ちた、かぐわしいしあわせのにおい。
夏子の肌。はるとの血と治りかけと傷口のにおい。
しばし、はるとはそのにおいの中に心を沈め、深く浸った。
夏子の中に身を沈め、夏子の中に眠りたいと思う。
じきに夏子がシャワーを済ませ、寝室へと歩いている音がする。
はるとは、布団をあたままでかぶって、目を閉じた。
「寝ちゃったの?」
夏子の声が聞こえる。きっとこのあとは、丹念なスキンケアをするのだ。
布団の隙間から、風呂上がりの夏子のにおいがする。芳しい肌が湯気で匂い立っている。薔薇のようなその香りが、はるとは好きだった。布団をほんの少し持ち上げ、夏子のにおいを吸い込みたくて鼻を鳴らす。
夏子はそんなはるとの姿を、見透かしたように微笑んだ。
小賢しくも思えるはるとの行動は、その実、こどものいたずらである。行動の先に起きる事象への洞察など足らず、夏子がはるとの思い通りに行動することはまれであった。
コルセットにつけられた血のしみを見つけ、夏子は、ふ、と、小さく笑った。
そうして、化粧水の瓶を取る。コットンの上に瓶の中身を落とすと、よい香りが部屋に広がる。
鏡を見ながら、今日あったことを思い出す。またひとつ、日々の積み重ねの結果として収益が増えていた。
疲労感と共に達成感があった。しかし、漠然とした重い感情からどこか抜け出せず、夏子は鏡に向き合ったまま、虚空へと視線を這わせていた。
夏子は一人で思考に耽るのは、あまり好きではない。胸中に渦巻く、不快な記憶が芋づる式に蘇ってくるからだ。
なにか集中するものが欲しかった。
視線を動かしながら、ドレッサーの端に置かれた、読みかけの本の背表紙を繰り返し読んだ。
猛烈な勢いで文字を読めば、それは不快な記憶を思考の奥へと押しやり、薄めさせる。自分のことを考えないでいられる時間が、夏子は好きだった。壁のように本棚が並ぶ中で、文字から文字へと飛び移るように過ごすことだけが、胸中の灼熱を癒す。
著者の思考に間借りし、文字列の渦に座り込むことは安らかであった。
自分以外の誰かに、思考の大半を捧げる没頭感。それに近しいものを、夏子ははるととの関係にも感じていた。
夏子は頬に置いたクリームを、てのひらで馴染ませながら微笑んだ。
顔を上げると、鏡に映った本棚が見える。
夏子の本棚には、みっちりと本が詰まっていた。娯楽小説に、漫画。学術書に学生向けのライトノベル。雑多に詰め込まれたそれらは、夏子の蔵書の一部であった。
本棚からあぶれた、自動車メーカーのカタログや、図鑑。部屋を見回すと、それらを収める小ぶりな棚が必要に思えた。
「ねえ、はると。あなたの本が増えてきたし、明日は本棚を作ろうか」
甘い声で、夏子は言った。
布団の下で、はるとが身じろぎをしている。なにごとか返そうとしているのか、もしくは本格的な睡魔に襲われて、返事をすることもままならず、むずむずとしているだけなのか。
夏子は、布団の中に右手を差し入れる。すぐにはるとの両手の指が、夏子の細い骨を確かめるように撫でた。
うやうやしく、頂戴するように。
夏子は左手も差し入れ、はるとの愛撫を享受した。
そして、ふいにはるとの指先の傷口を、ぎゅっと指先で押し潰した。
「ぎゃっ」
はるとが悲鳴を上げる。夏子は構わず、血の滲んだはるとの爪を、繰り返し繰り返し、強く指で押し潰す。行き場をなくした血液が、生傷から滲み出す。
「うっ、ううっ……う……」
「どんな色の本棚がいいかな?無垢材もいいけれど、色を一緒に塗るのも楽しそうよね」
ぐ、ぐ、と、断続的に襲いくる指先の痛みに、はるとは身悶えした。しかし、夏子の左手は、はるとの右手首を掴んでいる。腕を引くことを許されず、はるとは指先を嬲られるに任せる。
いや、許されていたとして、手を引くことなどなかっただろう。はるとは、夏子によく見えるように、布団の外に顔と手を差し出したのだから。
「はると、あなたは何色が好きだったかしら……」
——みち、と。
微かな音と共に、はるとの爪が、半分ほど指から離れた。
ぶわ、と、はるとの薬指からは血液が湧き出し、赤い玉となって夏子の手のひらへと落ちる。血を受けた夏子の手の中で、はるとの指先がぶるぶると震えた。
「あ、あ、あっ……赤と、黒とっ……」
喉奥が引き攣ったような声で、ようやくはるとがそう返した。
「そう。それなら部屋に合うように、白にしようかしら……」
夏子は、張り付いていた爪の残りを引き剥がしながらそう言った。はるとの視線は定まらず、溢れた涙の中で溺れている。
「い。いいと思います……」
はるとは顔を涙と鼻水で濡らしながら、夏子の言葉に頷いた。激痛に、顔面は蒼白になっていた。
だが、はるとは嬉しかった。夏子は、はるとの好きな色を全部覚えてくれていたのだ。もしかしたら、明確に話したことなどなかったかもしれない。だのに、夏子は、はるとが特に気に入って見返す本の内容から、はるとが好きな色を知っておいてくれたのだ。
「明日は、家具屋さんにいきましょうね……。一緒に組み立てたりするのも、きっと楽しいわ」
そう言って、はるとの手首を締め上げていた夏子の指が離れていく。はるとの皮膚に赤く浮かんだ夏子の指の痕。はるとには、それが名残惜しくも感じた。
夏子は、はるとの隣へと、身体を横たえる。夏子の手を濡らしていた血が、シーツにしみを作った。明日きっと、彼女ははるとの血液を、手ずから洗って落とすのだろう。ていねいに、その可憐な指で。
拍動に合わせて痛む指を感じながら、はるとも目を閉じる。白い本棚に、パトカーの本を置くのを楽しみに。そして、夏子が与えた痛みを口に入れ、微かに音を立てて舐めた。
すでに寝室には、日常、しあわせの匂いが満ちており、はるとはそれを深く吸い込んで眠った。
了
2025/04/10
彼の囀る声 宮且(みやかつ) @gidtid
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