nontaitoru

remu

第1話

「non title」



 また、だ。スマホに届いた一通のメール。

『この度はご応募いただきありがとうございました。厳正なる審査の結果、この度は落選の運びとなりました。』

午前十時ぴったりに届くと聞いて、十分前からスマホを握りしめていた。でも、そんなことは関係ない。スマホの画面をそっと閉じて机の中にしまう。まだ、授業中だ。スマホを投げ出すことも、泣くこともできやしない。それでもジワリ、滲んで来る涙を止められなかった。角っこの席でよかった、なんて思いながら下を向いて涙を拭う。

 私は、歌手になりたい。願い始めたのは物心ついてすぐの事。お母さんが見ていたテレビに映っていたたくさんの歌手やアイドルをみて、「私も歌いたい!」そう意気込んだ。幸い私には音感があって、両親も私の夢を応援してくれたから、ボイトレに通うことも応募することも快く送り出してくれた。だけど、私はまだただの一度も舞台に立ったことがない。高校三年生、そろそろタイムリミットが近づいてくるのに。もちろん、そんな簡単な世界じゃないことも知ってる。いつかは夢が破れることがあるかもしれないことも知ってる。知っていても、やっぱり、『落選』の二文字は心に刺さる。

 どうしよう、このあとの授業さぼっちゃおうかな。チャイムの音と共に立ち上がって教室を出た。次の授業の先生とすれ違わないように気を付けて廊下を歩く。今日は一年生が校外学習で出かけているからか校舎は静かだ。

 前、最終審査まで残った時に審査員の一人に言われた言葉が頭を占める。

『君、本当にこの曲を歌いたいの?上手だけど、君の歌にはなってないよ。』

何も言えなかった。最終選考で歌った曲は私が一番歌いやすい、自分に合っていると思ったから選んだ。もちろん、歌詞の背景とか曲を作った人の想いが詰まったネット記事もちゃんと読んだ。自分なりに、曲の事を理解したつもりだった。でも。好きな曲なのかと言われればそうじゃない。歌いたくて歌っているのかと聞かれれば分からない、としか言えない。どんなにYouTubeやCDを聞いたって、「これを歌いたい」「これじゃなきゃダメなんだ」って曲には出会えていない。それに、オーディションに受かりたかったら自分が一番得意な曲を持ってくるのが正解だろう。なんであの人はあんなことをいったんだろうか。結局、そのオーディションは、落ちた。

  ポケットの中でイヤホンとスマホがぶつかるのを感じながらどこか気の向くままに足を動かす。その途中、途切れ途切れに音が、曲が聞こえてきた。これはなんていうタイトルなんだろう。たまにしか聞こえてこない音に方向を見失いそうになりながらも曲の元にたどり着く。そこは、誰もいないはずの1年生の教室だった。人ひとりが通れるくらいのドアが開いている。そこから音が漏れたのか。

そっと中を除くと男の子が一人、パソコンに向き合っていた。男の子がカチリ、マウスを押すと曲が流れ始める。知らない曲だ。

私は思わず教室の中に足を踏み入れた。カタン、と音がして中にいた人が振り返った。逆光で顔は見えない。もう少し踏み込んで光で顔が隠れない位置まで進む。

「その歌、君の?」

驚いたような、焦ったような表情の男の子と目が合った。

歌声は人間の物じゃない、合成音声だ。その歌声よりも歌詞に引かれた。

「誰ですか。」

固い声に明るく自己紹介をする。

「松下美鈴です。一年生、だよね?」

自己紹介で多少警戒心は解けるかと思ったけれど、もっと警戒されてしまう。

「一年、波谷小太郎です。」

一応、といった感じで名乗ってくれた波谷君の前に置かれたパソコンを指さす。

「その曲名を教えてほしくて。」

この曲なら、もしかしたら。そんな淡い願いを込めて頼み込む。けれど返ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。

「……曲名なんてありません。」

「え?探せば、というか流してるんだからYouTubeとかTikTokとかにあるんじゃ。」

波谷くんは視線をうろ、と彷徨わせながらつぶやいた。

「この曲は僕が作ったやつなんで。」

「え!?」

驚いた声を上げると波谷くんは嫌そうな顔をする。

「どうせ貴方もバカバカしいって思ってるんでしょう。早くどっか行ってください。ここ、1年の教室ですし。」

「違うよ!」

「違くなんかない!」

落ち着いた声色から一転、波谷くんの迫力に押されるように1歩、後ろへ下がった。

「1年なのにどうして今日の校外学習に行ってないのかって思いませんでしたか?」

私の反応なんて気にせず、というより気にしていられないような雰囲気で捲し立てられる。

「僕がこうやって機械に歌わせているの気持ち悪いって言われたからですよ。学校の外に出れば、インターネットの海に飛び込めば普通なのに……!今この教室じゃ僕は異端らしい。だから、僕はいつも家にいる。ようやく学校に来たと思ったらなんだ、初めて会う貴方にも笑われるのか。よく言うじゃないですか、SNSのフォロワーの数はあなたを好きな人の数じゃなくてあなたに銃口を突きつけている人の数だって。いいや、僕にはSNSよりもリアルの方がよっぽど怖い。……早く出て行ってください。」

カッと開かれた目は私と視線が合ってから激しさを失った。喋りすぎた、と呟きながらパソコンを少しいじって足元にあったリュックサックにしまい込む。

「貴方が動かないなら、僕が帰ります。」

隣を通り過ぎようとした波谷くんの肩をすんでのところで捕まえる。

「ちょっと!」

睨まれながらも私は目の前で思い切り頭を下げる。この曲なら。

「話を、聞いてください。」

不意をつかれたのかタジタジになった波谷くんはリュックサックを背負い直して視線を彷徨わせた。

「ひとまず、顔をあげてください。上履きの色からして、三年の先輩ですよね。誰かに見られたら大変だから。」

そっぽを向く波谷くんの手を握って屋上へ連れていく。本当は立ち入り禁止の屋上。それでも私は入れる。正確には条件が揃った時だけ。屋上に繋がる入口は二箇所。先生のマスターキーでしか開かない扉。これは無理。でももう1箇所、音楽準備室から出る扉。ここは私でも行ける。次の時間に音楽室を使わない時限定で、音楽の松下先生が開けておいてくれる。今日だって。

「お、屋上に出るのか?ボクも連れて?」

「ちょっと試したいことがありまして!」

何を言っても無駄だと諦め半分の波谷くんは松下先生にぺこり、会釈をして頷く。

「4時間目が始まる前に出ていけよ。あと、いつも言ってるけど」

「「屋上は気をつけること!」」

先生と口を揃えて約束を口にする。普通なら屋上は生徒立ち入り禁止。もしも私が屋上に出ていることがバレたなら、怒られるのは私だけじゃ済まない。松下先生もまとめて叱られる。それでも屋上を開放してくれるのは、音楽の合唱の時間に私の歌声に感銘を受けたかららしい。ほんとかどうかは知らないけど、「部屋なんて狭い所じゃなくて、空の下とか山の中とかもっと広いところで歌え」って屋上を貸してくれた。私がオーディションを受けていることも知ってる。たまになら授業をサボって屋上に来ても大目に見てくれるし最高の先生だ。

錆び付いたドアノブを回して屋上に出る。顔に吹き付ける風が気持ちいい。後ろから着いてきた波谷くんは初めて出る屋上に、さっきまでの呆れ顔はどこにいったのか物珍しそうな表情で辺りをキョロキョロと見渡している。

「屋上なんてあったんですね。」

「うん。」

入口に置いておいたふたつの椅子を屋上のど真ん中まで引きずっていく。途中で片方持ってくれたから波谷くんはいい人なのかもしれない。

「ちょっと聴いててくれる?」

まだ興味深そうに屋上をチラチラ見ている波谷くんには申し訳ないけど、あんまり時間は無い。片方の椅子に座らせて、もう片方の椅子にポケットから出したスマホを立てかける。ちゃんとオフボーカルになっていることを確認して音を流す。最初のリズムはちゃんと聞いて、喉が開いている事を意識して、私の歌声は誰かに届くと自負して。歌う。

歌っている時は何も考えてない。全部を感じている。矛盾しているかもしれないけど、そうとしか言いようがない。屋上の床の硬さとか風とか目の前で聞いてる波谷くんの存在とか、考えてない、感じてる。

すぐに三分十五秒の曲が終わった。この前のオーディションで歌った曲だ。そして、今日落とされた曲。

「どうだった?」

「えっと、びっくり、しました。」

俯きながら波谷くんは続ける。

「意外でもありました。たぶん、ほんとにさっき僕の事を冷やかしに来た訳じゃないんだなって思って、ごめんなさい。それと、上手でした。」

「よかったぁ。」

ホッとしながらスマホを取り上げて椅子に座る。

「それでね、私、オーディション受けてるの。歌手になるための。」

オーディション、オウムのように繰り返される言葉に頷く。

「でも、ずっと落ちててさ。」

「こんなに上手なのに……?」

その言葉に眉が下がる。

「はは、ありがとう。私もそう思う。自分は上手い方だと思う。過信してるとかじゃなくて積み上げてきたものの自負で思ってる。」

強い風が吹いて私たちの髪をぐちゃぐちゃにした。なんだか泣きたくて仕方がなかった。自分で言ってて思った。落ちても仕方がない。反対になんで落ちるんだろう。オーディションは順番に歌っていく公開形式だった。私が1番上手だと思った。なのに。

「なのに、なんでだろうね。審査員の人に言われたことがあって、「歌っている曲が好きですか?」「貴方の歌に聞こえない」って。」

未だにその答えは見つからない。

「YouTuberとかTikTokとかで最新の曲から古い曲、ヒット曲も知る人ぞ知る曲もかなり聴いてるつもり。それで1番自信を持って歌える曲を選んでる。さっきの曲もそう。でも、好きですか、とか聞かれたら何も言えない。だから波谷くんの曲を、歌詞を聴いてこれなら好きになれるかも、この曲が好きだって思った。勝手に連れてきてごめん。」

しばらく屋上には沈黙が流れた。何かを考えるような波谷くんはリュックサックからパソコンを取り出して弄り始める。

「ここって学校のWiFi通ってます?」

「あ、うん、通ってるよ。」

波谷くんは立ち上がって椅子にパソコンを置いた。

「僕、音楽が好きなんです。先輩からみたらなんだお前って感じだと思うんですけど、やったらできたんです。曲を作るのは。でも、歌えなかった。だから合成音声、VOCALOIDに歌ってもらってます。あ、先輩LINEください。」

言われるがままにLINEを交換する。

「今歌詞送りましたから。オフボーカルもボーカルが付いてるのももう少しでアップロードされます。」

「え?」

目の前の波谷くんの目は爛々と輝いていた。

「もちろん、ボカロにはボカロの良さがあります。ボカロ曲だって大好きです。でも、この曲は元々自分で歌う予定で作ったんです。まぁ、結局技術が追いついてなくてボカロに歌ってもらってるんですけどね。それで、さっきの先輩の歌声を聞いて、思い描いていた曲のイメージとピッタリあったんです。イヤホンかヘッドホンあります?」

ポケットから出したイヤホンを振ってみせる。

「ひとまず通しで聞いてください。話しはそれからです。」

今までの波谷くんはどこに行ったのやら、押しの強い言葉に頷きつつ曲を流す。LINEで送られてきてる歌詞はこのためか。歌詞を見ながら曲を聴く。ほんとは別々の方がいいんだろうけど、4時間目が始まる前にここを出ないといけないから仕方がない。

メロディは王道進行。後ろで鳴るドラムが気持ちいい。1拍開けて入ってくる歌詞。これなら好きになれそう、そんなんじゃない。これが、好きだ。真っ直ぐな、優しい、でも現実的な歌詞。

やっぱり、好きだなぁ。廊下で聴いた時にも思った。何が、どこが、というよりも私の歌いたいことが詰め込まれていてまるで私のための歌。

「さっき先輩はこの曲を歌いたいって言ってくれましたけど、逆です。この曲を歌って欲しい。」

波谷くんの熱の籠った声に、震える手を伸ばす。

「歌って、いいの?」

「お願いします。」

  それから私たちはすぐに行動に移した。1番近いオーディションは最初に書類審査。次は録音音源を送る。最後に、その録音音源と同じ曲を、生で歌う。書類は自分で書いて送れるけれど、録音音源は2人でやらないと間に合わない。それに規定では「YouTuberもしくはニコニコ動画に上がっていること。自作音源は不可」と書いてある。まずはこの曲をYouTuberにアップするところから始めないといけない。

Twitterも開設して、アイコンも付けて、いざ投稿!の時にいちばん困ったこと。それはタイトル。何か浮かんできても曲から少し浮いている感じが否めない。

「どうしましょう……タイトルが決まらないことには上げられない。」

「うーん。適当なの入れるのもなぁ。一旦後回しか。」

製作者本人がタイトルを決めないで作ったんだから私が口を挟んでもいいものはなかなか出てこない。

かれこれずっと唸っている。その間に書類審査は通った。二次審査、データを送る日まであと二週間。データを送る一週間前にはYouTubeに上げたいから、期限は実質残り一週間。

 波谷くんは曲の一部改変してもっとベストな状態にしてくれた。授業中も昼休みもパソコンに向き合っているらしい。授業はちゃんと受けなよ、なんて先輩めいたことを言ってみたら隈のついた大きな瞳でギョロリと見つめられた。本人曰く、そうでもしないと間に合わない、だそう。今まで通りに家に引きこもっていれば時間も問題ないし、授業中に進める羽目にはならないけれど私に合わせるためにわざわざ学校でやってくれている。頭があがらない。放課後私が波谷くんのところにお邪魔することも考えたけれど、それも間に合わなさそうだった。二人が同じところにいれば一時間毎の休み時間にも合わせたり、修正したりできるからやっぱり波谷くんは授業中もパソコンに向かうと言った。ちなみに先生は放っておいているそう。それはそれで問題な気もするけれど今だけは助かる。

「まぁ、純粋に先輩のためだけじゃないです。僕も、どこまでできるのかやってみたい。自分の部屋だけだった世界を変えてみたい。ちょっとワクワクしてるんです。」

長い前髪から覗く両目は輝いていた。

私も今までにないくらい録音が難しかった。いくら波谷くんに調整してもらっているとはいえ、ボカロが歌っているんだ。高低差がえげつない。人間に歌わせる気がない。

「僕が歌えないのがムカついて、それなら人間には難しそうな音域でと思って作り直したんです。」

なんて涼しい顔をして言い切る波谷くんを若干恨みながら歌う。せっかくこんなにいい曲なんだ、私がその良さを活かせなくてどうする。四苦八苦しながらもなんとか納得のいく録音が出来た。残りは本当にタイトルだけ。ここが一番の難問かもしれない。

作者本人にタイトルを付ける気がなかったから。

「そういえばなんでタイトルを付けようとしなかったの?最初さ。」

波谷くんはボーカロイドが歌う曲を流して目を閉じた。

「元々は自分が歌うつもりだったって言ったじゃないですか。それでも今アップロードしようとしてるのはボカロが歌ってるやつで。なんか、失礼だなって。僕の代わりにしてるみたい、いや、してて、このボカロのための曲じゃないから悪いなと思うんです。」

なるほどなぁ。理由を知れば知るほどにタイトルは出てこない。

「もういっそのことタイトルなし?」

「それは、まぁ、なしではないです。」

二人揃って頭を捻る。

アップロードの目標日はすでに過ぎている。これ以上は遅らせられない。

波谷くんは頭を抱えて唸り続ける。これもダメ、あれもダメ、これじゃ既存曲と被る……漏れ出る言葉を聞きながら私も考える。

「タイトルがない、ことをタイトルにする……。ノータイトル、ノンタイトル。」

ぶつぶつ呟いていた声が止まった。もしかして私、やらかした?流石んイコンなのはダメだよな。ごめん、と口を開こうとした時目の前に波谷くんがいた。そのままガクガクと肩を揺さぶられる。さっきまで離れたところで俯いていたのに。なんてどうでもいいことを考えながら揺れに耐える。

「それですよ、それ!」

「えっと、何が。」

「タイトルがですよ!ノータイトル。もしくはノンタイトル。これがいい。ちなみに「ノー」と「ノン」って何が違うんですか?」

私はスマホに飛びついた。

わかったような、わからないような、検索結果。ひとまずどっちでも使えそうだ。

「どっちにする?」

「んー、ノンタイトルの方がしっくりきます。」

じゃあ、それだ。綴りはカタカナか英語。ここはサクサクと決まる。

「この曲のタイトルは、nontitle。」

誇らしそうに波谷くんが名付けるのを見守る。

「じゃあ、アップロード、しますよ。」

「うん。」

ゆっくりとデータが読み込まれていく。少し待って、電子の海に私たちの曲が投げ込まれた。感慨深く思いながらじわり、じわり、ペンの先からインクが染み込むようなゆっくりとした再生回数の増加を眺めた。

 私も二次審査の録音を送る。それから数週間後、届いたメールを手に息をつく。

「よし二次審査通ったぞ。」

昼休みに屋上で波谷くんの前にメールを掲げる。

「おめでとうございます。」

「ここから、だ。ここから。」

最終審査には私がずっと忘れられない言葉を言った人の名前もあった。今度は、あの質問にも答えられる。

 今回は個別の審査だった。扉の外に並べられた椅子に座って待つ。廊下の両サイドに並べられた椅子に番号順に座る。当日引いた番号札の順番に沿って審査は行われる。最終審査まで残ったのは十五人。普段と比べて多い気がする。いつもは五人、よくて七人くらい。部屋は防音仕様になっているのか、外で待っている間に他の人の歌声は聞こえてこない。私が引いた番号は七。ハッキリ言って最悪だ。ど真ん中すぎる。前の番号の人にすごい人がいたらその人に霞んで、印象が弱くなる。反対に、前の人よりも印象付けられても、遅い番号の人を見るひとつの基準になる。いや、何人がここにいても私は歌う。することは変わらない。息を吸って、吐く。あと二人だ。前の人の背中が丸まっているのをみて背筋を伸ばす。猫背になると上手く息が吸えなくなる。今は猫背になる理由なんてない。自信しかない。今日がベスト。終わった後に走って帰れるくらいの高揚感。こんなの、久しぶりだ。

 あと、ゼロ人。前の椅子、六つが空になった。

「七番の人、どうぞ。」

六番の人が出て行って数分後、私は呼ばれた。

大丈夫。楽しんで、それでもダメだったら。

 「先輩、明日ですよね。」

「そうそう。緊張するな。」

「そうなんですか?見えないですけど。」

ぐぅッと背筋を伸ばして発声練習を繰り返す。

「毎回、不安しかないよ。自信もあるけどさ、不安もある。ここ最近は特に。またダメだったらどうしようって。」

波谷くんはパソコンを抱えなおして空を見上げた。つられて顔を上げる。空は、青かった。詰まっていた呼吸がふ、と解けていく。いくら深呼吸をしても取り込み切れなかった酸素が一気に全身に回る。

そこに波谷くんが口を開いた。

「ダメだったら……。それでも笑ってください。」

目をぱちくり、とさせる私に波谷くんは屈託なく笑った。彼の笑顔を見たのはこれが初めてで、二重の意味で呆気に取られる。

「僕、明日はいつでも電話に出られるようにしておくんで、どうだったか教えてください。」

屋上の扉が開いて、先生が入ってきた。

「そりゃいい。最近の笑顔なら審査員もイチコロだ。」

「何言ってるんですか。」

呆れながらも笑う。

あ……。私。

「笑ってる!?」

「気がついてなかったのか。」

私と先生だけが知ってること。それは私が笑えない、ということ。医者からはストレスだと言われたけれど、一向に良くなる気配はなかった。ストレスの元が大好きな歌だなんて認めたくもなかったから。でも今、笑った。笑えた。

口元が緩むのを感じながら頬を伝う涙を拭う。ずっと、ずっと怖かった。歌がストレスってことは本当は歌が好きじゃないのかなって、やめた方が楽になれるのかなって。でも違う、笑えなくなった原因は「歌」じゃなくて「歌を好きだと言えなくなった自分」だ。考えることが増えて、将来について悩んで、好きなことは仕事にしない方がいいとかこんなんでこの先どうするの、とか他人の言葉を取り入れすぎて苦しがって「好き」が分からなくなったのは自分だ。だけどそれを認めたくなかった。そんな思考に陥ったことを受け入れたくなかった。私の全てを否定するような気がして、自分の根幹・生きている理由までも自分で否定する気がした。だけど今。全部、全部をひっくるめて自分なんだってわかった。歌が好きなのも、歌で悩むのも、認められなかったストレスの原因も、それでもやめられないオーディションも。全部全部を集めて包んで私が出来てる。

言える。大声で言える、私は歌が好きだ。

「明日、頑張ってくるね。」

私は飛び切りの笑顔で二人に笑いかけた。

 「ダメだったら、笑おう。」

深呼吸をして扉を叩く。今までなんでずっと緊張してたんだろう。そんなことを思うほどに心は凪いでいる。心臓が飛び出しそうなドキドキも、手のひらを濡らしていた汗も、今日はない。ほんの少しのワクワクと、自信と、楽しさでできている。

「失礼します。」

中に審査員は三人。それぞれの手元にあるのは一番最初の選考で送っている履歴書みたいな書類。部屋の隅二つにある大きなスピーカから音楽は流れてくる。あぁ、早く歌いたい。私の声を届けたい。波谷くんの音楽を知ってほしい。

自然と口角が上がる。

「七番、松下美鈴です。よろしくお願いします。」

スタッフさんから合図があってイントロが流れ始めた。

何度も聴きこんだ。練習のためもあるけれど、好きだから。好きな曲は何度だって聴ける。毎回毎回違う発見があって、その度に新しい私と出会える。波谷くんが試行錯誤を重ねた音。

Aメロ。息を吸う。私が歌ってみて波谷くんが感動してくれたのを覚えている。行ってらっしゃい、と貸してくれた曲、nontitle。好きも嫌いも、生きるのも死ぬのも、楽しいのも病むのも、全部自分だと歌う。サビは今までと打って変わって、高音で叫ぶようなところ。優しいだけじゃ、前向きなだけじゃやっていられないという葛藤。最後、終わりに向けてどんどんゆっくり低音になっていく。この差が波谷くんと私のお気に入りポイント。三分ちょっとの曲で時間だけ見ると普通の、たくさんある曲と変わりはなしない。でもこの差が三分をあっという間に感じさせてくれる。聴き終わった後、歌い終わったとに「もう一回」アンコールを求めてくれるような曲を目指して作って、歌う。

マイクを置いて、一礼。私の方があっという間に感じたよ。審査員の人たちの拍手にもう一度礼をして呼吸を整える。

審査員の人たちが紙に評価を記入して、いくつか質問される。

当たり障りのないことから私にとって重要なことまで。何を聞かれてもいいように準備してきたけれど、準備していたものよりも自然な回答が口から滑り落ちる。私の本音。

「この曲は、好き?」

この質問を待っていた。私は迷わずに頷いた。

 建物を出てすぐ、スマホの電源を入れる。ワンコールで波谷くんは出た。

「終わったよ!」

『どうでしたか?』

冷たい風が頬を撫でる。前は結果が怖かった。風が吹いて、飛ばされるような脆い自信しか持ってなかった。

今では、弾む。なんとなく、前にあの審査員の人が言った意味もわかる気さえしてきた。

「バッチリ!」

 YouTubeにもニコニコ動画にも上げた「nontitle」は劇的にバズることはなかったけれど、一本目の投稿にしてはまずまずの再生回数を出した。

波谷くんは2曲目を作っている。今度歌うのは私だ。ずっと歌手になりたいと思っていたけれど、結局それは執着だと気がついた。私はただただ歌うことが好きで好きで仕方がない人間なだけ。歌手になれなかったとしても歌うことをやめるわけじゃないし、こうして誰かの曲を歌う。夢に雁字搦めになって忘れかけていた「好き」は手元に戻ってきてより一層光った。あと少しで結果が出る。今までとは違う。待ってるのが怖いだけじゃない。ワクワクもするし、次は何を歌おうと、「次」を考えられる。

 「ちょっとここ歌ってくれますか。」

私は弾みをつけて返事をした。

「もちろん!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

nontaitoru remu @kiminisekai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ