七章:揺らぎ火と飛び火が歩み出す

「教えたいことか」

 男の声がした。聞き慣れていない、けれど、どこか懐かしい声。

「俺は一つだけだな」

 力強く、暑苦しい。

「いいか、紅仁」

 暗闇の中、心の芯が震える。

 呼びかけられた紅仁は、応じようとした。

 言いたいことがたくさんある。焦燥に駆られた。

 けれど、どうしてもうまくいかない。自分の身体が意思どおりに動かせなかった。

「紅仁さん」

 次に聞こえたのは、少女の声だった。拘束から解かれ、ばねのように身体を起こした。

 現実の感覚がゆっくりと、着実に戻ってくる。

 紅仁は自分の部屋のベッドにいた。傍らには出会ったばかりの少女がついている。気だるげな目のままなのに、必死な形相だった。

「大丈夫ですか、気分は」

「さすがにさげさげかな」

 窓の外が騒がしかった。目をやると、遠くに光があった。夜にしては不自然な明るさだった。

「……命があるだけでも儲けものです。あの二人のところに単身で乗り込むなんて、乙等でもやりません」

「未開の地を踏破したいお年頃だからさ」

 寝起きにしてはそこそこか、と自己評価を下したところで、頬に衝撃が走った。レミに平手打ちをされた。彼女の眼尻には涙が溜まっていた。

「死んでしまっていたかもしれないんですよ。いいえ、死んでもいいと思っていたでしょう!」

 痛いほど、きつく手を握られる。その激しさに紅仁は戸惑う。出会って一日も経っていない相手への熱さではなかった。

「甲まで死んでしまったら、甲のお母さまの想いはどうなるんですか。甲はここで死んではいけません。妹さんだってまだ生きています。生きなくては、駄目です」

 だんだんと語気は弱くなっていき、最後はささやきになった。紅仁の胸へ、レミが頭を当ててくる。

「……生きていてくれてよかった」

 温もりが、心地よく身体へ染み渡る。安堵の声に甘さすら感じた。

「……悪かった」

 そう言って腕を動かそうとしたが、思ったように動かせなかった。神経の伝達に身体がついてこない。

「身体が重い」

「力の使い過ぎです。回復するまでおとなしくしていてください。注意するまでもなく、そうせざるをえないでしょうが」

 身体を起こしたレミに、腹を手のひらで叩かれた。いい音が鳴る。

「そりゃ残念。もう一杯コーヒーを淹れてあげたかったんだけど」

「乙がきちんと休んでくれる方が、よっぽどいいブレイクタイムになります」

 レミは袖でない涙を拭う。平静に戻ったようでいながら、視線では紅仁の様子を探っていた。やたらと警戒させてしまったなと、苦笑する。

「分かった分かった。もう無理はしないよ」

 レミが言ったとおり、そもそも無理しようとしてもできそうになかった。

「そうしてください。乙もここにいますから、抜け出せませんよ」

 瞬間、呼吸を忘れる。叱責されたとき以上に紅仁は狼狽した。

「えっと、この部屋にいるつもり?」

「はい」

「一晩中?」

「はい」

 二人きりの空間で、自分はベッドの中。そばには、同年代の異性。

「ふうん、へえ、そうかあ」

「……脳にダメージが?」

「いやあ、大丈夫。ちょっと多重人格気味なんだ」

 レミが首をひねる。紅仁は深く考えないことにした。

「そういえば、あの二人はどうなったの」

「……お答えしません」

 回答を渋ったこと自体が、生きていることを示唆していた。「そうか」とつぶやき天井を仰いだ。

 元々失敗の公算も高いと思っていた。それでも、やりきれなさが重く心に淀む。あと一撃入れられていれば。

 攻撃の届く範囲にあの女はいた。保健室の中から、壊れた扉の裏にいる彼女を狙っていた。けれど、どうしても火を出せなかった。回復したのは、逃げるフリードへ最後っ屁を贈るのが精いっぱいのタイミングだった。

「君に改めてお願いがあるんだけど」

「……なんでしょう」

 居住まいを正したレミに、紅仁は薄く微笑んでみせた。

「俺を共生派に入れてほしいんだ」

 彼女の顔が渋くなる。狙いがもうばれているのだから、当然の反応だった。紅仁はひるまない。

「ほら、行く当てもないわけだし。そちらさんも戦力不足なんだろう」

「……考えておきます。乙の一存ではどうせ決められませんから」

「十分。最終的には誰が決めることになってるの」

「共生派のリーダーです」

「好きな食べ物は」

「……賄賂する気まんまんですか」

「賄賂なんて人聞きの悪い。ちょっとこう都合のいい薬を仕込んでおいてさ」

「賄賂より性質が悪いです」

 彼女はため息をついた。ずっと張り詰めていた空気が弛緩する。

「貢物は追々考えることにするよ。どうせ、カナタも迎えにいかないといけないし。今日はおとなしく寝るね」

「是非そうしてください」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 紅仁は目を閉じた。

 すべては明日になってからだ。

 大事なものを奪われたからには、落とし前をつける。


 五分としないうちに、少年は規則正しい寝息を立て始めた。レミはほっと息を吐く。安堵するとともに、強い疲労が訪れる。「うう」と呻き、膝を抱くようにして身体を屈めた。

 フリードへ最後の一撃を投じた紅仁は、能力の使い過ぎで倒れ伏した。校舎はどんどん火に包まれ、外からは「火事だ」「早く水を」と騒ぎの声が上がっていた。

 誰かに見つかると時間をとられる。起きたことを説明するのも困難だった。紅仁を休ませるためには、急いで敷地から離れる必要があった。

 レミは渾身の力で紅仁の身体を掴み、勢いよく引きずっていった。人々は火事に気を取られていたため、誰にも見とがめられず、家まで退却することができた。

 少年には、ずいぶんと生傷をつけてしまったが。

 レミはゆっくりと顔を上げた。窓の外、校舎から上がる光がだんだんと弱まっていた。紅仁の存在がなければ消火活動に手を貸したいところだったが、放っておくわけにはいかなかった。

 統制派二人の気配はまだ島内にある。致命傷ではないにしても、深手は負っていた。追う選択肢は残ってしまっている。紅仁を見張っている必要があった。

「できれば、乙が討ち取りたかったのですが」

 机の上の写真では、三人の人間が笑顔を浮かべている。そこにあった幸せが、一日で消え去った。レミには想像しかできないが、悲しみが変換されて生まれた恨みはあまりに大きい。彼の心をひどく蝕んでいた。

 戦いを振り返る。反省点はいくらでもあった。次は、と言えることがそもそも幸運だった。死者は経験を生かすことなどできない。フリードが薄雪を逃がすことに注力していなければ、どうなっていたか。

 それにしても。レミは少年を眺める。

「甲はいったい何者なんですか」

 異様な能力者だった。同じ能力であるのがそもそもありえない。長く組織にいるが、聞いたことのない事例だった。ほかの能力者の気配を掴めないのも奇怪だった。先の戦いでは、さらに特異点が増えた。

 回復速度が速すぎる。

 逃げようとしたフリードの背へ放った最後の一撃。相当な出力だった。レミが駆けつけたとき限界寸前だった彼には、打ち出せるはずのない威力だった。感情の昂りが引き出したと、無理に解釈できなくもないが腑に落ちない。

 今さっき、目を覚ましたのも異常だった。レミの経験からすれば、明日の昼前までは泥のように眠るはずだった。

「本当に不思議な方です」

 口を開けば冗談ばかりだが、心の奥底では激しい感情がうごめいている。レミにとって樋谷紅仁は、特殊な能力者である以上に人間として奇異だった。

 けれど今は、穏やかな表情で眠っていた。寝返りを打つ。どこにでもいる、平凡な少年の姿だった。

 彼の手を軽く握る。

 明日には、この島を発つ。彼の妹を拾い、共生派の本拠地を目指すことになる。リーダーが認めれば、戦いへ身を投じることにもなるかもしれない。

 そしておそらくは、薄雪を追う。共生派の理念にそぐわない、茨の道。

 それでもせめて、この短い間だけでも。

「ゆっくり眠ってください」

 島には夜の闇が戻っていた。


 翌朝、紅仁はコーヒーを淹れていた。鼻歌交じりにお湯を注ぐ。湯気と一緒に、豆の匂いが立ち上ってきた。肺を満たすほどに吸い込む。

 レミは居間へ座らせていた。

「本当に大丈夫ですか。一晩寝たとはいえまだ無理は」

「大丈夫だよ。それに君はまだ、俺のコーヒーをちゃんと飲んでないだろう。おもてなしはきちんとやらないと、不安で船に乗れなくなっちゃうからさ」

「どんな体質ですか」

 抵抗をあきらめたようで、レミが肩の力を抜いた。

 キッチンの窓から紅仁は外を眺める。空は皮肉なほどに青く澄み渡っていた。この島の大多数にとっては、単なる晴天の一日だった。

「変なこと訊いてもいい」

「スリーサイズならただでお答えします」

「とうとう無料かあ」

 無駄に決め顔のレミに、紅仁はつい笑みを漏らす。聞くときは、むしろ大枚をはたこうと決めた。

「太陽の昇らない島って、存在する?」

 彼女は「どうでしょう」とこぼし、思案しだした。

「以前、噂で耳にしたことがあります。気象の問題で雲に覆われることが多い島があると」

「ふうん」

「どうしてそんなことを?」

「単なる興味」

 陽があろうがなかろうが、世界は何も変わらない。

 自分が立っている場所は、ただの現実。

 紅仁はレミの前にコーヒーを置いた。

「今日は絶好のお出かけ日和だし、飲み終わったらさっさと行くことにしよう」

「……そうしましょうか」

 レミはコーヒーの揺れる鏡面を見つめる。ゆっくりと腕を伸ばし、息を吹きかけた。

「猫舌?」

「猫舌というほどではないですが、猫舌の方が魅力的ですよね」

「確かに。じゃあ俺も猫舌」

 二人で冷まし始める。

 紅仁はテーブルから居間を見渡す。整頓された台所周り、殺風景だからと妹が買ってきた造花、紅仁が一か月ほど読みかけで放置している本。三人の生活が漂っていた。

 惜別を噛みしめた。


「二名様ですね。よい船旅を」

 受付の女性が半券をもぎる。紅仁は「どもー」と軽く笑って受け取る。

 桟橋には温かい陽の光が降り注いでいた。海は穏やかな波を打ち、まぶしく輝いている。

 紅仁とレミは船着き場へ来ていた。島と島の間を行き来する定期便が発着している。メインは貨物の移動で、客船の機能はついでだった。

 紅仁が大きく伸びをした。傍らにはスーツケースを引いている。

「絶好の旅日和だね。女の子と旅行なんて初めてだから、緊張しちゃうよ」

「……女の子ですか」

 レミはつぶやき紅仁の方を見た。少し間があってから、彼女はそっぽを向いた。

「どうしたの」

「いえ、別に」

「ならいいけど。ああ、もしかして、船が苦手とか。大丈夫大丈夫。俺も船は苦手だから」

「船は苦手じゃありません。たまにいる、馴れ馴れしく話しかけてくる人は苦手ですが」

「じゃあ、俺も船は大丈夫だったわ」

「それは何よりです」

 レミはリュックを揺らしながらタラップを上がっていった。紅仁もあとに続く。

 客室に荷物を放り込むと、紅仁は甲板へ向かった。見慣れた港だが、これまでとは違う視点だった。手すりへ両手を置き、その上にあごを乗せた。

 島から出た経験は数えるほどしかなかった。港へすらあまり足を向けたことがない。母が避けていたため、紅仁とカナタも家族でいるときは避けるようにしていた。今から思えば、元共生派のミヨを知っている人間に会うことを恐れていたのだろう。

「ここにいたんですね」

 レミの声に「馬鹿と煙は高いところが好きだからね」と返した。紅仁の隣に彼女は並ぶ。金髪が内陸側へなびいた。

「……辛い選択を強いてしまって、ごめんなさい」

「君が謝ることじゃないよ。最終的に決めたのは俺だし」

 船が甲高く汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き始める。紅仁のすべてが詰まった島が離れていく。港の輪郭が分からなくなるまで、ずっと目を放さずにいた。

 息を吐き出して力を抜く。身体を反転させて、手すりにもたれた。傍らの少女はまだ遠くの影を眺めている。陽の光を浴びた金髪がまぶしい。

「レミ」

「なんでしょう」

「『君』だと、なんかすかしている感じがするから、名前で呼んでいいかな。嫌なら好きな呼び方を指定してもらっていいよ。『お嬢』でも『レミお姉ちゃん』でもなんでも」

 許可をもらう前に呼んでおいて、紅仁はしゃあしゃあとのたまった。呼び捨て以外を選ぶつもりはなかった。レミはじとりとした視線を寄越したが「レミでいいです」と応じ、文句は口にしなかった。

「代わりに乙も、甲のことは『紅仁さん』と呼ばせてもらいます」

「駄目駄目。ずっとさんづけだと、気味悪くて一日三食しか食べられなくなるから、呼び捨てでいいよ」

「一日三食なのは、さんだけにですか」

「コメントを控えさせてもらいます」

「さんだけにですか」

「どこにあったの、さん」

「適当に理由づけてください、紅仁が」

 レミが笑顔を浮かべた。数多くの戦場を駆けてきたとはとても思えない、年相応の屈託のない笑みだった。

 船は、交わった二つの火を乗せて進んでいく。

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揺らぎ火と飛び火の任務記録Ⅰ 星野 海之助 @bunasyan

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