揺らぎ火と飛び火の任務記録Ⅰ
星野 海之助
序A:揺らぎ火
レンガ作りの街並みは夜の静寂に包まれていた。街灯の光だけが、眠りを妨げないようにひっそりと照っている。
周囲のそんな様子とは裏腹に、十代半ばほどの少年が通りを慌ただしく走っていた。息は荒く、背後を何度も振り返っている。その頭の中では同じ言葉が繰り返されていた。
ありえない、ありえない、ありえない。
今日の夜もいつものとおり、少年は友人たちとつるんでいただけだった。真面目に勉強なんてしていられないと学校の授業をさぼり、夜の街を闊歩する。そういう連中での集まりだった。最近はつまらない大人から金を巻き上げることに精を出していた。金は副産物であって、うだつの上がらないやつらをいたぶるのが楽しかった。
今日も酒に酔った中年男が一人で歩いていたから、裏通りに連れ込んで囲った。泣き言を言う惨めな姿を見下して、たっぷり笑った。そこまでは楽しかった。
それが、どうしてこんな。
少年はとにかく走る。仲間たちとはとっくに散り散りになっていた。探す余裕などなかった。助かりたい一心だった。
右に折れたところで、少年は足を止めた。今日の獲物にした中年男が腰を抜かしていた。そのそばには仲間のうちの二人が倒れていた。呻き声を上げている。
服と髪は焼け焦げていた。
「くそ、元の場所かよ」
でたらめに走っていたとはいえ、自分の庭と言っていい町でこんな間抜けを演じてしまうとは思ってもみなかった。
奴はまだ近くにいる。早くこの場を離れなければ。だが、どの道へ逃げれば。
「お帰り」
迷っていると背中から声がした。少年は身体を固くする。
「徒競走の結果はどうだった」
妙に人懐っこい響きがあった。この場ではそれが不気味だった。仲間ではない者の声。
少年はゆっくりと振り向いた。フードを目深にかぶった人影がいた。ズボンのポケットに両手を突っ込んでいる。顔は見えずとも、声の低さからして男であることだけは間違いなかった。
「お前、なんなんだよ。俺たちに恨みでもあるのか」
「恨み? そんなのないない。あったら、もっときちんと焼いてるって。俺は単に、君たちのやっていることが見過ごせないだけだよ。お金は汗水垂らして稼がないと。ん、いや、汗水は垂らしてるのか」
ひとり芝居を打つ姿は滑稽なはずなのだが、少年にとっては緊張が増すだけの行為だった。フード男が仲間たちにしたことは嫌なほど鮮明に記憶していた。とても現実のものとは思えない、悪夢の景色。
「とにかく、人に暴力をふるっちゃ駄目ってことだね。よっぽどの理由があるなら別だけど。ちなみにこれは私見なんで意見が違っても許して」
一方的に告げ、フード男はゆっくりとポケットから手を出した。少年は無意識にあとずさる。
島中の不良たちがささやきあっていた噂があった。少年も耳にはしていた。
夜の街では「火」に気をつけろ。
与太話だと思っていた。大人のでっちあげか、子供の妄想。実在するはずのないもの。それなのに、現実はむりやりその認識を破壊した。
中年男で遊んでいる最中に現れたフード男は、少年たちに向けてその右手を突き出してきた。
ちょうど、今のように。
「これに懲りて火遊びはやめた方がいいよ。これ以上、火傷したくないならね。地味に痛いんだよ、火傷って」
その手から赤い暴風が飛んできた。
それは、龍の口から放たれたブレスのような、真っ赤な火だった。
少年はただ呑み込まれた。
「お掃除完了、かな」
フード男は右手を何度か軽く振った。それから、震えている中年男に気がつく。
「そうだった、そうだった」
最初にノックアウトしたリーダー格の少年の懐をまさぐると、あまり重量のない長財布があった。
「あなたのですよね。どうぞ」
中年男に差し出すと、彼はフード男と財布とを交互に見た。呆けていた顔に恐怖が浮かぶ。素早い動きで財布をひったくると、さっと立ち上がった。
「ば、化物」
そう叫び、大通りの方へと走り去っていった。
一人残されたフード男は、ため息をついてフードを脱いだ。短い金髪が残り火に照らされる。十代後半ほどの少年は、大きな赤い瞳を湛えていた。
「化物、ねえ……」
フードをかぶっていた少年、火の繰り手である樋谷紅仁は自分の右手を凝視した。
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