本当のワタシ
綿来乙伽|小説と脚本
気持ちが悪い。
目が覚めたのは、午後三時だった。天井を向いた体を傾けようと右半身に意識を向けると、それだけで全身が拒否反応を示した。どこか痛むわけでもなく、どこか痒いわけでもなく、どこか怠いわけでもない。ただ単に、体が動こうとするのを「拒否」しているのだ。
私は唯一動かせる目玉を天井へと向けた。見覚えのある白いタイルで良かったと心から思った。この体の動きは体験したことのない働き方だが、原因不明の体調不良はきっと昨日の二日酔いだろう。
体感十分といったところだろうか。私はようやく動かせるようになった右手をベッドの端まで伸ばし、充電を怠り見るも無残な格好で転がっているスマートフォンを拾った。彼はかろうじて生存確認が取れて、残り十パーセントの命であった。彼が目を覚ました時、それは十五時十分を知らせており、世界で最も公共交通機関がお暇を頂いている時間だった。彼は崩れた私の顔面を私の顔面だと認識してくれたようで、時間とバッテリーが見えた所でロックを解除してくれた。寝起きでも日常の私と変わらないことを嬉しく思った矢先、メッセージアプリの通知が数個ついていることに気付いた。
彼から連絡だ。
私はさっきまで、いや今も「拒否」を示している体を意地になって叩き起こした。立ち上がった途端に踏んだ。ベッドの下に捨ててあったハンガーも諸共せず、スマートフォンの画面に夢中になった。
「無事に帰れたかな」
「心配です」
「気付いたら連絡下さい」
「今後のこと、ゆっくり話し合おう」
彼から貰った連絡は全部で四通だ。彼は伝えたいことを一文にまとめるタイプではなく、呼吸するかのように一言ずつメッセージを送るタイプだった。そういう人なんだ。初めて知った。こんなに連絡をくれたこと、無かったから。
私はスマートフォンを見つめて、自分の身体が自分の意志に反して「拒否」をしていたことを改めて思い出してベッドにゆったりと沈んだ。その瞬間、昨日の光景を全て思い出した。
「彼氏いないの?」
この手の質問には慣れた。ハラスメント対策やコンプラコンプラとこんなにも言っているのに、塵は積もらないと山にもならず、山にならなければただの塵としても認められないようで、これくらいの小さな言葉の槍は、当事者でしか塵と判断しなかった。そういった社会の理不尽にはもう慣れたし、これらにどうこう言おうと何も変わらないことも理解していた。だから私は、こう思うことにしている。人の個人情報や周りの回答次第で面白さが決まるような話題を持ち込む人間は、それだけ会話能力に乏しく、また空しい人間なのだと。可哀想な人なのだと。
「それなら俺でしょ。この歳で嫁無し子供なし彼女無しですよ」
私が目の前に置かれているトマトのカプレーゼと目で会話していた時、彼は私の視界に現れた。
「そうなの?格好良いのに」
「性格に難ありなんじゃないのー?」
「いやそんなこと無いと思いますけどね。確かにイケメンではありますけど」
周りの意地悪い感情を自信の自虐でもみ消していった。私はその光景を見て、救われた、と思ってしまった。
「菅原さん」
二次会に向かう群れとは真逆の方向を向いた私に、彼は声を掛けた。
「あ、スガワラさん、だよね?スガハラだった?」
「ワラ、で合ってます」
「良かった。もう帰るの?」
「はい」
「俺も。駅まで良い?」
「…はい」
私が「拒否」しなかったのは、彼が、慣れていたと感じていた話題に嫌悪感を感じていた私に即座に気付き、助けてくれたからだ。命を救ったと言っても過言ではない彼のお願いを断るのは、ほろ酔いの私には難しかった。
「菅原さん、何線で帰るの?」
「☆△〇線です」
「マジ?俺も一緒!南□□で降りるんだ」
「…私は隣の◎□です」
「そうなんだ。じゃあそれまで一緒にいられる」
その時の彼の微笑む顔が彼のどの感情を示していたのか分からなかった。だけも私は、その表情をもっと見たいと思った。
気が付けば私は彼の最寄りである南□□で降りて、彼の家に向かっていた。彼が鍵を穴に通し、カチャカチャと音を立てる。彼も私も、穴をじっと見つめて、早く入れ、入って君の何倍も大きなドアを自由にしてくれ。私と彼の願いは空しく、鍵を開けるのに二分ほど掛かった。その時から、今感じている「拒否」に似た体の疼きが生まれていた気がした。
鍵が中々開かなかったことで、一つの話題が出来た。結構古めなアパートだから、週に一度は必ずどこかの住人が鍵屋に鍵を開けてもらっているとか、前の家が急に建て替え工事になったから、急いで探したのがこの家しか無かったとか、独り身だからどこでも良いとはいえもう少しきちんと整備された場所を選べば良かったとか。彼は思った通り、よく喋る人だった。
「まあ菅原さんと最寄りだったから、それはそれで良かったかもしれないな」
後姿の彼しか見えなかったことを後悔した。コートそのハンガー使って良いよと言われるがままコートを掛けていなければ、また彼の笑顔が見れたかもしれないのに。私は二度と来ないかもしれない彼の表情を見逃してしまった。
彼の部屋を見た。ワンルームで殺風景な部屋。やはり即席で選んだ部屋なだけあると思ってしまうほど、面白味がないお家だ。だがこの部屋に似合うものもないだろう。畳んだ布団、ちゃぶ台、まだ荷解きしていない大量の段ボール。彼らはきちんとこの部屋に馴染んでいる。一つ違和感があるとすれば、ちゃぶ台に置かれている銀色の指輪だ。
「どうぞ」
一つの違和感お構いなしに、彼は温かい紅茶をくれた。私は紅茶に詳しいわけでもないし、むしろ紅茶よりコーヒー派なのだけれど、彼と飲む紅茶はどこで飲む紅茶よりも特別な気がした。それは、紅茶という自分の中の違和感が、指輪の違和感を消しているからだろうか。私は猫舌を隠して、徐に紅茶を口に運んだ。やっぱり苦手な味だった。
「菅原さんとずっと話してみたくて」
「私のこと知ってたんですか」
「知ってたって。菅原さん、裏でめちゃくちゃモテてるよ?」
「裏でモテても、表でモテないと意味ないです」
「そっか、確かに」
紅茶越しに見る彼はやっぱり違和感だ。この部屋にいることが、初めてここに来た私の違和感と同じものを感じた。
「だから今日会えて嬉しかった。それに家が近いなんて」
「私も、嬉しいです」
違和感、違和感。また「拒否」に近い何かが、私の体内に津波のように訪れる。
「菅原さん、食べ物何が好き?今度二人でご飯でもどう?」
「はい、ぜひ。好きな食べ物は……」
この人は本当にここに住んでいるのだろうか。彼の家にしては、彼の家とはかけ離れている気がした。でも違和感があるのは、家具でも段ボールでもない、彼自身と指輪だけだ。それに彼は、本当にうちの会社の人間だろうか。彼はいつからうちに来て、いつからうちの部署で、いつから私のことを知っていたのだろう。
「菅原さん」
彼は私の両手からティーカップを取ってちゃぶ台に置いた。彼が私の目を見ながら段々と近付いている。私は言葉を失い、動力を失い、視界の中で大きくなっていく彼の顔面を、ただ大きいと思う他無かった。彼は私の唇にキスをして、少しだけ離れた。
「あなた、誰」
そう言い放った瞬間に、私は立ち上がり家を飛び出した。大きくふらついたのは、勢いよく立ち上がったからなのか、続々と体内にやってくる「拒否」からなのか。私は恐怖とはまた違う感情を持ちながら、走って家に帰った。
走って家に帰った?
いや、私は走って家に帰っていない。早朝、出勤前に玄関前で躓き、歩くのもやっとの状態で会社に向かい、飲み会中もずっと足首の痛みを気にしていた。そんな私が走って帰るなんて不可能だ。それに飲み会中から最後までの記憶も、記憶か妄想かが上手く判断出来ない。彼の最寄り駅や私の最寄り駅は、全く知らない言葉で、全く知らない電車に乗っていたし、彼の名前も知らない。私が事実だと言えるのは、上司に聞かれた「彼氏いないの?」の一言だけだ。
その時、私の体はベッドから起き上がりたがって、そのまま床に倒れ込んだ。突然の吐き気に襲われて、吐きだすものが何もない体内から何かを産み出そうとしていた。こんなに咳をしたところで何も出てこないのに、どうしてこんなにも何かを産み出したいという気持ちが湧いてくるのだろう。
私の身体は、小さな咳から大きな咳に切り替えた。そして三回目の大きな咳をした瞬間、私の口から、小さな人間が飛び出した。
私は驚いて腰を抜かしたが、体が動かなくなることよりも、喉に相当な負担が掛かったため、喉の痺れが止まらなかった。両手で必死に抑えながら、私が産み出した人間を見た。
人間は、人間というより人の形をしたこけしのようだった。人形と言えばそれまでだが、人形程人間には似ておらず、人間ほど生々しくない、まだ見たことの無い生物が人の形を目指して奮闘しているようだった。
動き出すこともなく静止したままのそれは段々と、腰を抜かし喉を痛めた私に似てきた。
これは、私か。
私が私を産み出したことを、私は怖がらなかった。私が私を見ているということは、これが核にある本当の私である。これこそが、私なのである。私が素直に「ワタシ」を出さなかったから、物理的に本性を出せるように口から産み出したのだ。小さな「ワタシ」を見ると、私は本当の私になれる。私に正直になれる。きっとそういう意味があったのだろう。
目が覚めたのは、午後五時だった。天井を向いた体を傾けようと右半身に意識を向けると、それだけで全身が拒否反応を示した。どこか痛むわけでもなく、どこか痒いわけでもなく、どこか怠いわけでもない。ただ単に、体が動こうとするのを「拒否」しているのだ。
本当の自分を出したくない。本当の自分を出して何か解決するわけではない。そう思いながら過ごしていた私に起きた「自分そっくりの小さい人形を口から産み出す夢」は、そんな私に力を与えようとしてくれたのだ。だがそれを必要としない「外の私」が全身でそれを拒否して「ワタシ」を拒んだ。それが全てだ。
「彼氏いないの?」
そう呟く上司は、いつだってどこにだっている。
「いないですね。貴方みたいな話題に困って恋愛話しか持って来れないような人間を掴まないように見極めてるんです」
全員が驚きながらも上司を見つめた。上司は開いた口を塞ぐことが出来ずに飲みかけのビールを口から吐き出していた。
彼からのメッセージを見つめた。
「無事に帰れたかな」
「心配です」
「気付いたら連絡下さい」
「今後のこと、ゆっくり話し合おう」
「ワタシ」がまた動き出す感覚があった。「ワタシ」を産み出そうとする瞬間、それは私の中で怒りや苦しみや嫌悪感を抱く時で、それを外の私が隠蔽しようとしている瞬間だ。私はそれを、「ワタシ」がいることによって感じさせられる。私は彼と彼からのメッセージに嫌悪感を持っているが、それを自己解決しようとしている。そしてその行動を「ワタシ」は許せない。
私は彼にメッセージを打った。彼とは違って、私は一文に全てを打ち込むタイプだ。
「貴方が不倫をして会社から追い出され、再就職したうちの会社でも不貞行為をはたらこうとした証拠が全て揃いました。私の親友を傷付けた罪は重いです。覚悟してください」
「ワタシ」は夢でしか目視出来ないが、今も私の体に居続けて、本当の私が必要になるとすぐに現れるのだった。
本当のワタシ 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21
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