ブラック企業

「伊藤、お前、本当に役に立たねえな」


 会議室の冷たい蛍光灯の下、課長の声が刺すように響いた。


 僕はうつむき、手元の資料を握りしめる。昨日徹夜で仕上げたプレゼン資料だった。完璧ではないかもしれないが、これ以上ないくらい時間をかけたつもりだった。  


 それなのに、課長はページを一瞥しただけで、机に叩きつけた。


「この数字、全然ダメじゃん! お前、数字の意味も分かってねえんだろ?」


 課長の声が次第に大きくなる。会議室にいる他の同僚たちは、視線を机やスマホに落としている。誰も僕を助けようとはしない。それどころか、誰かが笑っているようにすら感じた。


「すみません、修正します……」


 僕は蚊の鳴くような音を発する。


「すみませんじゃねえよ! 同じミス何回繰り返すんだよ!」


 課長はさらに追い打ちをかけるように言い放つと、突然立ち上がり、僕の肩を乱暴に叩いた。


「お前、辞めたほうがいいんじゃないのか? このチームの足引っ張るだけだろ?」


 その瞬間、何かが胸の中で弾ける音がした。僕は拳を握りしめたが、それを口に出す勇気はなかった。


「辞めたほうがいいんじゃないのか?」


 課長は再び言った。


 辞めたい。でも辞められない。家族には「頑張ってる」と言ってしまったし、もう少し耐えれば何とかなると思っていた。思いたかった。それに、辞めるなんて言えば、また課長に何を言われるか分からない。


「なんで、こんな……」


 独り言を呟いた瞬間、涙が一粒、書類の上に落ちた。


 僕は自分の無力さに苛立ちながらも、画面に映るデータを修正し始めた。朝までには終わらせなければならない。次に失敗すれば、今度こそ「本当に終わる」気がした。


 暫く作業をして再び書類を渡した僕を課長は、冷笑を浮かべて見た。


「おい、伊藤。これダメ。またやり直しだわ。今度ミスしたら、クビにするって社長に言っとくから」


 僕は無表情で頷いた。自分の中で、感情という感情が全て擦り切れてしまったようだった。


「はい……すぐに修正します」


 課長の笑い声が響く中、僕は手元の資料に目を落とす。いつ終わるとも知れない仕事に追われながら、ただ、指先を動かし続けるしかなかった。


 なかったのか?


 —―僕はすべてを〝思い出した〟


 僕は自衛隊格闘指導官、伊藤、体重もほぼ筋肉で90kgある。ベンチプレスもデッドリフトもウエイトリフター並に上がるし、柔術の全国大会にも出場した。MMAとキックボクシングの道場にも通ったことがある。


 課長とかいう立場に守られて、偉ぶっているが、こんなヒョロガリ、敵じゃないぞ。


 そうそう、思い出した、思い出した。僕の肉体は1日で滅びるって〝神様みてーな奴〟が言ってたっけ。じゃあもうコイツだけでも道連れにしてやろう!


「なんだその眼は? 反抗する気か? 本当にクビにするぞ、伊藤!」


 課長が僕の胸倉を掴んだ瞬間、火花が僕の頭の中で飛び散った。


「暗黒の世界へ還れ‼」


 僕は課長の脇を諸差しで取って、裏投げを決めた。パソコンの置かれたデスクがひっくり返って乾いた音がする。


「な、なにをするんだ伊藤!」


「お前、死亡確定だから。道連れにするって決めたからよ」


 ガードポジションからパスガードして、フルマウントポジションに移行した僕は、左右のパウンドを怒り狂ったゴリラのように叩きつけた。・


 パワーは90kg越えのときのまま。格闘技も使えるぞ、問題ない。


 僕はパウンドをラッシュした。課長の頭は起き上がろうとするたびに床に叩きつけられてバウンドを続けた。が、やがて動かなくなった。


 その瞬間、えも言えぬ達成感が僕の身体に充満した。


 —―ああ、僕はやったんだ、なにを成し遂げたのかはよく分からないが、やったんだ。


 そしてそろそろ〝輪廻転生の時間〟が来たな。


 悪くない……悪くない今世だった。


 ――そう思っていると、 視覚がブラックアウトしていった。


 そして僕もまた、暗黒の世界へ還って行くのだった。

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