誠と亮平

 朝早いこともあり、今日の校舎内は比較的静かである。何人かの学生は左手にある休憩スペースでレポートの記述に取り組んでいるが、空いている席も多い。地下1階の食堂はまだ開いておらず、階段のそばには「出入り禁止」と書かれた看板が立ちふさがっている。大広間の階段を上っていき、目的地である205号室を目指す。

 教室に入ると、すでに何人かの学生が席についていた。黒板の上にある時計を見ると、時間はもうすぐ9時に差し掛かろうとしていた。教授の姿はまだない。どうやらギリギリセーフだったようだ。誠はリュックサックを席の横に下ろし、見知れた友人の隣に座った。


「おはよう、亮平りょうへい


「おっ、やっと来たか。今日も遅かったな」


「いやいや、おまえが来るのが早すぎるんだって」


 そう言うと、亮平は自慢げな表情で僕に笑いかけてきた。小松亮平こまつりょうへいは僕が大学に通い始めてから初めてできた友人である。英語のグループ活動で一緒になったのがきっかけだが、お互いにサッカー経験者だったこともあり、その後の講義も一緒に受けるような仲になった。ネガティブな自分にとって、教授からの質問にも怖気づかず、意気揚々と答える亮平の態度にはたびたび感心するところがある。ただ、今日はそれが逆に困りごとでもあるのだが。


「昨日の梅原のボレーシュート見た? あれまじでえぐかったよな! アルべナスのディフェンダー2枚に囲まれてたのに、それを無に帰すような完璧な軌道! 俺もあんなシュート打てるようになりたいなぁ」


 やっぱり、昨日の試合について話すと思った。亮平はサッカーのことになると妙に熱く語り始める。今日はそれが少々煩わしい。今の自分にとって、サッカーは趣味の延長線でしかない。六ノ宮大学のサッカー部で日々練習している亮平と、サッカーをすでに引退した自分とでは圧倒的に熱量が違うのである。もっとも、だからといって亮平に嫌悪感を感じたことはない。ただ、亮平の話を聞くたびにどうしても過去の自分の姿が脳裏に浮かぶ。まだ輝かしい夢を持っていたころの、幼い自分の姿が。


「ごめん、昨日は夜までバイトだったから見てないや」


「そうかぁ。それなら仕方ないな。けど誠にも見てほしかったなー。またサッカーに復帰したくなるんじゃないかなって思ってたから。うちのサッカー部、部員少ないからさ。もし誠が入部してくれるなら大歓迎なんだけどなぁ」


「いや、もう1年生終わるし。それにさ、今から僕が入部しても多分練習に食らいつくだけで精いっぱいだと思うな」


「それでもいいって! 頼む!」


「ごめん、厳しいかな」


「うーん、そっか……。残念だなぁ。誠と一緒にサッカーしてみたいんだけどな」


 亮平はよく僕のことをサッカー部に勧誘してくれる。正直、嬉しく思う。僕も亮平となら、一緒にサッカーをしたいと思う。けれどそれは、亮平と「だけ」がいい。

 亮平に僕の出身校が琴浦ことうら高校と伝えるとき、がっかりされるだろうなと思った。琴浦高校は北海道の山奥にある小さな田舎の高校だ。剣道の強豪校としては知られているかもしれないが、それ以外に特筆すべき点はあまり思い浮かばない。けれども、琴浦高校は僕が住んでいた雛森ひなもり市内唯一の進学校であったため、大学進学を目指していた僕にとって選択肢はそこしかなかった。

 僕がいたころの琴浦サッカー部は部員がとても少なかったため、他校と一時的な合同チームを作って大会に出場することもよくあった。幸運にも高校3年時は部員が何とか11人揃い、琴浦サッカー部は単独チームとして県大会に出場することが出来た。そんな大会出場も危うい中、チームメイトのみんなはよく頑張っていた方だと思う。県大会を勝ち抜くために必死に練習メニューを考え、夜遅くまで学校のグラウンドでミニゲームを繰り返した。僕にとって、みんなと過ごしたあの時間は、かけがえのないものだ。

 けれど、それでも僕らは勝てなかった。どれだけ頑張っても、都会の高校には実力で劣っていたから。監督による一流の指導や学校固有の練習設備など、インターハイに出場する高校は僕らにないものを持っている。そして、亮平はそんなサッカー強豪校である柳原やなぎはら高校出身だ。僕のことなど、当然見下すものだと思っていた。

 それが単なる偏見に過ぎないと気付かされたのは、僕が亮平と初めて話した時のことだった。亮平は僕が琴浦サッカー部だったのを伝えた途端に目を輝かせ、興味津々にこちらのことを聞いてきた。琴浦ではどんな練習が行われていたのか。チームメイトはどんな奴だったのか。亮平は楽し気に次々と新しい質問を僕に投げかけてきた。最初は驚いたが、話をしているうちに亮平のサッカーに対する想いが良く伝わってきた。ただただ、サッカーが好きなのだと。そして、今もなおプロになることを目指しているのだと。夢を追い続けることの難しさを、自分はよく知っている。だからこそ、僕は前に進もうとしている亮平のことを心の底から尊敬している。


「おっ、来たな」


 亮平の声とともに前へ向き直ると、中島教授がちょうど教室に入ってきたところだった。時計の短針はちょうど9時を指している。予定通り、「イギリス文学論」の講義開始時間だ。中島教授は教壇に教科書を置き、近くの学生たちにプリントを配り始めた。手元に届いたプリントを確認すると、一番上に「ロマン主義の詩人たち」という題名が書かれていた。全員にプリントが行き届いたあたりで、中島教授は講義開始の挨拶をした。


「おはようございます。それでは授業をはじめたいと思います」


 リュックサックから教科書と筆記用具を取り出し、机の上に置く。亮平も同じように授業を受ける準備を整えていた。他の学生たちも教授の言葉に続き、教科書を開きはじめる。さすがは六ノ宮大学の学生たち。授業への切り替えが早い。大学で初めて講義を受けた時はこの空気感に面を食らったが、今となっては当たり前のように感じている。


「前回は、ゴシック小説の代表作について紹介したと思います。18世紀後半にゴシック文学の復興が起こりましたが、そのきっかけとなった作品がホレス・ウォルポールの『オトラント城』です。この物語は、オトラント城の主であったマンフレッドが、病弱な息子のコンラッドとヴィンチェンツァ候を結婚させようとする場面から始まります。しかし二人の結婚式当日、突然城内の巨大な兜が倒れ、この下敷きとなったコンラッドは奇しくも命を落としてしまいます。このように、ゴシック小説には幽霊やポルターガイストといった怪奇的現象がいくつも描かれており、これが恐怖小説という新たなジャンルの先駆けとなったのです」


 中島教授が淡々と前回の授業内容を述べていく。僕はこの講義が嫌いではない。中島教授の解説が上手いこともあるが、それ以上に学生たちが聞き飽きないように豊富な文芸作品を取り扱ってくれるからだ。前回の講義でも『オトラント城』以外にメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』といった作品が紹介され、さらにその前の講義ではルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』といった有名作についても言及があった。1限目の授業というのがネックではあるが、これまで受けた科目の中では一番面白みがあると思う。亮平も退屈そうにしてはいるものの、真面目に授業を聞いているようだ。


「では、ここからは今日の内容に入ります。お手元のプリントに記載されている通り、本日はロマン主義時代に活躍した詩人たちについてみていきます。私の話を聞きながら、プリントの空欄を埋めていってください」


 後ろではすでにしびれを切らした学生たちが何かを話している。やはり、どの学校にもこういった人はいるようだ。気にせずプリントへ向き直り、着々と空欄のキーワードを埋めていく。


「ここまでが古典主義の内容です。ここからはロマン主義について説明していきます。古典主義においては、神が作ったこの世界の根底は変わらないという前提が置かれていました。それゆえ、物理学や天文学を経て解明された明晰な秩序に基づき、創造物は生み出されていました。他方、ロマン主義のもとでは理性よりも感情や五感の働きが重んじられ、空想という想像力に基づいた作品も新たに生みだされていきました。現代風に言えば、古典主義がノンフィクションであり、ロマン主義がフィクションということです」

 

 「作品の本質は、実際に触れてみないとわからない」というのが中島教授の口癖である。古典主義派であれロマン主義派であれ、作品には必ず作者の想いが秘められている。作者の名前と作品名を知ったからと言って、その「作品」を知ったことにはならないのである。そしてこれは、文学に限ったことではないと思う。僕がはじめ亮平に対して偏見を持っていたように、対象について知るまでは個人の感情や背景が優先してしまう。しかし、一度触れてしまえば案外単純だったりする。実際、亮平はただの良いやつで、僕は亮平のことを分かったような気になっていただけだった。


 中島教授が後ろの学生たちに注意を促す。ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』はロマン主義時代の代表作だ。トマス・グレイは生前に墓場派詩人として活躍に、多くのエレジー(晩歌)を残した。ウィリアム・クーパーは……。隣を見ると、さっきまで真面目に授業を受けていたはずの亮平が机に顔を伏せて幸せそうに眠っていた。

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