無関係な人間を祟り殺しておきながら最後まで被害者面のまま召されていった怨霊をどうしても赦せなかったので地獄に叩き落とすことにした 宿怨の天刑星
バール
宿怨の天刑星
わけのわからない人間大の海洋生物が、なぜかこんな山間の寒村に大量に打ちあがり、びちびちと跳ね回っている。
眼前に広がる光景を、辰巳はそんな風にしか解釈できなかった。
これらが何なのか、まるで理解できなかったから。
質感の異なる肉の集合物であり、赤褐色の部分もあれば、ピンク色の部分もあった。たまに青黒い静脈が絡みついている。すべてがてらてらと濡れ光っている。
痙攣しながら収縮を繰り返しているあの器官は、肺だろうか。
なぜ家の前にこんな不思議ないきものが蠢いているのか、納得のいく理由を何も思いつくことができず、辰巳はただ茫然と見ていることしかできなかった。
大きい個体もあれば、小さい個体もいた。
それらの生物の数が、ちょうどこの集落に住んでいる自分の家族・親類・友人らの合計人数とまったく一緒であることも、まるで認識できていなかった。
辰巳はまだ四歳だったから。付近に幼稚園などなく、父と母にひらがなを教わり、隣の家の童女と遊ぶばかりの年頃だったから。
そのいきものたちの先端の肉に、入れ歯が張り付いていて、いやにリアルな歯型を形作っている。ふもとの町の歯医者で見た模型とそっくりだなと思うだけで、なぜそこに歯形などあるのかなどまるで理解していなかった。
ぎじゅ、と。
引き攣った嗤いが漂ってきた。
喉に痰が絡まったような、むしろ痰の海に溺れているような、奇妙に湿り気を帯びた声だった。
見ると、巨大な灰色の虫が這い寄ってきているところだった。
いや――それが虫ではないことは、視界に入れた次の瞬間には理解できていたが、第一印象が虫になるほどに、それの動きは異様だった。
長い、長い、恐らくは大人の人間の身長よりも長い四肢をカサカサと蠢かせ、それは総毛立つほどの高速でこちらに這い寄ってきていた。
女、だった。
常人を遥かに越える背丈の痩せ細った女が、骨の浮き出る長い手足を動かし、近づいて来ていた。
ぎじゅ、ぎじゅじゅ。
真円に見開かれた巨大な眼球に血管が絡みつき、何か計り知れない感情を湛えた視線が辰巳を射貫いていた。
巨大な女は萎びた胸をだらしなく揺らしながら、一直線に突き進んでくる。
その足元に一頭の仔犬がいた。巨躯の女が横を通りかかった瞬間、仔犬は痙攣した。目玉がぐるりと回る。肉が裂け、骨が砕ける音がした。
大きく開かれた口からめくれ上がり、まるで袋を裏返すように、めりめりと変形してゆく。
外側にあった毛皮が内側に引き込まれ、内側にあった臓物が露出した。張り裂けたいくつかの器官から、名状しがたい液体が飛沫いた。仔犬はまだ生きていた。蠢いていた。
女は、仔犬に指一本触れていない。
他にも、かたわらの草むらにいた虫たちも同様の末路をたどった。
あの女のそばに近づいた者は、なんであれ裏返ってしまうのだ。
あぁ。
だから、つまり。
自分の暮らしは終わったのだということを、悟った。
なぜ人間大の肉塊が、集落の人数と同じ数だけ転がり蠢いているのか、その因果関係を無意識のうちに理解した。
意識の上では理解しなかったけれど。
していたら、きっと心が壊れてしまうと、本能が恐れたから。
ぎじゅ、ぎ、じゅ、ぎ、へ。
興奮に
女が、目の前にいた。辰巳の頭よりも
体が裏返る様子はない。つまりあの現象は、化け物の意志で出したり引っ込めたりができるということ。
触手めいて長い舌が、黄色い粘液を曳きながら伸びてきて、
ぞるり、
と。
顔を舐めてきた。たまらない悪臭が鼻を衝く。
歪んだ鉤爪の伸びる指先が伸びてきて、衣服と膚を引き裂いた。最初はぼんやりとした熱を感じ、それが一瞬の間をおいて鋭い痛みに変わった。
人外の膂力で押し倒される。どこかの骨に罅が入った。抵抗しようと掌を突き出すと、理不尽なことに女の体をすり抜けた。
向こうはこちらを自由に触れられるのに、こちらは向こうに何もできないのだ。
骨ばった灰色の手が握りしめられ、振り下ろされる。衝撃とともに顎が砕け、乳歯が飛び散った。
地面に抑えつけられる。女の腰が降りてくる。両腿の間から、ぼたぼたと蛆虫が落ちてきて、辰巳の股間に降り注いだ。
「――すまぬ」
唐突に、声。重く掠れた、男の声。
見ると、獅子の鬣を思わせる白髪を揺らした、初老の男が佇んでいた。
長大な三叉の矛が目を引く。朱色と黒で構成された、丈の長い着物――後で知ったが朱裳と言うらしい――を着ている。
皺の浮き出たその顔は、苦渋と、哀れみに沈んでいた。
ぎ、ぎ、ぎぎゃぎゃぎじゅ。
女が爬虫類めいた仕草で振り返り、今にも飛び掛からんばかりに身を低くたわめた。
「御身ほどの御方が、かかる寒村の加持に祀られ、
絶叫が大気を引き裂き、女が突進する。
その巨体より異なる法理の力が流出し、裏返されていた肉塊たちがメリメリと胸の悪くなる音を立てて元のありさまを取り戻す。
辰巳の、母親だった。裂けた肉も、砕けた骨格も元には戻らなかったが。
直後に女の巨躯に踏み潰され、あらゆる意味でただの肉塊となった。
男はゆったりとした動きで、四つの目を持つ奇怪な面を被った。まるで異形の女などそこにいないとでも言いたげな所作。
懐より一握りの植物の種を取り出し、ばら撒いた。
「儺やろう、儺やろう、いとほしき疫鬼の所々村々に蔵り隠らるるをば、千里の外、四方の堺――」
絶叫しながら飛び掛かってくる女の前で、撒かれた種がすべて発芽し、一瞬で急成長。互いを隔てる生垣と化した。
「――東の方は陸奥、西の方は遠つ値嘉、南の方は土佐、北の方は佐渡より乎知の所を、汝たち疫鬼の住処と定めたまひ行けたまひて――」
女の呪詛を受け、そびえ立つ樹木の皮にみしりとひびが入ったが、裏返るまでには至らない。ひびは乾いた音を立てながら幹を這い登り、枝を渡り、その先端に実った
「――五色の宝物、海山の種々の味物を給ひて、罷けたまひ移したまふ所々方々に、急に罷き住ねと追ひまふと詔る」
破裂音が連続し、すべての果実が裏返った。みずみずしい果肉が砕け散り、飛沫いた果汁が甘い芳香を放つ。
女の動きが、一瞬止まる。
怨念に満ちた眼に、光が戻る。
「
ふわり、と。
舞い上がっていた男の朱裳が、重力に従い垂れさがる。
そこは、女のすぐそば。手を伸ばせば触れられるほどの距離に、彼はいた。
直前まで生垣越しに睨み合っていたはずなのに。
自分は今しがた意識を失っていて、男が間合いを詰める瞬間を見ていなかったのではないか――
そう考えてしまうほどに、男の動きには前後の脈絡がなかった。
「鎮まり給え。御尊父と御母堂の思惑が奈辺にありや、もはや計り知れざる仕儀なれど、
男は懐より紙の
いたわるように。
ことほぐように。
優しく女を撫でる。
「鎮まり給え。御身をお迎えしたく候。荒ぶり、呪詛を吐き、
白かった紙の
同時に女の顔から凶相が抜け落ちた。真円に見開かれていた目が、痛みに耐えるように伏せられる。
目尻に、透明な雫。
唇が震え、両手で顔を覆った。
「今までよくぞ耐えてこられました。御身を奉遷いたしまする。不佞の心魂に御所を造営しておりますれば、手狭で恐縮ながらしばしお寛ぎいただきたい」
肩を震わせ、声もなく咽ぶ女は、顔を上げぬままこくりと頷いた。
巨体が翡翠の光に包まれ、まるで蛍の群れにも似た粒子の奔流と化して渦巻いた。
そのまま男の胸の内に吸い込まれ、跡形もなく姿を消す。
四ツ目の仮面を取り払い、厳めしくも慈しみに満ちた初老の顔が露わになる。
「……ぁ……」
声が、出た。
自分が声を出せることを、辰巳はようやく思い出した。
「やっ……つけた……の……?」
か細く、それだけを問う。
老人は、今初めてこちらの存在に気づいた様子で視線を向け、厳かに首を振った。
「今は不佞の内におられる。伊勢……は、まずいな。出雲にでもお迎えし、秘祭神としてお祀り差し上げるのだ」
言われていることの意味が、わからなかった。
まともに動かない体を叱咤し、首を巡らせた。
体の表裏が裏返しにされ、血と臓物を垂れながら悶死した肉塊たちは、相も変わらずそこかしこに転がっていた。
二度も裏返りを受けたのち、こともなげに踏み殺された母の惨たらしい遺体も、たまらない臭気を放ち始めていた。
肺腑が、震えて、止まらなかった。
「……は……」
こちらの様子に気づくことなく、男は懐からスマートフォンを取り出し、どこかへ連絡を取っていた。隠蔽がどうの、救急ヘリがどうの、どうでもいいことを話している。
「……はは、は……」
顔が引き歪み、辰巳は、なぜか笑いが止まらなかった。
●
たいへんまずい事態に立たされてしまいました。
絶体絶命という奴です。
女性の怨霊は男性を恨んでいる場合が多いため、鎮めるにあたっては基本的に同性の陰陽師が派遣されます。
ゆえにわたしが来たわけですが、今回の一件は例外中の例外でした。
屋敷の敷地に入った瞬間、わかりました。
ここを怨念の異界に沈めている元凶は、意外なことに「女性を即死させる」というルールを自らの支配領域に布いていたのです。
女性が女性を恨むのは、もちろんありえないことではありません。しかし今回のケースにおいて、怨霊は自らの旦那さんに拷問を受け、惨殺されてしまったパターンです。
恨みの対象が、少なくとも女性ではないだろうという予測はまったくもって妥当なはずでした。
わたしが現在無事なのは、白い
宮太夫として正五位に就く証であり、標縄や紙垂でそこかしこを飾り立てられた栄誉ある衣冠。髪もおだんごにまとめて烏帽子の中にしまっています。鎮めの装束には陰気を払う咒が込められているため、怨霊の認識からでは「ぼんやりと人型をしている」という程度のことしかわからないのです。
通常、このような想定外のケースでは、即時撤退が強く推奨されています。わたしが女であることが露見すれば、その瞬間に術を練る間もなく即座に死が訪れます。そしてわたしの霊魂は怨霊の支配に捕らえられ、彼女の意のまま屋敷に入ってきた者を無差別に祟り殺す存在に堕してしまうことでしょう。
しかし。しかし、です。
バレなきゃいいんですよ。
この装束が引き裂かれるか、「奥の手」を出す破目にならない限り、わたしが才色兼備にして文武両道の﨟󠄀たけた黒髪の乙女であることなどわかりません。
何より、ここの怨霊は支配領域を屋敷の外にまで拡大しています。付近を通りかかっただけの人々すらも屋内に誘い込み、祟り殺しているのです。
先日、京都で似たような事例がありました。その時は発見が遅れに遅れ、街のひと区画が丸ごと死の呪いを享け、恐ろしい数の犠牲者を出したのです。華道の大家として人間国宝の認定を受けていた九条皇嘉門流の家元が、お子さんやお孫さんともども無惨に亡くなっており、
今すぐに鎮める必要があります。
皇衛陰陽道組織〈金鵄〉はこのような案件に対応し、日ノ本の霊的防衛を管掌する古の誇り高き秘密結社なのです。むんむん。
みんな戸籍を持っていないので医療費は全額自己負担だし、お仕事は命がけだし、
――べちーん、と。
自らのままならない境遇への苛立ちを乗せて、張り手一発。
急に濁った絶叫を上げながら飛び掛かってきた無礼な殿方の顔に、阿比留草文字の書き込まれた
その男性は青白いを通り越しておよそ色素の存在しない真っ白い顔に、底知れぬ闇を湛えた眼をしていました。
眼窩は落ち窪み、青黒い血管がびっしりと浮き上がり、骨格が類人猿じみて歪んでいます。異形化は怨念により引き起こされるもの。生前よほど苦しい亡くなり方をなさったのでしょう。
わたしも女であることが暴かれれば、この方と同じものになってしまうのです。
つまらないことで苛立っていた自分の身勝手さを反省せねばなりません。厳かな心持ちで鎮めを執行すべきです。
――大丈夫、大丈夫、憎むのはもうおやめなさい。
本来は、声も一緒にかけてあげた方が効果的なのです。しかし、それだけでわたしの性別が詳らかになる恐れがあまりに高いので、念じるだけに留めます。
〈撫で物〉は、平安時代より陰陽師たちに広く伝わる咒術ですが、当時の手法を「伝統」とか「しきたり」などというカテゴリに死蔵して思考を硬直化するがごとき愚挙を、わたしのご先祖様はなさいませんでした。
現代陰陽道の〈撫で物〉は、祝詞を唱えるまでもなく怨霊を一瞬で無力化することを可能とするのです。そして、恨みのあまり冥界へ召されてゆくのを拒む頑なな魂は輝く粒子と化し、わたしの胸の内に吸い込まれてゆきます。
速やかに、音もなく。
我が心魂の中には、ひとつの小世界が構築されています。夜明け前のように暗く、月の霊光のように艶やかで、深海のように静かな、冥界の環境を再現しているのです。
大抵の荒魂は、ここに数時間も居れば頭も冷え、正しき幽世へ召されてゆくことに同意してくれます。
〈星霊葬〉。
怨霊たちを自らの魂の裡に構築した仮想空間へ招じ入れ、それぞれの法理に従わせる最新咒法。現代陰陽師のメインウェポン。
2011年、青色超巨星から放出された恒星物質のかたまりが、それよりもずっと小さい中性子星の内部に取り込まれた瞬間を、XMMニュートンX線観測衛星が捉えることに成功しました。
このニュースをいち早く掴んだ皇衛陰陽道組織〈金鵄〉は、「星を喰らう星」という概念を宿曜の力として術式化。実戦テストを繰り返したのち、有用性と安定性において比類なしとして正式に実用化しました。
陰陽道は貞観四年に「宣明暦」を採用し、天徳元年に「符天暦」を採用しています。かかるごとく、常にそれぞれの時代の最新の天文学知識を貪欲に取り込みながら、星々の運行の意味を読み解き、暦法を裁定する立派な学問なのです。むんむん!
憎しみに凝り固まった殿方の御魂が、わたしの小世界に葬送され、亡くなった瞬間の無念を一部だけ伝えてくれました。
強い強い恐怖に打ちのめされ、人格を破壊され、命を奪われてしまった、哀れな亡者。
この屋敷を買い取り、家族で引っ越してきた。しかし、そこにはとてつもなく恐ろしい「何か」がいて、家族全員が祟り殺されてしまった。その時の恐怖によって冷静な思考が出来なくなり、「何か」の持つ憎悪に感染。
こうして屋敷に侵入してきたものを例外なく祟り殺す怨霊と化してしまったのでしょう。
怨念が怨念を生む負の連鎖。放置しておくわけにはいきません。
ぐんにゃり、と。
そんな音がしそうなしそうな動きで、殿方は床に倒れ伏しました。
あら?
怨霊は今しがたわたしの小世界に取り込んだはず。その霊体は跡形もなく姿を消していなければおかしいのですが。
見ると、顔つきも体格もすっかり変わって、小学生くらいの可愛らしい男の子の姿になっています。
どうやらさきほどの怨霊は、生きている人間に憑依するタイプだったみたいですね。
それにしても、なんとも獰猛な佇まいの少年です。
色素の薄い飴色の髪が柔らかくうねり、尖った小顔と整った目鼻立ちは小悪魔めいた危うい艶を放っています。
造形一つ一つは愛くるしいとしか感じません。なのに、それらが目を閉ざして寝息を立てている姿は、何か極めて危険な獣を多大な犠牲と苦労の末にようやく捕らえたさまを彷彿とさせています。
決して解き放ってはならない「何か」が、この子の中に、いる。
首をぶんぶん振って益体もない発想を追い出します。
まったく、人を見た目で判断するなんてどうかしてます。
こんなところに子供を置いておくわけにはいきません。屋敷が怨念に沈んだ「元凶」を鎮める前に、この子を脱出させておかなくてはならないでしょう。
肩を揺すると、飴色の髪がさらりと揺れ、頬にひと房張り付きました。そのさまにもどこか邪悪な色香を感じ、ちょっとどきどきしてしまいます。
まったく、何を考えているのでしょうね、我ながら。
気を取り直して、完璧なカーヴを描くほっぺをぺちぺちすると、彼の目蓋が震えました。覚醒の予兆です。
「んん」
わずかに色づいた唇から柔らかい吐息が漏れ、眉がわずらわしげにひそめられます。
理解不能な恐怖が、わたしの背筋を駆け抜け、甘い痺れを残していきました。
逃げなければならない。
目が開かれる前に、この場から全速力で離れなければならない。
経験したことがないほどの、差し迫った切迫感。
しかし、わたしはその時、恥ずかしながら一瞬すくみ上がってしまい、ここから逃れる最後のチャンスを逸してしまいました。
目が。
開かれたのです。
長いまつげに縁どられた、切れ長の双眸が。
その瞬間、今まで目蓋によって封じられてきた、ひどく甘い匂いを放つ厭わしい妖気めいたものが解き放たれ、わたしの体に絡みついてくる気がしたのです。
両手で口を抑え、どうにか情けない声を抑え込むことに成功したわたしは、尻餅をついていました。
「ふあ……ふう」
男の子は猫を思わせる伸びをして、わたしを見ました。
ああ。
どうしましょう。
わたしは今、極めて切迫した命の危機に直面していることにようやく気付きました。別にこの少年のただならぬ妖美さなどは関係ありません。相手が誰であろうとも同じこと。
一体これから、わたしはどうやって相手とコミュニケーションを取ればいいのでしょう。
声さえ出せないのに。
案の定、男の子は目を見開いてこっちを見ています。
怨霊の、陰気を媒介した知覚からは「ぼんやりとした人型」としか認識できないわたしですが、生きている人間からはもちろん普通に視認されてしまいます。
ゆったりとした狩衣をまとっていようとも、この眩いばかりに華やかで艶やかな
少年は、驚きから立ち直ると、おもむろに口を開きました。
その可愛らしい小さなお口で紡がれる声を聴いてみたい気持ちはありますが、彼がわたしを呼びかける単語でもって怨霊たちに決して暴かれてはならない秘密が暴かれてしまう未来が容易に想像できました。
「あの、」
……わたしに他にどうしようがあったと言うのでしょうか。
危機感のおもむくまま手のひらで男の子の口を塞ぎ、背後に回り込んで抱きすくめる以外に、自らの命を守る手段はありませんでした。
男の子はもちろんびっくりしてもがきますが、わりとすぐ大人しくなってくれました。
少年の耳元に無声音で囁きかけます。謝罪と、騒がずにいて欲しい旨。自分は決してあなたに危害を加える気はないこと。わたしを呼ぶときは「あなた」とだけ呼んで欲しいという要望。もしこれを破れば必ず後悔することになるという恫喝。
男の子は、無言でうなずいてくれました。今言った約束を決して忘れないようにと念押しして、わたしは手を放しましす。
相対。
どんぐりのようにおおきな瞳が、瞬きながらわたしを見つめてきます。
「あなたは、あの、お祓いとかそういうのをやる感じの人ですか?」
内心うわぁ説明めんどくさいなぁと思っていたわたしの心を見透かしているのだろうかと妄想してしまうほどの察しの良さです。
わたしはぶんぶんと首を縦に振りました。
「ええ、ええ、わかります。明らかに印象が違いますし。着こなしに慣れと緊張感が両立している。ガチな方の人ですよね」
男の子は真剣な面持ちでしきりにうなずいてくれました。
「それで、君はどうしてこんなところに?」
再び彼の耳元に唇を寄せ、囁きかけます。
現在この屋敷に生きた人間がいるなんて事前情報はありません。入居者があるたびに行方不明となるいわくつきの物件に、わざわざ入ってくる人物。
家の関係者か、あるいは同業者でしょうか。
「えっと、僕、
「会いに来たんですか。その河俣先生に」
思わず咎める口調になってしまったわたしに対し、辰巳くんはあからさまにしゅん、としています。
「えっと、ごめんなさい、勝手に入るつもりはもちろんなかったんですけど、門のチャイム鳴らそうとしたらいきなり意識が飛んじゃって、気が付いたらここに……」
この擬洋風建築屋敷を支配し、入居者を次々と殺めている「元凶」は、屋敷の外にまで影響力を広めんとしているのでしょう。膨れ上がり続ける怨念に、内部から圧迫されながら。
それは。
どれほど苦しい在り方なのでしょう。
自らの怨念に押し潰され、まともな思考もできなくなるほどの。
一刻の猶予もなりません。
速やかにわたしの胸の裡で〈星霊葬〉に付し、その哀しい苦しみから解き放ってあげなくては。
――冴木恵子。
それが、かつてこの世に生き、今はこの冴木邸を惨劇の舞台に変えさしめた厄災の名なのです。
その旧姓は、
辰巳くんの、恩師、ということなのでしょう。
会わせるわけにはいきませんね。生前の冴木恵子さんもきっと、教え子を呪い殺すなんて顛末は望まなかったはずです。
「ともかくここは危険です。キミもさっきまで怨霊に乗っ取られていたんですよ。ついていってあげますから、早くこの屋敷から脱出なさい」
「はい……わかりました。あの、河俣先生のこと……」
「わかっています。もちろん助けるつもりです。辰巳くんはとにかく脱出を」
「そう……ですか」
心配なのか、辰巳くんは憂いに眉目を煙らせながら立ち上がりました。
わたしはむん、と気合を入れ、辰巳くんを先導します。
辺りは、闇。
まだ昼下がりのはずですが、屋敷の中に日光はほとんど差し込んできません。
ふと、
振り返ると、辰巳くんは目を伏せ、微かに震えていました。周囲の異様な空気にすっかり怯えている様子。
致し方ありません。こんな子供が怨念渦巻く異界と化した洋館などにいて平気なはずがないのです。
わたしは微笑むと、彼の手をそっと握ってあげました。
そこで初めて、辰巳くんの両手が手袋に包まれていることに気づきます。
日焼けを防ぐためのアームカバーでしょうか。ナイロンのなめらかな指ざわりの奥に、彼の体温を感じました。
これくらいの男の子が日焼けを気にするなんて珍しいなと思いつつ、辰巳くんの手を引いて玄関に向かいます。
一階の最奥部で辰巳くんを救助したので、出口までは長い廊下を進まねばなりません。
途中、何度か怨霊に遭遇したものの、特に問題なく〈星霊葬〉でわたしの心魂の中に納めることができました。
しかし、取り囲まれれば辰巳くんを守り切るのも難しくなります。
ダマスク模様の壁に囲まれた広い階段ホールで、十数体の怨霊たちが各々泣き叫んだりけたたましく嗤ったりしながら、わたしたちを待ち構えていたのです。
しかし、その恰好は一様です。
暗闇の奥から現れる、青白い裸体の群れ。
痩せさらばえた、あるいは醜く太った肉体を晒し、もはや人間としての品位を根本からかなぐり捨てています。
――わたしたち〈金鵄〉の陰陽師は、基本的に死を恐れません。
死んだらどうなるのかをすでに知っているからです。
事故死も、病死も、あるいは誰かに殺害される最期でさえ、一過性の苦痛でしかないことを理解しています。
しかし、今目の前にいる彼らのように、よく知らない他人の怨念に引きずられ、理性も慈しみも持たない亡者に堕とされる末路は、およそ最悪に近い散り際です。
嫌悪と恐れに支配されかかる心魂を、強いて規律の鎧で縛り付け、速やかになすべきことを成します。
強く辰巳くんの腕を引いて抱きすくめ、もう片方の腕を横に一閃。
すると、わたしたちの周囲を環状に霊符が取り囲みます。それらは「辺際」と「塵垢」を意味する
――〈黑洞冥官祭〉。
今まさにわたしたちを取り殺さんと殺到してきた怨霊たちは、霊的重力によってなすすべもなく〈星霊葬〉の小世界へと吸い込まれてゆきます。
思わず大人げなく大儀式を行使してしまいました。もうちょっとスマートに切り抜けることもできたのですが、
ちらりと腕の中の辰巳くんを見ます。
目をキラキラさせながら、わたしの鎮めに見入っています。〈金鵄〉千五百年の研鑽の末に完成された精緻の極みとも言うべき咒法を目の当たりにすれば当然の反応ではありますが。むんむん。
しかし次の瞬間、辰巳くんのくりくりと愛らしいおめめから光が失せました。どろりと濁った比重の重い気体が、眼窩から漏れ出てくるような、背筋の凍る感覚が走ったのです。
「
えっ?
その酷薄な口調に、わたしはなぜか甘い痺れを感じました。子供を抱っこしてあげてるだけだと思っていたのに、急に何だか自分がとんでもなく廉恥心のないことをしている気分になってきたのです。
とんでもなく美しく愛らしい小動物を抱き上げていたら、それが一刺しで人を殺められる毒を持った種だと言うことを不意に思い出した人間は、きっとこんな気持ちを味わうのでしょう。
慄然。
くすくすと笑い声が鈴鳴り、辛辣に響き渡ります。
「そんなに抱きしめられたら僕、恥ずかしいですよ」
細められた瞼の奥に、濡れた光を宿す瞳。
わたしは思わず腕を解き、二、三歩あとずさります。
胸のうちで暴れ狂う心臓の鼓動を、気付かれていないことを祈りつつ、一緒に玄関に向かうよう身振りで彼に伝えました。
●
出られません。
というか、玄関に近づけません。
近づこうとするほど、目に見えない正体不明の力に押されて、どうしても右に寄ってしまうのです。
何らかの結界でしょうか?
だけど、生きている人間に対してここまで強い斥力を発生させる結界など、神代の大嘗祭で執行されたものぐらいしかありえません。
通常の人払いの結界のように、「なんとなくそこから去りたい気分にさせる」などという綿菓子のごときふんにゃりとした効果とは一線を隔します。明らかに物理的な圧を感じ、どれだけ力を込めて直進を試みても、気が付いたら右側の壁に身を押し付けてしまっているのです。
そんなはずはありません。今この屋敷に高位陰陽師はわたししかいないはずです。そのわたしに覚えがない以上、これほど強烈な結界咒法がこの場に存在するはずがありません。
「どうしたんですか?」
辰巳くんが、腰の後ろで手を組んで好奇心に満ちた眼でこっちを見ています。とても可愛い。
わたしは彼に身を寄せ、耳元に囁きかけます。
「呪い、かもしれません」
「呪い?」
やや頬を染めながら、辰巳くんは首をかしげます。
――この屋敷を支配するモノの怨念が、現実の法理を歪め、脱出を封じているのかも……
「ええ~、ほんとですか?」
止める間もありませんでした。
辰巳くんは躊躇なく玄関に近づいていったのです。ふらふらとぎこちない足取りで右側に寄りはじめ、やがてすっかり右の壁に押し付けられてしまいます。
わたしはすぐさま彼の耳たぶを引っ張り、引き戻します。
「こら、どんな作用があるかわからないんですよ。めっですよ」
「ホントだ、面白いですねコレ」
面白がっている場合ではありません。
何が起こっているのでしょうか?
こんなものは今まで一度だってここに現れたことなんてないのに。
不意に脳裏をよぎった不思議な思考に、思わず首をかしげました。
今までも何も、この屋敷に来たのは今日が初めてです。
気を取り直して、これからのことを考えます。
非常に考えづらいことですが、この呪われた館の主である冴木恵子さんの怨霊が、極めて高度な陰陽術式を行使していると考えるより他にありません。
そんなことがあり得るのでしょうか? 彼女の経歴は〈金鵄〉の〈鴉天狗〉たちから資料を貰っていますが、福祉系の大学を出て児童養護施設の職員になったのち、結婚と出産を理由に退職。
どこにも陰陽道と関わりを持ちそうな情報はありません。
しかし、いくらあり得なさそうなことでも、消去法的に考えればそれ以外にないのも事実。
困りました。脱出ができないというのなら、辰巳くんを連れて恵子さんを鎮めるより他にありません。一人にはできないのですから。
大変困難で、危険な任務となってきました。
「辰巳くん」
彼の華奢な腕を引き、胸の中に抱き留める。彼の命を感じるために。この命を賭けて守るものの、ぬくもりと重みを確かめるために。
「ど、どうしたんですか?」
「キミの元気を分けてください。これはちょっと、気合を入れる必要がありそうなので」
空気を含んだ柔らかな髪をわしゃわしゃと撫で、頬ずりをしました。
「もう、僕は中学生なんですよ? 子供扱いはやめてくださいよ」
見ると、辰巳くんの頬は紅潮していました。わたしの胸に埋もれて、力なくもがいています。
中学生ってこんな可愛い生き物でしたっけ?
●
柔らかいものと硬いものが、まとめて叩き潰される音。
それが、断続的に何度も鳴り響いています。
――おめでとうございます。おめでとうございます。おめでとうございます。おめでとうございます。
低く穏やかな殿方の声が、ひたすら同じ言葉を繰り返しています。胸の悪くなる音と、タイミングを共にして。
わたしは辰巳くんと目を見合わせ、ぎゅっと手を握ると、声のする曲がり角から顔を出します。
両眼球が異様に肥大した男性が、ビニール袋に入った血まみれの何かを、ひたすら机に叩きつけていました。
――かわいい子ですね。かわいい子ですね。かわいい子ですね。かわいい子ですね。
声に、笑いが混じります。
男性は、泣きながら笑っていました。笑いながら幾度も腕を振り下ろしていました。
そのたびに、ビニール袋の中に
わたしは曲がり角から飛び出しざま、霊符を投げ打ちます。
狙い過たず、またしてもビニール袋を振り下ろさんとする手首に命中。辰砂で書かれた簶書体の漢字が光を放ち、札の周囲を
が。
自らの臓物を生きたまま食い千切られる悲鳴めいた絶叫が上がり、ぼぐん、と奇妙な音が鳴りました。
ついで、ミチミチと肉が引き裂かれる音。
男性は肘関節を外し、肉と腱を強引に引き千切り、拘束を脱したのです。
濁った声でおめでとうございますと泣き叫んだかと思った次の瞬間、目の前に彼の顔がありました。完全にわたしの動体視力なんか置き去りにする速度です。
首をかしげながら、至近距離でじっとりと見据えてきます。
行き場のない悲哀と、憤りが、その肥大化した眼球から滂沱と流れています。
こんなに苦しいのに。
こんなに無念なのに。
どうしてお前は五体満足の涼しい顔でそこにいるんだ。
ゆるせない。
そうした、人としての卑小で卑近な感情の渦が、彼の中で抑えようもなくなっているのです。
反射的に、冷たい汗が滲みました。
それほどまでに、この殿方の目は悲惨で悲痛でした。
背骨が折れるほどに仰け反り、頬が張り裂けるほどに
もしあの牙がわたしの頸動脈を食い千切れば――あるいはそこまで行かずとも、狩衣に引っ掛かって引き裂いてしまえば。女だとバレてしまえば。
わたしは即座に命を喪い、彼と同じ存在になるのです。
まるでストップモーション映像のような不気味の谷の底の底。わたしは確かに恐慌したのです。
しかし。
――すべての故人に、敬意と慈悲を。
それが、〈金鵄〉たちの鎮めに通底する思想です。
そもそも怨霊とは祟るものであり、そこに憤ったところで事態は何も解決しません。地震や新型コロナに対してぷりぷり怒ってもまったくの無意味であるのと同じです。
ゆえに、わたしたちは怨霊を祓わず、鎮めます。それは人間がいずれ誰しもそうなる可能性のある姿なのだから。
――
それが、殿方の牙がわたしの顔を食い千切るに至らせなかった要因です。天文学的領域を遍く満たすダークマターは、重力にしか影響を受けず、あらゆる物質を透過します。
霊的次元におけるニュートリノ化現象は、霊体による加害を難なくすり抜けつつ、普通の物質とは普通に相互作用を行う状態になります。屋敷の床をすり抜けて地球の中心に落下していくなんてことはありません。
通常、人間は怨霊に触れることはできませんが、怨霊からは一方的に攻撃を加えられてしまいます。その不条理を解消する手妻の一環です。
透過――と同時に胸中の〈星霊葬〉へ速やかに吸引。しかし、怨念の塊を納棺したという独特の手ごたえというか、わずかな疲労感がありません。
背後で、絶叫。
思わず総毛立ちます。まさか、
振り返るまでもなく、事態は明らかです。殿方が最初に引き千切った自らの腕。本体はそちらだったのです。
「うわっ」
すでに振り返る猶予すらありません。
腕だけで辰巳くんに襲い掛かっているのです。異形化した腕が、怨霊ならではの怪力で少年の命を奪うまでに、もう何秒も猶予はないでしょう。
――ごめんなさい、おじいさま。
不肖の孫をお許しください。これにて、おさらばです。
わたしは即座に命を捨てる覚悟を固めました。高貴なる勘解由小路家の責務、疎かにしようとは思いません。
狩衣の両肩を留めていた糸が一瞬でほどけ、はらりと体の前後に垂れ下がりました。袖はもともと胴部と完全に分離した付け袖タイプのものですので、そのままわたしの上腕中ほどから指先までを覆い続けています。
背後で辰巳くんが目にしたのは、露わになったわたしの白い肩と背中だったことでしょう。
〈金鵄〉陰陽師の女性用
――易に太極あり。これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。
肩甲骨に刻まれた陽爻と陰爻による六十四卦が、右肩甲骨は先天図、左肩甲骨は後天図を描いて咒力を回します。
陰と陽の概念は、スイッチを切り替えるみたいに区別がはっきりしているわけではなく、なめらかなグラデーションを描いているものです。
ゆえにこの咒紋回路は、非決定性有限オートマトンに非常に近い構造をしており、極めて柔軟な判断能力を有しています。
周囲に満ちる陰の気を取り込み、解析し、背後より迫る脅威を鎮めるにあたって提携律と拮抗律と循環律と交錯律のいずれの理が最も効率的かを全自動で判定。
わたしの〈星霊葬〉と直結した霊的な触手が肩甲骨より幾本も伸長し、腕さんを一瞬で絡めとりました。
――〈羽化登極〉。
あたかも食虫植物に絡め捕られた蠅。
〈羽化登極〉の形状は、術者によって個人差が非常に大きいものです。わたしのそれは、
まるですぐ調子に乗るお前の心根が顕われているようだな、などとおじいさまは難しい顔でおっしゃっていました。失礼しちゃいます。わたしほど慢心しない冷静な陰陽師はいないと言うのに。孫娘の最期ぐらい褒めて欲しいものです。
途端、強い自我を残した怨霊の、生前に味わった苦しみと哀しみ、そして恐怖が、わたしの体に流れ込んできました。
「……あぁ、」
寒気と痛ましさに、思わず自身を抱きしめてしまいます。
〈鴉天狗〉たちの情報通りでした。いま〈星霊葬〉に取り込んだ殿方の生前の名は、冴木武男さん。冴木恵子さんの旦那さんです。
子宝に恵まれづらい体質だったらしく、そこから劣等感、誤解、嫉妬、激情、狂気――人としてのあらゆる業に翻弄され、自らの妻を凄惨な手段で殺めてしまったのです。
冴木恵子さんを強大な怨霊へと変えさしめた、元凶とも言える存在。
「もう、苦しむのはおやめなさい」
久しぶりに、そして最期に、ようやく声を出せました。
せめて彼の黄泉路が安らかならんことを祈祷せずにはいらせません。
そこへ、弾むような足取りで辰巳くんが駆け寄ってきました。
「あ、あの、おねーさん。おかげで助かりました。本当にお見事な腕前ですね。僕、びっくりしちゃいました」
そうでしょう、そうでしょうとも。陰陽道のサラブレッドとしての最高の才を持って生まれ、過酷な身体改造とたゆまぬ努力を重ねることよって、わたしの傑出した実力は支えられているのです。なんだか誰も褒めてくれないのでたまに忘れそうになりますが、本来持つべき自負心と言うものが快く全身を巡ってゆく心地です。わたし、すごい。むんむん。
と言ったところで冷静になります。どんな心境からでも平静を取り戻せるのもわたしのすごいところではありますがそれはそれとして。
……どうしてこの命はいまだに続いているのでしょうか?
ゆったりとした狩衣は体の前後に垂れ、体にぴったりとした
狩衣を脱いだのに烏帽子をかぶったままなのもなんだかなので、取り外しておだんごもほどきます。さらりとした感触がわたしの背筋を撫でました。
一秒待っても、二秒待っても、わたしの息の根は止まらず、心の臓は健全な拍動を続けています。
「……はて?」
これは一体どういうことなのでしょうか? 考えられる可能性としては、わたしがこの屋敷に渦巻く怨念の流れと波長を読み誤り、間違ったルールとして理解していたというものです。
それはないと断言できます。まがいなりにも陰陽師を名乗るならば、この種の見極めを誤っているようではまったくお話になりません。今でも冴木恵子さんの怨念は、主に女性に向いていることを肌で感じ取れます。
ではもうひとつの可能性、わたしは女性ではない。
……いやいやいや……
これまでの人生に照らし合わせてみても、わたしは肉体的にも性自認的にも女性以外の何かであったためしなどありません。このような佳人を捕まえて殿方と見誤るとは、なんとも失敬な怨念です!
腰に手を当て、胸を張って辰巳くんと向き合います。
「ほら見てください辰巳くん! わたしの性別は何ですか!?」
「お、女の人に見えます……」
「そうでしょうそうでしょう! まったく不可解です!」
中学生の少年にはいささか目に毒な恰好をしている自覚はあるのですが、辰巳くんがこうして照れながら目を逸らすというたいへん初々しくもいじらしい反応を返してくれるものだから、どうにも愉快という気持ちが先行しがちです。
いや、ともかく。
いったいどういうことなのでしょう? 玄関に存在した謎の斥力結界と合わせて、どうにも合理的な説明が出来ない状況です。
「声」
「えっ?」
「初めて聞きましたけど、とてもおきれいですね。透き通ってるけど力のある声で、ちょっとうっとりしちゃいました」
立ち眩みを起こしたかと思ってしまいました。思いがけない不幸は精神衛生に悪いですが、思いがけない幸福もまた同様に精神衛生に悪いのです。これはいけません。なんなんでしょうかこの子は。
思わず両頬を抑えて後ろを向いてしまいました。
――そして、わたしは辰巳くんが敵であることを確信しました。
この子は実在する人間ではありません。考えてみれば、こんな中学生がいるはずがない。
振り返り、辰巳くんの佇まいを改めて眺めます。小首をかしげて不思議そうに私を見ているのです。
たまらなく可愛い。
抱きしめたくなるし、ちょっといじわるしてほっぺをつねってみたくもなる。それに対する反応も、きっと愛くるしいものになるのでしょう。
出会って一時間も経っていないのに、どうしてわたしはここまで彼に気を許しているのでしょうか?
「それで、辰巳くん? どういうことなんですか?」
「黙っててごめんなさいっ! 僕、本当は一般人ってわけでもないんです」
ためしに曖昧な質問をしてみると、辰巳くんは打てば響くがごとく的確にわたしの聞きたいことを読み取って、その話を始めてくれます。
思えば、初めて会った時からずっとそうでした。
たとえどれほど相性の良い人でも、会話をしていれば多少は伝わらないこともありますし、聞き取れなかったか意味が解らなかったかで「え?」と聞き返すこともあるはずです。
しかし、辰巳くんとのコミュニケーションではそういうことが一切ないんです。
「野良の法師陰陽師ですか」
「はい、フリーの霊媒師やらせてもらってます。おねーさんたち皇室お抱えの人たちが、僕らみたいなのを毛嫌いしているのは知っていたけど、その、嫌われたくなくて……」
何の引っ掛かりもなくすぅっと意味が通り、一切の誤解が生じず、迅速に情報交換が終了し、かつわたしが一番欲しい言葉を短く的確に付け加えてくれる、紅顔の美少年。
そんな人間が現実に存在するわけがないのです。
「冴木先生を、助けたかったんです。でも、僕じゃあ無理みたいだ。お願いしますっ! 僕も連れてってくださいっ!」
頭を下げてきます。
わたしはその頭に〈撫で物〉をしてしまおうかと、かなり本気で考えました。
この子はきっと、冴木恵子さんの眷属怨霊に違いないのだから。
自らの領域に入ってきた異物を感知し、奥底へと誘因する役割を持たされた、怪異の一種。
異次元の空気読み能力も、撒き餌としてより魅力的な存在になるための機能と考えるべきでしょう。非常に珍しい存在ですが、前例のないことではありません。
この子は敵です。即座に鎮めるべき。
しかし――
一方で、これはチャンスでもありました。
現状、冴木恵子さんがいかなる性質の怨霊としてこの屋敷を支配しているのか、辰巳くんから情報を引き出せる可能性が出てきたのです。あまりにセオリーから外れたこの屋敷の状況を、少しでも解き明かす必要を強く感じています。
当然、危険は伴います。最悪の場合、挟み撃ちに遭う可能性もあるでしょう。それでも、未知の相手を鎮める不利は甚大なものです。
「顔を上げてください、辰巳くん」
わたしはにっこり微笑んで、彼の肩を掴みます。
「協力してこの窮地を乗り切りましょう。もし二人とも無事に屋敷から出られれば、〈金鵄〉にキミのことは黙っておきます」
「本当ですか!」
「だから、キミも手を貸してね?
駆け引きも面倒です。どうとでも解釈できる曖昧な言葉を投げつけてやれば、この子は自動的にわたしの最も望む回答をするはず。
「……まいったな。おねーさんに隠しごとはできないや」
辰巳くんは、ポケットから一枚の札を取り出しました。
不動明王と、その従者である
札がふわりと宙を舞い、辰巳くんは不動根本印を切りました。
すると、霊符は一瞬で音もなく式盤に
式盤とは、陰陽道において太陽の位置の指標と、現在時刻を組み合わせることによって、未来の因果を予測するための器物です。
四角い地盤の上に丸い天盤が乗っていて、方位磁石の仕込まれた天盤を基準にさまざまな情報を取り出します。
そういうものが、瞬時にわたしたちの前に現れました。
恐らくは、不動明王の「身代わり札」の霊力を逆用し、物品を札に変えて携行する裏技的呪術です。神格への敬意が感じられない運用法に、思わず眉をひそめてしまいます。
しかし、天盤の上に作り上げられた構造物を見た瞬間、そうした反感は一瞬で忘れ去ってしまいました。
屋敷、です。
天盤の上に、ミニチュアの屋敷があるのです。
わたしたちが今いる擬洋風建築屋敷の精巧な模型が、円形の天盤の上にちょこんと置かれています。
そして、天盤は回転していました。恐らく地盤の内部に単純な式神が組み込まれ、常に一定の速度で回し続けているのでしょう。
円の中央に屋敷のミニチュアがあるのではなく、建物の分布は偏っています。天盤の半分は何もない空き地です。
辰巳くんはそっと手を伸ばし、アームカバーに包まれた可愛い指先で、屋敷の寄棟屋根をひょいと摘まみ、取り外しました。
――吐き気がしました。
まるで日数の経ったナマモノが入っている容器の蓋を、無造作に開けたかのようでした。腐敗臭と硫黄臭にも似た陰気が漂ってきます。
「冴木先生は、ここで死にました」
見ると、瘴気に包まれた屋根裏部屋の片隅に、小さな小さな人形が置かれていました。
手作りらしく、
可愛らしい人形です。しかし、元々の造形が愛らしいだけに、その情景が表している出来事の禍々しさが引き立たされていました。
ビーズ製の両目と喉元から、饐えた匂いのする赤錆びた液体がじくじくと流れ出し、自らの衣服や周囲をどす黒く穢しているのです。
赤いアップリケで表された口は、水に濡れた紙を思わせるほど縒れて、異様に歪んだ口元になっていました。
助けを求めているのか、憎しみを絶叫しているのか、あるいはそうした容易に名付けられる感情ではないのかもしれません。
恐らく、これは。
「――共感呪術、ですか」
人形が制作された時点では、血の涙など流してはいなかったのでしょう。本当にただの人形だったのです。
しかし、何らかの手段でこれが冴木恵子さんと関連付けられ、呪術的に等しいものとして定義づけられた瞬間、本体の状態が人形にも伝播したのでしょう。
「美しい黒髪の持ち主でした。僕は彼女の長い髪が好きでした。だから、冴木先生が結婚して施設を退職した時、僕は再会の約束のつもりで、髪の毛を一本貰ったんです。そういうお守りがあることは知っていましたから」
そうして手元に残った髪を、この子は人形の中に封入した、ということでしょうか。
「キモいですよね。今にして思えば、自分でもどうかなって感じです。でも、恵子先生は嫌な顔一つせずくれました。あの時の彼女は、自分の前途の幸せを信じていたんだと思います。なのに……」
辰巳くんは一瞬哀し気に目を伏せました。その表情の、愁いを帯びた蠱惑的な色香にどきりと胸を弾ませながら、わたしは努めて冷静に言います。
「この人形の位置……屋根裏に、冴木恵子さんの遺体が今でも放置されているのですね?」
肩をぽんぽんします。
「彼女を助けましょう。苦しみと、無念から」
「ありがとう、おねーさん」
きっと、眷属怨霊となる前は、この子の想いも純粋なものだったと信じながら。
●
人体の破片が、そこらに転がっていました。
手足や、歯茎の一部や、性器や、眼球。
そして一見したところでは何なのかわからない臓物。
そこかしこに散乱しています。
どう見ても数十名分ものパーツが、廊下に転がっていました。
過去に三度も入居者が一家全員行方不明になるという事故物件であるため、もはや新たな入居者もここ二年は存在しなかったはずです。
冴木恵子さんは、屋敷の敷地の外にまで支配領域を広げ、ただ付近を通りがかっただけの人々も根城に誘い込み、祟り殺してきたのでしょう。
奇妙なことに、どの遺骸も原型を保ち、まるでさっき引き千切られたかのようです。全体が黄色味を帯びた硬い質感になっています。腐臭など一切せず、ただひたすら血と糞尿の匂いだけが、液体じみた濃厚さで周囲を満たしていました。
職業柄、こうしたものは見慣れてないこともないわたしですが、さすがにこの惨状は眉をひそめるに十分でした。
恐らくこれは、死蝋化現象です。
彼女の怨念があまりに強すぎて、微生物すら残らず鏖殺しているのです。
この事実は、屋敷のルールに対する別の可能性を示唆しています。冴木恵子さんは、女性を恨んでいるのではなく、
ふと、洟をすする音に振り向きます。辰巳くんが、無言で目を赤く腫らしていました。
ぽつり、ぽつりと透明な雫が頬を伝っています。
「やさしい、ひとだったんです」
胸の奥にしまった、小さくて大切な宝石を、おずおずと見せるように、言葉が紡がれます。
「やさしい、やさしい、ひとだったんです」
眷属怨霊とて、時にはこうして生前の自我を覗かせることがあります。
具体的な思い出を、彼は何も語りません。
児童養護施設にいたということは、彼もまた家庭に何らかの問題を抱えていたのでしょう。そんな少年にとって、冴木恵子さんがどんな救いになっていたのかなんて、わたしが立ち入れることでもないのかもしれません。
彼女に、これ以上罪を重ねさせてはいけません。
「行きましょう、辰巳くん。彼女の苦しみを断ちに」
「……っ! おねーさん、横!」
何の問題もありません。すでに〈羽化登極〉は陰気の揺らぎを感じ取っています。
振り返りもせずに、真横へ張り手一発。
下顎を、まるごと、凄まじい力で毟り取られた、無残なご面相の女の子。
ごぽごぽと泡立つ絶叫を上げ、セーラー服をひるがえしながら飛び掛かってくる彼女を、
しかし。
わたしは、ある一点に視線が釘付けになりました。
それゆえに、残心がおろそかになっていたことは否めません。
でも、それは。
驚愕と苦悶に目を見開いたまま、首と胴と手足がバラバラに引きちぎられている、その骸は。
死蝋化している他の遺骸よりも新しいらしく、まだ赤黒くてらてらと濡れ光り、鮮度を保っていました。
わたしは、その人物の顔を、よく知っている気がしました。
同時に、一度も見たことがない顔のようにも思えました。
あぁ、こんな顔だったのか、と――
違和感と納得がないまぜになった、奇妙な感慨が胸を満たします。
しかし、その人物が何者なのか、なぜよく知っている気がしたのか、肝心かなめの答えはまるで得られません。
まるで、何かに堰き止められているように。
だから。
ひゅっ、
と。
悲鳴になる前の、空気が喉を通過するかすかな音が耳朶に触れるまで、わたしは自失していたのです。
「え……」
振り返りました。振り返りたくなかったけれど。
そこには、闇だけがぽっかりと広がっていました。
今までわたしについてきた少年の姿が、どこにもありませんでした。
「辰巳くん……?」
返ってきたのは、背筋が凍るほどの静寂のみ。
「辰巳くん!!」
問題は、ないはずです。彼は眷属。眷属なのです。保護が必要な対象ではない。
そのはずです。
そのはず、なのに。
わたしは、全身の震えを、こらえることができませんでした。
自分が何か、取り返しのつかない過ちを犯した予感によって。
●
御堂辰巳は目を開いた。
夕暮れ時の斜陽が、窓から差し込んできている。
どこかで猫が鳴いていた。
にゃー、とは言えない鳴き声だった。
五十音の中で、その音に対応するものはない。
何かを乞うように、同じ響きを繰り返している。
辰巳は身を起こし、辺りを見渡した。
また怨霊の手に落ちていたらしい。まったく我ながら迂闊なことだ。
おねーさんみたいに上手くはいかないということか。
橙の夕陽が、屋敷の中の闇影を際立たせている。まるでタールが廊下の凹部分に溜まっているかのようだ。
繰り返される猫の鳴き声が、ひどく耳障りだった。
「やぁ、敏夫くん、そこにいたんだ」
温かみを帯びた男の声。
振り向くと、窓から人の好さそうな若い男がこちらを覗き込んでいた。
猫の鳴き声が響く。
「しばらく学校に来ないから、心配してたんだよ」
「……何の話です? 僕はトシオなんて名前じゃありませんが」
男は、辰巳の答えに何も反応せず、ただ微笑みの中に心配する気持ちを滲ませながら見てくる。
猫の鳴き声が響く。
「お父さんかお母さんは、今いるかい? ちょっとお話がしたくて」
「だから一体、何の話ですか。僕にはもう、両親はいません」
苛立つ。家族や、親族や、友達のことに触れられるのは、今でも辛い。
猫の鳴き声が響く。
男は、辰巳の言葉が聞こえなかったのか、首を傾げた。
その様子を前に、辰巳は気付く。
彼が喋りかけている相手は、自分じゃない。
猫の鳴き声が響く。
そんなつもりもないのに、ゆっくりと振り返る。早く振り返らねばならないのに。あるいは、振り返ってはならないのに。
そう思うにもかかわらず、体は遅々とした動きしかしてくれない。まるで夢の中のように。
やがて、視界に入る。
ソレが。
孔、が。
三つの、底の見えない、孔。
逆三角形の形に並ぶそれらが、青白い少年の顔であることに一瞬遅れて気付いた時、辰巳は叫びをあげた。
ずっと背後にいたのだ。
縊り殺される赤子の絶叫じみた咆哮が、丸く開かれた口から盛大に排泄される。
反応する間もなかった。
●
「たつ、み……くん……?」
陰陽師は神ではありません。怨霊を鎮めていれば、救い切れない人々もまたどうしても出てしまいます。
自らの中でベストを尽くしたのならば、そうした犠牲については必要以上に引きずるべきではありませんし、実際にそのような修行を積んできました。
しかし。
これ、は……
指し伸ばした指が震え、力なく垂れ下がります。
膝から力が抜け、その場に頽れました。
わたしの目の前には、ひとつの首と、一本の腕が、転がっていました。
「たつみ、くん……」
カッと目を見開いた、美しい少年の生首を、成すすべもなく見ることしかできませんでした。
体が内部から腐ってゆく無力感。
――生きていたのです。
彼は、生きた、人間だったのです。
それを、わたしは。
なにを、愚かな。
彼をちゃんと人間として気にかけていれば。庇護対象から外したりしなければ。
こんな結果にはならなかったと言うのに。
亡くなった直後にも関わらず、辰巳くんの霊は付近に存在していません。
今度こそ、眷属怨霊として取り込まれてしまったのでしょう。
……わかっています。落ち込むことは無意味です。今はそんな状況ではない。
でも。
「ごめん……なさい……」
ひとしずくだけ。
ただそれだけでいいんです。
どうかそれだけは、赦してほしい。
震える唇を抑えた手に、冷たい雫が垂れてきました。
その、瞬間。
気持ちの緒が、ふつりと微かな音を立てて、切れました。
切れて、
落ちて、
今まで強靭に心を鎧っていたモノが、いともたやすく剥落していきました。
責務と、それに対する心構えが。
わたしを小娘ではなく、〈金鵄〉陰陽師として、賀茂朝臣氏宗家の跡取りとして、縛り上げ、箍となり、鋳型となってきたすべてのものが。
からんころんと、足元に転がってゆく。
恐怖心や、怒りを適切に麻痺させ、冷静に振舞わせてきたオペレーティングシステムが壊れ、勘解由小路
ありのままの、姿を。
「……ぁ……」
声が、聞こえない。
「……ぁぁぁあああ……」
耳が聞こえなくなったのではなく、わたしは、最初から、しゃべったりしていなかった。声帯を震わせたりしていなかった。
だって、声帯なんて、ないんだから。
震えながら、振り返る。
かつて来た道を。
砕かれ、引き裂かれ、ばら撒かれた、その死体を。
どこかで見たことのある顔を。
一度も見たことのない顔を。
――わたしの、顔を。
声が。
とめどもなく声が漏れ続ける。
大気を震わせているわけではない、純粋に霊的な声が。
――勘解由小路雪加は怨霊に敗れ、苦悶に満ちた最期を遂げた。
しかし、冴木恵子の桁違いの怨念に取り込まれ、理不尽な死への怒りと恨みを捻じ曲げられようとしていた。
だから、わたしは、忘れた。
まるで、虐待された子供が「ひどい目に遭っているのは自分じゃない」と思い込むために別人格を作り上げる悲劇にも似て。
嫌だったから。
眷属になるなんて。ずっとここで、迷い込んできた生者を殺し続けるなんて。
怖気をふるうほど嫌だったから。
外に、出たかったから。
こんなところで終わりたくなんてなかったから。
だけど、もう、ほとんど取り込まれてしまって。
脱出なんて、もう無理で。
だから、わたしは、忘れた。
すべてを忘れて、まだ負けてないと思い込み、一定時間ごとに記憶をリセットし続け、呪われた屋敷を彷徨いつづけた。
どれぐらいの期間、そうしていたのかはもうわからない。
外の世界は、わたしがいなくなってからどれほどの年月が経っているのだろう。
知りたくもなかった。
天を見上げる。
廊下の天井に、黒い染みが広がっていた。
まるで死体に浮かび上がる斑紋のように。
健康な細胞に浸潤してゆく腫瘍のように。
そして、たくさんの白い腕が天井から生えてくる。
成長してゆく。
ねじれ、歪みながら。
てらてらとした油分に濡れ光る黒い髪が、ずるりと伸びる。その先端から、薄く濁った黄褐色の液体が滴り落ち、生臭さと甘酸っぱさが混じり合った奇妙な匂いが漂っている。
…………■…………■…………■■…………
断続的に、恐らくは人の声と言えなくもない音がする。
まるで、すでに自分が致命的な放射能に被曝したことを告げるガイガー=ミュラー計数管のクリック音にも似た、奇妙な呻きとも喘ぎともつかぬ声。
もう手遅れだという、宣告。
…………■■…………■…………■■…………
世界が、身じろぎをする。
この祟り場を形成する原理――あまりに巨大な陰気の質量が移動し、それに連動する形で、屋敷全体が重心変化に軋みを上げている。
そして。
羊水の海より浮上/憎悪の膿から顕現/怨念の澱にて堕胎。
かつてそれは、陰がありながらも整った女性の顔の形をしていたのだろう。
みしみしと、めりめりと、産道を引き裂くように、それは目の前に顔を出した。
真円に見開かれた目が、じっとこちらを見つめていた。まぶたが張り裂け、血を流しているにも関わらず、見開くことを決してやめようとしなかった――そんな眼。
眼球すべてに血管が絡みつき、逆さまの顔でこちらを見上げている/見下ろしている。
異様に小さな瞳が、半ば目蓋の中に消えている。
だらしなく開かれた口元からは、青黒く鬱血した舌が芋虫じみて垂れ下がっていた。
そして。
…………■…………■■…………■…………
おぞましい音の発生源。ひどく切れ味の悪い粗悪な刃物で、強引に切り裂かれたとおぼしき、見るも無残な傷口が、喉元にぱっくりと開いていた。
そこから腐った血がとめどもなく流れ出て、彼女の顔に凄まじい化粧を施してゆく。
…………■■…………■…………■■■…………■■…………■■■■…………■■■…………■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■…………
この世の一切合切を引き裂き引き千切り咀嚼し叩き潰し砕きバラバラにしてもなお満たされぬであろう怨念が、その瞳からは滴り落ちていた。
彼女はすべてを憎み切っている。
「……い……や……」
肉を引き裂く、胸の悪くなる音とともに、この屋敷の支配者――冴木恵子は天上から体を伸ばした。
無数の腕で、わたしを捕えようと。
「やだ……やだ……」
わたしはもう存在しない両手で、もう存在しない頭を抱えた。
ぶたれる直前の子供よりも無力だった。
待っているのは、ぶたれるより遥かに救いのない末路だけど。
「……こ、な……いで……!」
手が。
無数の白い手が。
わたしの全身に絡みつき、あっさりと、なんでもないことのように、わたしの両肩の関節を砕いた。
ごきり、と、音がした。
苦痛に抗える人間など存在しないということを、この時初めて思い知った。
すでに存在しないはずの両肩が、寒気を催すほどの重く鈍い痛みを炸裂させ、喉がひとりでに絶叫を放った。
たったそれだけで、〈金鵄〉陰陽師としての誇りも、勘解由小路家の跡取りとしての品格も、すべてが砕け散った。
痛すぎて吐き気がした。
惨めな命乞いが止まらなかった。ごめんなさい、ゆるして、ごえんなあい、ゆうひて――
「
底冷えのする声が、不意に耳朶を打った。
少年の声だった。
思わず両肩の絶望を忘れて息を呑むほどの、それは決して言ってはならない発言に思えた。
一瞬、自分に向けての言葉なのかと思って射竦んでしまうほどの、究極の侮蔑と悪意が煮溶かされた、音を媒体とした凶器だった。
「……どうせ本気じゃなかったんだろ、お前」
にちり、にちり、と血糊でぬめりを帯びた廊下を何者かが歩いてくる。
そちらを振り返る。両肩が耐えがたい痛みを帯びる。
だが、意味不明な寒気と恐怖に突き動かされるまま、声のした方を見る。
「本当に無念だったのなら、本当に憎かったのなら、お前をそんなにした仇の顔を忘れるはずがない。無駄な八つ当たりを繰り返すはずがない。歯を食いしばって、何を切り捨てることになろうとも、どんな犠牲を払おうとも、復讐対象のことを魂に刻むはずだ」
そこには、人体のパーツが浮いていた。
よく知る少年の生首と、視界に入れただけで甘い戦慄が駆け巡る生白い左腕が、何の支えもなく宙に浮いていた。
否、浮いているというより、それ以外の部分が目に見えなくなっていると言った方が正しい。
生首と左腕の真下では、血糊が足型に窪んでいる所があった。わずかな凹凸があった場所が、圧力を受けて均されている。
そこに、目に見えない素足があるのだ。そして、歩み寄っているのだ。
見えない脚と、見えない腰と、見えない胴と、見えない両肩に支えられた生首が――こちらを見透かすいたずらっぽい笑みを浮かべていた美しい顔が、今では嫌悪に歪んでいる。
「
ふっと、全身にまとわりついていたおぞましい腕の感触が、一瞬で消え失せた。
――■……■■……
びたん、と。
そんな音が聞こえてきそうな光景だった。
柳の枝葉じみてゆらめく無数の腕が、弧を描きながら少年に襲い掛かり――しかしその途中で目に見えない何かに動きを阻まれている。
そこにはっきりとした障害物があるわけではない。
そうではなく、まるで磁石の同じ極が反発し合うように、冴木恵子の侵攻を押しとどめているのだ。
「上下にしか動けないだろ? お前がこの連星系の重心だからな。一度定義づけられた宿曜の力を覆すのは、力ずくじゃ無理だよ」
彼は――辰巳くんは、いつの間にか掌の上に式盤を出現させていた。
円形の天盤の上に、この屋敷のミニチュアが置かれ、一定速度で回転している。
そして、彼が今語った「連星系」という言葉も併せてその装置を眺めると、ひとつの答えが浮かび上がってくる。
――BH-NS連星系。
2021年にレーザー干渉計「ライゴ」とマイケルソン干渉計「ヴィルゴ」によって、ブラックホールと中性子星の合体を意味する重力波が観測された。
この事実は、かつて宇宙にブラックホールと中性子星の相互作用による安定した連星系が存在していたことを意味している。
辰巳くんは、この屋敷の敷地を、BH-NS連星系に見立てた共感呪術に絡め取っているのだ。
「巨大な呪的質量であるお前をブラックホールと見なし、それよりは小さな呪的質量を敷地内の適当な場所に設置する。しかるのちにそれらと共感呪術的関係にある小物をミニチュアの屋敷の同じ場所に配置し――式神によって天盤を回転させた」
天盤とは、本来は方位磁針が仕込まれ、常に同じ方角を向くことが存在意義となっている呪術装置だ。決して回転しないはずのものを強引に回転させることによって、逆説的に「回転しているのは地盤のほうである」という概念を世界に押し付けた。
結果、この屋敷を取り巻く呪的位相が公転運動を始めたのだ。
「星系の回転座標系の秩序に絡め取られたお前は、もうそこから動けない。――決して、絶対に、逃がさない」
二人で屋敷を出ようとした時、体が右方向に押し付けられて前進できなかった理由が、やっと腑に落ちた。
BH-NS連星系の引力と遠心力による複雑な秩序は、星系の公転軌道上に重力の吹き溜まりと呼ぶべき領域を五つ形成していたはず。
すなわち、呪的ラグランジュポイント。
三体問題の平衡解。
巨大な仮想質量の回転によって発生したコリオリの力が、わたしの脱出を阻んでいたのだ。あれは高度な結界咒法でも何でもなく、ただ「自分は公転している」という前提に立ちさえすれば不可解なことなど何もない自明の理だったのだ。
その発想に至り、実行に移す、この少年の規格外さを除けば。
瞬間、気温が明確に下がった。
「……ひっ……」
喉が窄まり、情けない悲鳴が出る。
それほどまでに、冴木恵子が浮かべた表情は凄まじかった。
笑っている。
相好を崩し、口の端が上向き、穏やかに目を細めている。
真横に切り裂かれた喉笛が血泡を吹き、耳を塞ぎたくなる異様な音が断続する。彼女は少しずつ首を傾げ、傾げ、傾げ、傾げ傾げ傾げ傾げ、常人では決してあり得ない角度にまで首を曲げる。曲げながら、汚物の溜まった排水口のような音を立てて笑う。笑う。
――その顔面に、生白い拳がめり込んだ。
衝撃のあまり冴木恵子の両眼球が飛び出し、鼻骨が砕け散る音が肉の中でくぐもって反響する。
拳はそのまま彼女の頭蓋を見えない壁――呪術的な斥力の境界面に叩きつけ、さらに数センチ深くめり込んだのち、顔面を完全に破壊しながら殴り抜けた。折れた歯が四散し、血飛沫が飛び散る。
わたしは、呼吸が一瞬、できなくなった。
決してあり得ない現象が目の前で起きたのだから。
当の冴木恵子すらも、困惑と苦痛で、飛び出た目を白黒させている。
絶対に不可能なはずなのだ。
生きた人間が、素手で怨霊に触れるなど。
霊は生者に触れられるし、自在に危害を加えられるが、その逆は決して起こらない。一方通行の加害こそが例外なき前提。
だからこそ怨霊は脅威なのだ。
「ああ、ごめんね、僕、顔芸やってりゃ八つ当たりで人殺しても赦されると思ってる甘ったれたゴミカスを見たら即、殴ることにしてるんだ、ほんとごめんね、痛かった? ねえ、痛かった?」
そう語る辰巳くんは――泣いていた。
こらえきれない痛みに顔を歪め、はらはらと透明な雫が頬を伝っている。
それがどういう感情なのか、まるで理解できなかった。
――■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!
無数の白い手が少年に掴みかかり――直後にことごとく弾き飛ばされる。大気が破裂する音が事後承諾めいて連続した。浮遊して見える左腕が目まぐるしく動き、速度に霞んでいる。
無数の激突の反動を逃すべく、辰巳くんが擦過音を立てて後ずさった。頭と左腕しか見えないのでわかりづらいが、踏ん張ってブレーキを効かせているようだ。
直後――ずむ、と屋敷を震撼させる踏み込み。瞬間、彼の全身が薄闇の中で浮かび上がった。
恐らくは漢文形式で書かれた何らかの文章が薄く発光したのだ。それらは辰巳くんの痩身にびっしりと書き込まれており、舞い散る落ち葉が風の形を浮き彫りにするさまにも似て、少年の身体を視認させている。
間合いが瞬時に詰まり――遠慮仮借なく全体重を乗せた前蹴りが、怨霊のみぞおちを貫いた。ごきりと胸骨が砕け散る音。
冴木恵子は例によって斥力の境界面に阻まれ、「吹っ飛ぶことで衝撃を逃がす」という最低限の自衛すら不可能なまま崩れ落ちる。
「う……ぐ……」
何故か呻きながら、少年は軽やかに右足を引っ込め――シームレスに右踵を振り上げる。
「やめ」
なさいという制止すら間に合わず、冴木恵子の後頭部に、油圧式杭打機を思わせる踵落としが、恐ろしく滑らかに叩き込まれた。
ぐしゃりと聞くに堪えない音が響き渡り、着弾点を中心に血と脳髄が放射状に広がる。
わたしは。
立ち上がっていました。
いえ、すでに脚はないのでその表現はいささか正確ではありませんが、とにかく気持ちの上では立ち上がっていました。
――鎧なんか脱いで、本当の自分をさらけ出して。
俗世で流行しているコンテンツは、皆そのようなテーマを謳っています。無意識下にある本当の自分だけが真理であり、本物であり、人に合わせて取り繕ったうわべはスカスカの偽物にすぎないという思想。
しかし、「ありのままの自分」なんてものを全肯定していては、動物さんか赤ちゃんと何も変わりません。
人間を気高く人間たらしめるものは、「取り繕ったうわべ」にこそあるのだと、わたしは思うのです。
現に、いま、わたしは〈金鵄〉陰陽師としての鎧を再び取り繕い、規律で自我を縛ることで、やっと苦痛に耐え、意味のある
死んだ我が身を嘆くのは後でいい。
辰巳くんを止めなくてはなりません。
なぜなら、彼の行いは完全に無意味。
どうして霊に触れられるのかわかりませんが、暴力でいくら怨霊を打ちのめそうと、事態の解決には決して至らないのです。
霊体をどれほど破壊しても、すぐに彼らは再生します。そもそも負傷や回復という理の外にいる存在なのです。
そして、謂れなき悪意と苦痛を受けたことで、怨念はさらに増し、その力は際限なく増してゆくばかり。
彼らの脅威をなくすには、彼らを救うより他にないのです。
「辰巳くん、あなたが何にそこまで苦しんだのかはわかりません。わかるよなんて言うことはできない。でも、怨霊とて人間です。最低限の敬意は払われるべきなんです」
言う。
目の前の少年にも、冴木恵子さんにも、もう罪を重ねて欲しくないのです。
「――相手が、人間だから、敬意を払うべき……?」
良く咀嚼して、なんとか理解しようとすべく、辰巳くんはわたしの言葉を繰り返しました。
「彼らを赦せとは言いません。しかし、あえて言いますよ、自分でもどうかと思いますけれども、でも今までたくさんの怨霊たちを鎮めてきて、どうしてもこの真理からは目を逸らすことはできませんでした。人がどれほど否定しようとも、わたしは胸を張って言わせていただきます」
気持ちの上で息を吸い、万感を込めて。
「――
辰巳くんは、眉目に滴る邪悪な色香を、ほんのわずかに緩めました。
「ずいぶん、はっきり言うんですね、おねーさん」
「きっと多くの人が反感を覚える言葉なのはわかっています。あの、よく知りませんけど、『これもグロリアの分だ』とか言ってる画像を引用リプに張られちゃうんですよね? 知ってるんですからね、わたし」
彼は目を細め、苦笑してくれました。
「確かにまぁ、僕もSNSで何の覚悟もなく吐かれる浅薄な復讐肯定論って反吐が出るほど嫌いですよ。そいつらはどいつもこいつも本当に復讐を実行する意志力なんて微塵もないに決まってます」
そう断言したものでもないと思いますが、確かにほとんどはそうなることでしょう。
意外に自分の言葉が受け入れられたことに、わたしは気をよくします。
「ならば、これ以上冴木恵子さんに暴力を振るうのはおやめなさい。それは無意味であるだけでなく、有害な行いです。彼女の尊厳を守り、粛々と黄泉路へ導くべきです」
「あぁ、殴れば殴るほど怨霊って強くなるんですよね。よく知ってますよ」
軽やかな足取りでわたしの横を通り過ぎる辰巳くん。あまりに気負わない所作だったので、一瞬止めることに思い当たりませんでした。
少年は、弾むようなステップで踏み込み、頭蓋を再構築している冴木恵子さんの腹部を、サッカーボールめいて、
……その音を、形容したり活字化したりすることを、わたしは拒否します。
およそこの世に鳴り響いてはならない音です。
「辰巳くんッ!!」
久しぶりに。
本当に久方ぶりに、声を荒げている自分に気づきます。
痙攣する女を足蹴にしながら、少年の顔は恐ろしく澄んでいました。
透明な雫が、完璧なカーブを描く頬を伝い落ちていきます。
「
「なにを……」
問いに応えることなく、辰巳くんはわたしから目を逸らしました。
「ごめんなさい、幸代せんせー。このおねーさんに手荒なことはしたくありません。お願いできない?」
どこか気安い口調。
「まぁ、しょうがあらしまへんなぁ」
不意に、手を掴まれました。
弾けるように振り向くと、定家緞子の着物を上品に着こなした老婦人がそこに立っていました。
わたしににっこりと微笑みかけています。その顔だけで、この方への敬意と親しみが自然と胸に備わってしまうほどの、格調高い莞爾の表情。
しかし、その身に横溢する陰気は、彼女が冴木恵子さんに勝るとも劣らぬ強大な怨霊であることを示唆しています。
なのに、その穏やかな表情はどうしたことでしょうか。周囲の空気を歪ませるほどの怨念を持ちながら、にこやかで理知的な物腰を保っていました。今まで見てきたどの怨霊ともタイプがまったく異なります。
なにより、わたしはこの女性を知っています。
「初めまして、お嬢はん。その様子やと、わたくしのことはご存じいただけているのかしら?」
はんなりと華やかな京言葉。
「――九条、幸代先生……」
平安時代に起源を持つ華道の大家、九条皇嘉門流の最後の家元だった人物。幼少のみぎり、一度だけお姿を遠目に拝見したことがあります。
瞬間、わたしはすとんと腰を下ろしてしまいました。
「え……」
まるで九条先生に腕の関節を捩じられ、どうにも動けなくなったかのようです。
しかし痛みなどなく、なぜ自分がここで正座姿になっているのか、合理的な理由がどうしても思い浮かびません。
「花を拝見しはる時は、床の間から畳一帖隔てた場所にお座りなさい? そして一礼。花を生けた人と共に、神仏へも感謝を捧げるんどす」
すると、さしたる抵抗もなく、わたしは九条先生の言葉通りに折手礼をしていました。
「はい、お上手ねえ。頭から腰まで一直線で、とっても美しい座礼どす。きっときちんとした礼法を積まれたのでしょうね」
「こういうことは乳母からよく教わりましたので」
自分ではなんてことのない動きだったので、こうも褒めてもらえると少し照れてしまいます。
ではなくて。
「あの、九条先生、これは、」
「これから辰っちゃんがお花を活けますよって、お邪魔はいけませんよ?」
わたしと九条先生は、いつの間にか出現していた畳の上に正座していました。
動くことができません。なのに不快や不安が一切ないということに、わたしは最大限の警戒を働かせます。
彼女は理性を保つ怨霊なのでしょうか。
そんなものが存在しうるのでしょうか。
気が付くと、辰巳くんと冴木恵子さんを取り囲む形で、大小さまざまな陰気の塊がその場に出現していました。
ほとんどの者は人魂にも似たエネルギー塊で、一部は九条先生と同じく人型を保っています。
そして――彼らは一様に、これから起こることへの期待を露わにしています。
これほど大量の怨霊が、今までどこに隠れていたのか――
その疑問の答えを、わたしの〈羽化登極〉が敏感に察知します。
糸。
唐突に現れた大量の怨霊たちは、全員がその身から霊体の糸を伸ばしていました。怨霊本体に比べれば存在感が薄く、よくよく目を凝らさなければ見ることはできませんが、そこに確実に存在しています。
それらはすべて、辰巳くんの
〈星霊葬〉、に近い咒なのでしょうか。
通常、この術式は、怨霊を術者の胸部に取り込むものです。必ずそうでなければならないわけではありませんが、普通にやったら大抵はそうなります。
体の末端部分に怨霊を取り込む例など聞いたこともありません。わざわざ感覚に反してまでそのようなことをする理由がないからです。
――どこか、禍々しい意図を感じました。
辰巳くんは胸を逸らし、腕を拡げます。
すると、透明になっている彼の胸の中心、心臓のあたりからぼんやりとした陰気があふれ出し、渦巻き、やがて一人の幼い子供の姿を形作ります。
小学校中学年くらいの、少年の怨霊。
だけど――その惨たらしいさまを、なんと形容すればいいのか。
わたしは思わず顔を背けてしまいました。
その子は、元々どんな顔をしていたのかもわからないほど殴り続けられ、青黒く腫れ上がり、人間大にまで培養した癌細胞を思わせるありさま。
両耳は引き千切られ、鼻は切断され、性器は叩き潰され、両手両足の爪は残らず引き剝がされ、とどめに両の目蓋が刃物で切除されていました。
どこかから、弱々しい猫の鳴き声がします。それが、現れた少年の喉から発せられていることにはすぐに気づきました。
辰巳くんは、その頭髪を乱暴につかみ、強引に少年の顔を自分の方に向けさせました。
「――おい、ゴミ」
その声色だけで吐き気を催してくるほどの、最も醜悪な情念を煮凝らせた口調。
「なんのために舌と頬と喉と唇を無事に残してやったと思っている? 人の言葉を喋れ。お前の母親に助けを求めろ」
絞殺される赤ん坊の悲鳴を上げて、少年は辰巳くんから距離を取ろうとします。
怨霊であったはずです。恨みの化身であったはずです。しかし今はもう怯え切った、普通の子供にしか見えませんでした。
「人の」
その顔を、辰巳くんは膝にごきんと叩きつけます。
「言葉を」
ごきん。
「しゃべれって」
ごきん。
「言ってんだけど」
ごきん。
頭蓋がおかしな形に歪み、痙攣のまま血と乳歯を吐き出しています。
周囲の怨霊たちは、その様を見て明らかに喜色を浮かべていました。騒々しく明滅し、仲間たちと円転したり、囃し立てるように陰気の
今すぐに立ち上がって辰巳くんを止めねばなりません。しかし、
絶対に、止めなければならないのに。
放っておけば、相手が怨霊だからなんて理由では到底正当化され得ない、人間存在そのものへの根源的な冒涜が繰り広げられる。
その確信があったのに。どうしても、解呪の祝詞をいくら唱えようと、わたしの
「みぃんな、気持ちは同じどす」
九条先生は、波千鳥の柄の扇子を口元に当て、目を細めていました。
「辰っちゃんの左腕に居候させてもろてるのは、誓いの証どすえ? わたくしたちは全員、誰かもわからん怨霊に理不尽に祟り殺された身の上どす」
柔和な微笑を目尻に残したまま、老婦人は涙を一筋流します。
「わたくしはもう精一杯生きた後どす、あきらめろと言うならあきらめもしますが、子や孫まで同じ憂き目に遭うて、泣き叫ぶあの子らの命が惨たらしく奪われてゆくのを、見ていることしかできませんでした」
そっと目尻を拭うその所作からも、荒々しさや粗忽さは一切なく、匂い立つ気品がありました。
「辰っちゃんはね、そんな、無念のまま消えるしかなかったわたくしらを救ってくれたんどす」
ごきん、ごきん、と耳を塞ぎたくなる音はいまだに続いています。
「だからね、わたくしらみんなで話し合って決めたの。
茶目っ気たっぷりに舌先をぺろりと出す九条先生。
ちょっとしたいたずらを咎められた童女のたたずまい。
「……んー……」
ふと、加害を意味する音が止まっています。
辰巳くんの方を見ると、男の子への暴力行為を中断し、眉をしかめて小首をかしげています。
「なんっか、違うな……吐き気と絶望が弱い……」
よく意味の分からない言葉。
やがて横に向き直ると、ジト目になって怨霊の一人を睨みつけます。
「
その視線の先には――奈落がありました。
どことも知れない深みへと続く穴。
そのような印象を抱いてしまったのは、
「おや、すみませんねえ、
飄げた仕草で自分の頭に拳骨をくれていました。
のそりと身をもたげたその佇まいは、漆黒の大蛇を思わせます。闇色の僧綱襟と袍に、血を思わせる赤い五条袈裟。
明らかな僧形ですが、何故か烏帽子をかぶっているのが奇妙です。
からん、ころん、と下駄を鳴らし、辰巳くんに近づいてゆきます。
体の輪郭の可視光が歪み、まるで周囲の世界そのものが男を避けようとしているかに見えました。
「どうにも最近、回路の摩耗が早くていけませんや。どれ、失礼して」
懐から筆を取り出し、妖しく光る塗料で辰巳くんの肉体になにごとかを書きつけてゆきます。
「芳一に同じことした時も、耳だけ見逃すとか言うしょうもないミスをしてるけどさ、わざとやってんの?」
「まさか、まさか! 怖い顔はおよしになってくださいよぉ、ただひたすらに小衲のうっかりさんでございます、本当ですよ?」
芳一……耳なし芳一!?
「ただの怪談じゃないみたいなのよねぇ、あれ。わたくしたちにも辰っちゃんの体は見えないの」
九条先生が言います。
「なぜ……」
耳なし芳一を平家の怨霊から守るために、耳を除く全身に経文を書いた住職の名は、伝わっていません。
そのような人物の怨霊と、辰巳くんがどうやって接触し、協力関係を結んだのか――そういう意味での「なぜ」だったのですが、
「第一に、怨霊から体を見えなくして戦いやすくするため。第二に、左腕だけじゃなく、全身で怨霊に触れられるようにするため。第三に――怨霊と、感覚を接続するためどす」
怨霊と、感覚を、接続……?
「辰っちゃんはね、怨霊を
少し悲し気な九条先生の言葉に、わたしは――理解不能な精神のありさまに、鳥肌が立つのを感じていました。
では、今まで冴木恵子さんや、その息子さんに惨たらしい暴行を加えてきた時も、すべて同じ痛みと苦しみを味わっていたと言うのでしょうか。
そんなことがありうるはずがない。そんな状況で、あそこまで躊躇なく暴力を振るえるはずがない。
人間が、苦痛に勝てるはずがないのです。
「うむ、終わりましたぞ、坊。同調率ひゃくぱー、でございますよって、安心して打擲を続けられませい。でも――」
「――今回、ご指摘が遅くはありませんでしたかな?」
「何が言いたいの」
「べっつに? ただ、もし坊がわずかでも苦痛から逃れたくて、気付かぬふりをしておられたのなら――手前ェのはらわた食い千切って魂啜ってやるよ、糞餓鬼」
「お前がそう判断したんなら物も言わずやれば? 無駄なやり取りで僕の時間を浪費させるな。息が臭いんだよ」
次の、瞬間、
めきめき、とおぞましい音がして、
「人を、呪わば、穴、二つ」
骨が、軋む音。
子猫の絶叫。
辰巳くんが、少年の怨霊の口に、金属製の何かを突っ込んでいます。その器具には、辰巳くんの体に刻まれている経文と同じものがびっしりと書き込まれていました。遠目にはドライバーか何かかと思えるのですが、いずれにせよ愉快なものであるはずもありません。
「人を、呪わば、穴、二つ」
その言葉を、一体誰が最初に言い出したのか、確たる記録は残っていません。他者に危害を加えれば、その因果は帰ってきて、やがて自分自身を害するという思想。
気づけば、辰巳くんの口の端から、どす黒い血が垂れ始めています。
「これからお前の歯と歯肉の間に梃子を突っ込んで、顎骨から脱臼させる。我慢しなくていいぞ。僕も我慢しない」
そして、全身の力を込めて、何のためらいもなく。
ごきり。
二つの絶叫が轟き渡り、
激痛のあまり、辰巳くんは身を震わせ、嘔吐しました。
「――
目の毛細血管が、あまりの苦痛に結膜下出血を起こし、白いはずの眼球が赤く染まっています。血涙が滂沱と流れています。
爛爛と、血眼を輝かせながら。
「お前が人の言葉を喋らない限り、同じことを何度でも繰り返す。歯を全部抜き終わったら、今度はケツの穴に金具突っ込んでまともなクソができない体にしてやる」
なのに表情は、春の日差しを思わせるほど暖かく笑っているのです。
「心配するな、永遠に付き合ってやる。同じ苦しみを分かち合うんだ。ともだちになろうよ」
まばゆい地獄の太陽が、燦燦と、燦燦と、少年の怨霊を優しく照らしているのです。
その情景を前に、
怨念はついに、圧し折れました。
「お……ぁ……あ……」
「うん、なんだい? 言ってごらん?」
「お……ぁぁ……ざん……」
「うん、頑張れ、もっと大きな声で!」
「おか、あ、さん! おかあさん! た、ひゅ、け、てぇ!!」
怨念を、かなぐり捨て、
「はいよくできました」
辰巳くんは間髪入れずに少年の眼窩にドライバーの先端を叩き込み、柄の先端を思い切り殴りつけました。
「げぅ……お、ぇ……」
限界まで目を見開いたまま、再びの嘔吐。
「お、い、聞いてるか? ゴミ? お前のガキ、助け求めてんぞ? 母親として思う所はないわけ?」
血と涙と吐瀉物を撒き散らしながら、辰巳くんは凄艶な笑みを浮かべます。穢らわしく、忌まわしく、あまりに美しい笑顔を。
瞬間。
羊水と血の泡が沸騰し、沸き立つ悪臭が、液体と錯覚するほどまでに濃厚になったのです。
今まで彼女が宿していた怨念など比較にならない、憎悪の炎。それが大輪を咲かせ、ゆっくりと起き上がるその姿を無慈悲に照らし出すのです。
――あ゙、あ゙、い゙、い゙、い゙……
切り裂かれ、発声器官としての用をなさない喉が、それでも極限を越えた恨みを燃やして、言葉を発そうとしていました。
――ど、じ、お゙、ど、じ、お゙!!
その、瞬間。
表情だけは穏やかだった辰巳くんの秀麗な頬に、哀しみが浮かんだのでした。
「九条先生、わたしを離してください」
「ダメ。ここで一緒にお茶でも飲みながら
血泡を吐き散らしながら、巨大な白い花が咲き誇りました。
冴木恵子さんが、白い腕を全方位に伸ばしたのです。
呪的連星系の重心点として捕らえられた彼女が、抜け出すために知恵を働かせたのでしょう。
要は重心点さえ変わらなければいいのです。多腕をあらゆる方向に伸ばすことにより、重心を動かさぬまま腕力を行使できるはず。
そして、腕の中の一本が、
式盤を。
この屋敷をBH-NS連星系として定義づけていた器物が、一撃のもとに破壊されたのです。
――彼女は、怨霊として、恐怖の象徴たる根拠を失いました。
まずいことになりました。
「九条先生、辰巳くんのことを想うなら、彼を止めてあげてください。あなた自身の怨念よりも、辰巳くんを優先してあげてください」
わたしの必死の訴えに、老婦人は少し眉尻を下げます。
「何が辰っちゃんのためになるのかは、あなたが決めることではないのよ」
それはわかっています。わたし自身も、自分の主張の欺瞞を自覚せずにはいられません。
辰巳くんのため、などと。よくもそんなことを。
わたしはただ、これから繰り広げられるであろう光景を見たくないために、九条先生を責めているに過ぎません。
怨念の絶叫を上げながら、すでに人としての形すら失った冴木恵子さんが辰巳くんへと襲い掛かります。
おまえ、とか、よくも、とか。
そのような人語を喋っています。
怨霊とは理不尽であり、対話不可能であるからこそ恐怖の根源足り得るのです。
理性も損得勘定もない、
それが、剥ぎ取られました。
憎悪によって。愛によって。
彼女にただひとつだけ残っていた、尊いもの。
我が子への愛。
それを端緒として、辰巳くんは彼女の超越性を剥ぎ取ったのです。
「あの人は辰巳くんの恩師です。このまま放っておいていいのですか? 辰巳くんに恩人殺しをさせるつもりなのですか? 答えてください!」
わたしは、九条先生と
ひとりは精悍な眉目の豪放磊落な男性。
ひとりは全身に切り傷の痕がある老人。
ひとりは煙草をくゆらせる白衣の青年。
いずれも九条先生と同格の強大な怨霊たちです。恐らくは
白衣の青年は、くだらないものを見る目で視線をめぐらせただけでした。
傷跡の老人は、痛みに耐えるかに目を閉じたきり、何も答えてくれません。
精悍な男性だけが、太い指でごりごりと頭を搔きながら答えてくれました。
「辰坊が児童養護施設であの女の献身的なサポートを受けていたことは知っている。それで辰坊がどれほど救われたかもな」
「なら……」
巨きな手が、背後を指し示します。
死蝋化した、おびただしい数の死体を。
「この光景がすべてだ。辰坊が憎んでいるのは、あの女じゃない。怨霊と言う現象すべてだ」
「彼ら彼女らは人間です。現象なんかじゃない。敬意を欠いた接し方は事態を何も好転させません」
「あんたら陰陽師はすぐそれだよ。敬意を持って祀れば、凶暴な
太い眉をしかめ、かぶりをふります。
「――それが人間に対する態度か?」
「なにを……」
「怨霊を人間扱いすると言うのなら、まずやったことの責任を取らせるべきじゃないのか。同じ権利を認めると言うのなら、同じ義務を負わせるべきじゃないのか」
――
辰巳くんの言葉の意味が、やっと腑に落ちて、わたしは喉がきゅうと鳴るのを止められませんでした。
怨霊は祟るものであり、大地震や新型コロナに怒ってもまったく無意味なのと同じく、怨霊を怒っても無意味である。そんな無意味なことをしている暇があったら敬意を持って彼らを祀り、和魂として役に立ってもらうべきだ。
我々陰陽師の大義は確かに実利的ではありますが、明らかにひとつの欺瞞を孕んでいます。
――怨霊とて人。人には敬意を持って接するべきである。
相手がどれほど凶悪な罪を重ね続けても、委細関係なくニコニコしながらうやうやしく跪くというのは、本当に人が人に対して取るべき自然な対応でしょうか?
わたしたちは、〈金鵄〉は、途轍もない自己矛盾を放置したままここまで来てしまったのではないでしょうか?
確かに彼らの言うことには一定の筋が通っているのかもしれません。
ですが。
「――辰巳くんが、泣いているのです。あなたたちは何度、怨霊を壊してきましたか? それらのうち、彼が涙を流したことはありましたか?」
彼らの、辰巳くんを想う気持ちを、もう少し信じて見たかったのです。
だて、ほら。
彼の顔は、肉体的苦痛よりももっと耐えがたい何かをこらえているように見えるから。
「ねえ、恵子せんせー。覚えてる? 僕がこの子より小さかった時、よく悪夢を見て、毎日眠れなかったこと、あったよね」
子供を後ろから抱きすくめ、その喉元にマイナスドライバーを突き付けながら、辰巳くんは泣いていました。
「僕ね、せんせーが夜遅くまで僕についててくれたこと、ずっと忘れないよ。本当に、僕はあれで救われたんだ。せんせーが一晩中絵本を読んでくれなかったら、きっと僕の心は砕けてたと思う」
ふわりと微笑む。
「ねえ、この子に対して、あれと同じかそれ以上の愛情、注いであげてた? この子を守るためなら、命を捨てても惜しくはない?」
――とし、お、を、はな、せ……
凄まじい憎悪の視線が辰巳くんを貫きます。
「おい、質問してんだろ。答えろよ。キチガイのフリして会話から逃げてんじゃねえ」
ぱき、と。
男の子の怨霊の、細い小指が、おぞましい気軽さでへし折られました。
絶叫。
たすけて、おかあさん、たすけて。
そればかりを繰り返します。
「次に質問の答え以外の雑音を吐いて見ろ、テメェのガキの顎を外して喉元まで引き裂いてやる。とっとと答えろよ、八つ当たりしか能のないお前らと違って僕は忙しいんだ」
人の言葉を喋れ、と。
荒魂としての根拠を捨てろ、と。
仮借も容赦もなく強要するのです。
ふと、わたしはあることに気づきます。
いつの間にか、辰巳くんの頭に、牛の頭骨を模した仮面が張り付いていたのです。艶を帯びた暗灰色の奇妙な材質に、随所から棘が伸びる禍々しい意匠。
互い違いに噛み合わされた歯は、草をすり潰す臼歯ではなく、明らかに獲物を噛み殺すための鋭い牙になっていました。
そして――その眼窩には、今も濡れた眼球が収まっていたのです。瞳孔が縦に裂けた、捕食者の眼が。
しばしの沈黙。
やがて。
「愛して、いる。敏夫のためなら、命なんて惜しくなかった」
ややたどたどしいながら、冴木恵子さんは明瞭な日本語を発しました。
この瞬間、対話不可能な憎悪の化身としての怨霊は消え去り、ただの人間の霊だけが残ったのです。
「そう。大切だったんだね」
辰巳くんは、少し悲し気に、でもほっとした顔で微笑みます。
「……昔から、わかるんだ、そういうの。顔を見れば、その人が何を求め、何を憎み、何を考えているのかが、なんとなくね」
目を細めながら、捕えている男の子の怨霊を見下ろします。
「恵子せんせーは、ウソを言ってない。この子が危ない時は、きっと我が身を顧みず助けに行くんだろうね。わかった、信じるよ」
「じゃあ、敏夫を返せ!」
「うん、いいよ。ほら」
腕を解き、男の子を解放します。
おかあさん、と泣きじゃくりながら、無惨に傷ついた怨霊は、今やこの世で唯一心を許せる存在へと駆け寄っていきます。
ああ、としお、と目尻に雫を浮かべながら、冴木恵子さんは両手を広げ、我が子を迎え入れようとします。
二人の間に割って入ろうとする者などおらず、傷つき疲れ果てた孤独な母子は、お互いを抱きしめ合ったのです。
――後になって思い出しても、この瞬間の二人の愛情は、間違いなく本物でした。
――それだけは、天神地祇に誓って断言します。
――それだけは、彼ら親子の名誉にかけて明言します。
「あ……あ……?」
様子が、妙でした。
冴木親子の白い体表に、無数の発疹ができていました。
「
「ああ……なに、これは……」
「いたい……いたい……いたいいたいいたい!」
白い肌の上に、おぞましいほど黒い水疱や膿疱が次々と現れます。
「
鼻孔と口から真っ赤な血が溢れ、発疹が弾けて膿汁を垂れ流します。
「としお……としお……!」
想像を絶する苦悶と恐怖から、この世ならざる親子は寄り添って泣き叫ぶことしかできません。
「
辰巳くんのこめかみに張り付く牛の頭骨が、カタカタと鳴りながら冷酷な光を湛えた眼で二人を見ています。
怨霊親子は、異様な発熱と皮膚が壊死してゆく激痛に、もはや言葉を発することもできず、獣の絶叫を上げるばかり。
「
血の混じった嘔吐が二人の身を汚し、正視に堪えない凄惨な病状が繰り広げられます。
知識だけはありました。だけど、ここまで惨たらしい症状を招く病であるなどと、私は今まで想像することすらありませんでした。
――天然痘。
かつて最も多くの人々の命を奪った、伝説的な悪疫のひとつ。
人類が唯一根絶に成功した悪夢。
「あ、が、ああ、あああああああ!!」
「ガキにあらかじめ潜伏させておいた。
げらげらと嗤いながら、悶え苦しむ二人を指差します。
「ぎざま゙、ぎざま゙……ッッ! よ゙ぐも゙、よ゙ぐも゙ぉ゙……ご、ぇ゙……!」
息子さんの方は、もはや苦痛のあまり痙攣することしかできないようです。
「あないみじきかな、
袍の袖口で目元を拭いながら、
しかし、その目尻と口の端は邪悪に歪み、彼が辰巳くんではない何かを奉じていることは明らかです。
――天刑星。
古代中国の占星術や道教に端を発する星神であったと記憶しています。その名の通り、「刑罰」や「制裁」を象徴する宿曜のひとつですが、人格神としての性格を帯び始めたのは日本に伝わって以降のことです。
しかし概念上の星であり、特に現実のどの星に対応したものでもないため、現代の陰陽道においてはほぼ忘れ去られた存在です。
そして――疫病の神たる牛頭天王と習合しています。
「苦しいか? あ? 苦しいよな、わかるよ、伝わってくるからさ」
慈母のごとき微笑みのまま、辰巳くんは二人に歩み寄ります。
「助かりたい? ねえ、助かりたい?」
その猫撫で声を聞いた瞬間、わたしは何としても立ち上がり、彼の行いを止めなければならないことを確信しました。
それが叶わぬのなら、せめて目を逸らし、耳を塞ぎたかった。
だけど、どちらもできなかったのです。わたしの
「やめて、辰巳くん……」
ただ、無力な繰り言を垂れ流すことしかできない。
今日この時ほど、自分を憎んだことはありません。
「たとえどんな罪を犯しても、たとえどれほど多くの人々の命と尊厳を踏みにじっていたとしても、その親子の胸にたった一つ残った暖かいものを踏みにじっていい理由にはならないんです」
「それは違いますよ、おねーさん」
思いがけず帰ってきた返答に、肩が震えました。心の底から、わたしはこの少年に恐怖していました。
「『目には目を』式の報復律が社会不安しか招かないことぐらいわかってます。僕たちのやっていることは正しくなんかない。でもね、そんなことどうでもいいんですよ。僕は世直しがしたいわけじゃないんだ」
振り向いて、艶やかな笑みを浮かべます。女としての恐怖と恍惚を呼び覚ます、あの笑みを。
「ただ、赦せないだけです。無関係の人間を祟り殺しておいて、いざ鎮められたら被害者面をしたまま勧請されてゆき安楽を得る、そんな
そして二人の方に向き直り、蕩けるほどの柔らかな口調で言いました。
「病を癒すこともまた、天刑星の権能の範疇だ。わかるか? 僕なら一瞬でお前らを治してやれる。だから、なぁ――」
やめて。
お願い。
「お前ら、殺し合えよ。勝ったほうだけ助けてやる」
結論を言うなら、その約束さえ守られませんでした。
●
〈泰山府君祭〉、というものがあります。
冥界の支配者たる泰山府君を祀り、死者の帳簿から任意の名を削ってもらおうと言う祭事です。
主に皇室の方々の健康長寿を祈願するために執り行われてきました。
ところが実際のところ、明治以降のすめらみことのお歴々は異常な長寿だったということもなく、ごく常識的な御年齢で崩御されています。
それもそのはず、〈泰山府君祭〉は陰陽道の中でも奥義に属するものであり、執り行えるほどの力量を持つ陰陽師は、
――それゆえに、わたしは
わたしが生きて〈瑞雲楼〉に戻ってきた時の混乱と騒ぎは、ひとまず置いておきます。
〈金鵄〉において、わたしはすでに死んだものとして扱われていた模様で、すでに勘解由小路家は事実上の断絶という扱いになっていました。
おじいさまは変わらず〈金鵄〉の長として励んでおられましたが、その後継者は賀茂朝臣氏の庶流である幸徳井家の当主に決定していたのです。
そこはまぁ、おじいさまにはとても申し訳ない限りなのですが、正直なところむしろ都合がいいとすら思っていましたので、わたしは特に継承権を主張することもなく辞退し、〈金鵄〉の客員待遇陰陽師として引き続き荒魂を鎮める任務に従事していました。
そんなことより、です。
「――何を、代償に差し出したのですか?」
辰巳くんの住所を特定するのに、ずいぶんかかってしまいました。
〈鴉天狗〉たちに協力を仰ぐわけにもいかなかったので、しょうがないことではありますが。
どうしても彼に聞かねばならないことがあったのです。
「うわっ」
わたしが声をかけると、辰巳くんは飛び上がって驚き、こちらを見ては目を見開き、すぐに後ろを向いてしまいました。
「……すいません、お洋服、すごくお似合いですね。はは、ちょっと照れちゃうな。目を合わせる覚悟を決めるのに少し待ってもらえますか?」
確かに今わたしはセミフォーマルなアフタヌーンドレスを身に纏い、ヘアメイクもお化粧もばっちり決めています。
そんな、直視するのに勇気がいるなんて。胸が他愛もなく華やいでしまいました。
自制、自制です。これが彼のいつものやり口なのです。
「し、質問に、答えてくださいっ! 死者蘇生などという大儀式、いくら
「あぁ、気付いたんですか。さすがですね」
彼はわずらわしげに髪をかき上げ、頭を掻きました。仕草は粗雑なのに、伏せられた目元と相まって、充血した食虫植物にも似た、禍々しくも妖しい佇まい。
「問題ありませんよ、大したことでもないし」
「はぐらかすということは、大したことなんですね」
ふぅ、と血圧の低そうな吐息をひとつ。
どうやら答えを聞くまでわたしの追及が終わりそうにないことに気づいたみたいです。
「いいえ、まったく問題はないんですよ。どのみち長生きなんてする気もないですし」
その言葉が持つ意味を察し、わたしは思わず意識が遠くなってしまいました。
「何を考えているんですか!? わたしが天寿を全うするまでにあと何十年あったと思っているのです!?」
「だから僕はおねーさんを蘇らせるために、代償として何十年かの寿命を泰山府君に捧げたんですよ。なにかおかしいですか?」
「どうして!」
辰巳くんは、アームカバーに包まれた左腕を示します。
「僕には〈星霊葬〉が二つあります」
本能的な畏れを感じ、わたしは一歩下がってしまいました。
「ひとつはこの左腕に宿る小世界。幸代せんせーに真吾せんせー、
柔らかく目を細め、左腕を見据える辰巳くん。
眩しいものを見るように。
自分の体で価値があるのはそこだけだと言うように。
「もうひとつは、ここ。心臓に宿る〈星霊葬〉です。まぁ、肥溜めですね。
「冴木恵子さんと、敏夫くんも、そこにいるんですか」
「ええ、いますよ。親子の絆は完全に壊れました。会うたびに殺し合いながら、おまえがしね、おまえがしね、って罵り合うんでホント笑えますよ。どんだけ語彙力ないんだよ」
瘧のごとき震えを、止めることができません。
どうしてこの子は、怒りに我を忘れることなくそんなことができるのでしょう。
「でもね、そろそろ限界が近い。僕はおねーさんと違って、そんなに多くの怨霊を胸の内に封じておけるわけではないみたいです。大物をあと数人納めたら、
「なに、を……」
「左腕を切り落としてから自殺すると言ってるんですよ。あぁ、
この子は、本当に、何を言っているのでしょう。
自分でも名付けようのない感情が、涙となって頬を伝います。
「泣いたままでいいんで聞いてください。僕が死んで地獄に落ちれば、〈星霊葬〉に捕らえている
「そんなことをしても、世の中は何も変わりません。荒魂と化した怨霊は、剥き出しの人間性そのものです。人間が人間でいる限り、怨霊は生まれ続けます。その中の何人かを道連れにしたところで……」
「クズがクズい行いをしたことに対して、「剥き出しの人間性」なんてカッコイイ言葉で飾って美化するノリ、僕は嫌いですね」
辰巳くんはかぶりを振ります。
「まるであれが人間の本性みたいな言い方はやめてくださいよ。さすがに奴らが可哀想だ。だって、絶対安全な立場に身を置くことで良心のタガが外れただけの、自分が恨まれる側になり得るということを想像もできなかった白痴の集団ってことになるじゃないですか。たとえ思ってても言っちゃダメですよそんなこと」
からからと嘲笑し――ふいに表情を引っ込めます。
「大事なことです。僕が遺して逝くこの左腕を、祀ってもらえませんか」
「おことわりします」
わたしは両腰に手を置き、むん、と気合を入れて辰巳くんを見据えます。
「それはキミ自身の手でやりなさい。左腕の方々も、きっとそのほうが嬉しいはずです」
「それは無理だと……」
「わたしがそうさせます。泰山府君に捧げた寿命は、わたしが取り戻します」
「どうやっ……」
「方法なんてこれから考えます。とにかくもう決めました。暢気で楽天的とよく言われるわたしですが、さすがにキミに対してはおかんむりですよ」
挑戦の意を込めて、このおかしな少年をびしっと指差します。
「助けて貰えて、またこうして人として大地を踏みしめられて、祖父や友人らと再会できて、わたしがどれほどキミに感謝しているかわかりますか? わかりますよね? そして、ほんの小さな男の子に重大な代償を支払わせてしまった事実を前に、どういう気持ちになったかも。キミはそれがわかる子のはずです。わかりすぎるほどわかるはずです」
辰巳くんは目を逸らし、口をへの字に曲げています。
「面倒そうな顔をしない! こういう面倒な事態になるとわかってたのに、どうしてわたしを蘇らせたりしたんですか!」
「たったひとり怨霊の支配領域に取り残されたのに、眷属怨霊になることを頑として拒みつづけ、自分が死すると思っていながら躊躇なく狩衣を脱いで僕を助けようとした、気高く美しい心根の人には、報われて欲しいと思ったからです」
いやそんな、美しいだなんてそんなそんな、そこまでじゃないですよ、もう、困っちゃいますね、えへへ。
にやついてしまいそうな頬を抑えつけ、表情を引き締めます。
「……そんなに僕に褒められるのうれしいですか?」
ぜんぜん隠せてませんでした。顔押さえてうずくまりたいです。
こほん。
「とにかく! キミはまだ自分の人生に責任を負える歳ではありません。怨霊への復讐なんてやくざな生き方は改めていただきますし、寿命も元に戻します。ぜったいぜったい、そうします。これは宣戦布告と受け取ってくださいね!」
「ええ……」
目じりを下げて困り顔の辰巳くんは年相応の可愛げがあって、わたしはたいそう愉快な気持ちになりました。
もっと困れ!
「それと、あの、もうひとつ聞きたいことがあるのですが」
「なんですか」
わたしは改めて辰巳くんを見つめました。
見つめるというか、見上げました。
「……なんでわたし、子供の姿で蘇っているんでしょうか」
〈金鵄〉の継承者に関わるごたごたから、これほど早く抜け出せた理由が、わたしの姿でした。
どこからどう見ても幼稚園あたりの児童にしか見えず、当代屈指の陰陽師にして正五位の宮太夫、才色兼備のスーパーレディたる勘解由小路雪加であるということを、〈金鵄〉の方々に信じていただけなかったのです。
わたしの幼少期を知るおじいさまや乳母には身の証を立てることが叶いましたが、それだけではキャリアを再開するというわけにはいかなかったのでした。
密やかな自慢であった豊穣の
玉
「すいません、術式は完璧だったのですが、僕の呪力が大したことないせいで、不完全な復活になってしまいました。道満のせいということにしてくれませんか?」
困っている辰巳くんはたいへん可愛らしいので、どんどん困っていただきたいものです。
晴天のもと、葉桜が風に揺れ、道端の勿忘草がお辞儀をしています。
そよぐ前髪にくすぐられる彼の眉目が、不意にたまらなく幼く見え、わたしの裡にはひとつの決意が花開きました。
この、多くの欠落を抱えた男の子が、憎しみ以外の生きがいを見つけるまで、わたしはせいぜい付きまとっていくことにします。
気合を込めて、決意を誓約とし、胸に刻みます。
むんむん!
【完】
無関係な人間を祟り殺しておきながら最後まで被害者面のまま召されていった怨霊をどうしても赦せなかったので地獄に叩き落とすことにした 宿怨の天刑星 バール @beal
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