寒獄にて

コランダム

寒獄にて


 足の裏から伝わる、刺すような寒気。


 嫌な予感がした、次の瞬間には瞼が開いていた。

 四畳半ほどのコンクリート部屋に、赤黒く錆、腐りかけた鉄格子。無機質と束縛を具現化したような、狭苦しい空間。


 どうやら、また朝がやってくるらしい。

 ため息二回と数秒の微睡。

 もはや夢中に戻ることが叶わないと知り、おもむろに立ち上がった。


 腰から水滴が滴り落ち、ビチャビチャと不穏な音を立てる。

 その音には、聞き覚えがあった。音のする方に、床に目をやると、床上数センチの高さにまで、うっすらと水の層が張っていた。

 どうやら、今日も変わらず、<水没>がやってくるようだ。


 もう、何度目であろうか。


 事態を正しく認識した途端、体の奥底のほうから正体不明の不快感と恐怖が溢れ出てくる。


 気づいたときには小さく舌打ちをして、水面を軽く蹴り上げていた。

 が、結果は当然、多少の水滴が飛び散り、申し訳程度の波紋が水面に消えていっただけ。

 刹那の間で、その場に静寂が戻ってきた。途端に刺すような冷気が、体を蝕む。


 ……久しぶりに夢を見た。暖かな、光を発する何かに包まれるような夢。そして、そのせいで、それに少々長く浸りすぎたのだ。


 <水没>とは忘却の作業。色々と、不安定になった時に生じる現象。終わった頃には、全て忘れている。モヤがかかったように、忘れさせられる。



 時が止まったかのような間をしばらく体感した後、再度小さく舌打ちをして、壁にもたれかかるように座り込んだ。


 ……随分昔に、この牢獄に逃げてきた。それ以来、ずっとここにいる。

 何から逃げ出したのか、何故逃げ出したのか。とうに風化した、その疑問の答えを知る術は無い。この牢獄は全てを覆い隠す。


 それでいい。



「ああ……。御隣人、起きていらっしゃったのですね」



 座り込んで少しすると、壁の向こう側から妙に平坦な声が聞こえてきた。

 驚きはない。いつからそこにいたのか、誰が喋っているのか。そんな疑問も既に、頭を掠めることすらない。<水没>が近づくと、いつも唐突に聞こえてくる、無機質で、くぐもった声。


 幸い、この狭い部屋ではよく響いた。



「……すまない。少し、取り乱した」


「いえいえ。どうせ、こんな場所ですから」



 会話が途切れ、一瞬の内のみ、沈黙が部屋を支配する。しかしそのわずかな沈黙は霜となり、この空間を間断なく、迅速に凍てつかせた。



「今朝は一段と冷えますね」



 その霜を踏み割るように、再び壁の向こうから声が聞こえてくる。

 冷えるという言葉とは裏腹に、そこには一切の感情が感じられない。

 まるで他人事、自らは体験していないかのような声色であった。



「……そうだな」



 低く、短く同意をして、そのまま口を閉じる。会話を繋げようと試みる気は既に無い。あるのは問いかけのみ、隣人は何かを訴えかけるかのように、不自然な会話の切れ目を好んだ。



「体調は、お変わりないですか」


「……ああ」



 またも会話にヒビが入ったかのような感覚に陥る。当たり障りの無い会話の間に、不気味な静けさが通り過ぎた。何故だろうか。いつしか、この静寂が耐え難く苦手なものになっていた。


 静けさ自体は好きだ。

 微かに残る記憶の断片、夕焼けの海岸。もはや思い出せない誰かに贈った花の匂いと、木々を揺らす微風。沈黙の中にこそ潜む美しさが眩しく思えたから。


 だが今は、人の声しか聞こえない。蔑み、弄ぶ声と、憎み、また恨む声。

 静寂という名を借りた邪悪が、怨嗟が。こちらを見て、指を差している。


 血に塗れた眼で、射殺さんとしている。


 沈黙をやり過ごすたび、その声を耳にするたび。訳もわからず、吐き気がする。


 ……気持ち悪い。


 隣人はそれ以上語りかけてこなかった。時間が経つにつれ、沈黙は段々と色濃いものとなっていき、それに釣られて、幾多の声は漣のように内へと侵入してくる。


 いつしか床を占めていた水は膝上あたりにまで迫ってきていた。水面はいずれ天井に達し、部屋は言葉通り水没するだろう。その後には薄暗い息苦しさのみが続き、最後には意識を失う。


 いつもそうだ。唐突に目覚めて、釈然としないまま悍ましい声を聞き、そして溺れる。次の日になれば全て忘れ、今度の<水没>までの日々を微睡と睡眠で潰す。

 その繰り返し。


 退廃的でゆったりとした循環は、何かを確実に、どうしようもなく擦り切れさせた。今回はいつにもなく長い夢を見たが、それも波に飲まれて、攫われて行くだろう。

 だから、どうでも良い。結局のところ、何もかも、無駄で、滑稽で、無相応な話だったのだ。


 また、少し水位が上がる。今度は、夢を見ないだろうか。漠然とした不安だけがよぎった。


 そんな時だった。

 ふと、頭上に太陽が煌めいた。


 あり得ないことだった。この牢獄に、窓は存在しない。

 だが、驚愕に浸る余裕も無く、眩むほど光り輝く陽光が、水面にて照り返し、部屋の中を爆裂するように跳び回る。


 水の中で、壁の上で。


 乱反射する光は容赦なく、濁り曇った眼を穿った。


 目を背けたいと思いつつも、瞳孔は釘付けとなって動かない。

 目の前が光で満ちていく。瞬きすらも許されない、厳しくも暖かい光が。


 光の中で、視界の末端で。僅かに、頬が煌めいた気がした。それは一筋の光線となり、水面に落ち、波紋となった。


 ––––帰りたい。


 堰を切ったように、止めどなく生暖かい光が頬を伝う。訳もわからず、震える手で拭っても、拭っても、溢れ出てやまない。自分を抱くようにして、迫り来る水面に突っ伏して。


 どこか覚えのある、懐かしい光に包容されるように、ただ、その眩しさに縋った。



「御隣人、如何いかがなさいましたか」



 突然話しかけてきた隣人の声に、水面から顔を上げた時には既に、太陽は消えていた。部屋の中はもはや元の薄暗さに戻り、相変わらず窓の一つも見当たらない。顔から水滴がびちゃびちゃと水面に落ちる。


 ……夢。


 呼びかけには答えず、膝を抱えなおして、再度壁にもたれかかるようにして座った。


 あの暖かい光は、今朝見た夢の、そのままだった。

 だからこそ、帰りたいと、思ってしまった。光の中に、ひどく懐かしいものを感じてしまったから。


 あの感覚は、一体何だったのだろうか。



 否、如何でも良い筈だ。


 風化した筈だろう。

 これからもまた、ただ擦り切れていくだけだろう。


 今更、何を懐かしむ必要が、思い起こす必要がある。

 空虚な思索に一体何を求めると云うのか。



 頭が痛い。

 脳の四方八方で毛細血管が絡まっているかのようだ。凡そ、まともな思考ではない、ない筈なのに、何かが引っ掛かる。



 忘却した、するように努めた何か。金輪際、忘れたままでいい筈のもの。


 ……およそ、何よりも大切なもの。


 頭痛が益々激しくなり、水位は目に見えて上昇して行く。この先を考えてはいけない、と警鐘を鳴らしている。





「……牢の外に、出てみませんか」



 水位が膝の高さを超えた時。沈黙に徹していた隣人は突如として言葉を口にした。



 "外”



 刹那、頭痛が止んだ。時間が止まったかのように、全てから色彩が失せる。

 足にまとわりついていた水が急速に引いていき、隣人の声も、一切聞こえなくなる。

 目の前には、いつの間にか小さな扉があった。鉄格子ではない、そこにあるはずのない、見慣れた扉。

 鍵は、かかっていないようだ。


 ……嫌な予感がした、次の瞬間には最早遅かった。



 駄目だ。




 外に出てはならない。そこに敵が潜んでいる。こちらを見ている。血の涙を流している。憎悪の果てに殺しにくる。輪廻の起点にまで迫ってくる。殺される。殺してしまう。誰も赦しはしない。誰にも赦されることはない。人が死んだ。死なせてしまった。お前も敵だ。正義を盾に人を嗤う。悪を矛に人を嘲る。守れなかった。一番護りたかったものを。どこもかしこも敵ばかりだ。味方など正味いなかった。己が過去は消えない。過ちは消えない。生きる価値などない。全て受け入れて死ぬべきだ。




 生きてはいけない人間だ。





 ……視界が、地面が、大きく揺れ動く。

 強いノイズの掛かった音が耳を劈いている。

 息が苦しい、心臓が、動悸が、止まらない。

 汗が身体中から吹き出し、濁流のように拍動の波が押し寄せる。

 上体が保てない。このままでは崩れて、折れて、二度と戻れなくなってしまう。

 小刻みに震える両手で何とか床を掴もうとして、水を掻き、そのまま水面に向かって成す術なく倒れ込んだ。

 一度は引いたはずの水が、明確に部屋を侵食するほどまでに、押し寄せてきていた。


 否。


 これは水などではない。


 見ないフリをしていただけだ。


 視界が真っ赤に染まる。どろどろと極めて低い流動性を以てして体に纏わり付く液体は鼻と口を完全に塞いだ。息ができない。


 そうだ。本当はわかっていたはずだ。


 体が段々と真っ赤な液体の中に沈んでゆく。床すらもすり抜けて、底の底、何処とも分からない暗闇に落ちていく。

 何かから逃避したわけでは無い。周りにあるすべて。希望も絶望も。私は。、その全てから逃げ出してきたのだ。



                 ***


 数年前、半ば植民地と化していた属国が祖国に対して反乱を起こした。兵士だった私は妻と、幼い娘を家に残して、戦場に動員された。



 凄惨な戦争だった。


 そこでは、たくさんの人が死んだ。

 敵に殺された。

 心臓や頭を撃ち抜かれて、臓物がそこら中に飛び散っていた。


 だから、たくさんの人を殺した。

 私が撃った。仲間を弔うために。祖国に、報いるために。

 相変わらず臓物は飛散した。


 殺して殺して殺して、そして殺した。地に滴り落ちる血液が、もはや誰のものかすら分からなくなるまで。


 だが、足りなかった。敵の情報を奪い取る軍事作戦の最中、私たちは奇襲を受け、無様に捕まり、捕虜として投獄された。


 四畳半ほどのコンクリート部屋に、赤黒く錆、腐りかけた鉄格子。無機質と束縛を具現化したような、狭苦しい空間。


 食料の配給など当然のように無い。床のひび割れから染み出す僅かな水と、朽ちたネズミの死骸で耐え忍んだ。



 元属国は既に大半の戦力を消耗していた。対する祖国は連戦連勝。戦争の結果など見据えたものだった。


 故に、最初から捕虜に価値などなく、ただの建前でしかなかった。いずれ奴らの腹いせ拷問か、八つ当たり《処刑》の対象になるだけの藁人形。

 牢から無言で仲間を引き摺り出す奴らの目には、蔑みと憎しみの感情しか無かった。


 飢餓、恐怖、後悔、疫病、疲労、そして沈黙。冷え切った、生気が微塵も感じられない空間で、次第に精神が壊れていった。幻聴が絶えず死を勧告し、頭の中では何度も喉を掻き切る。


 実際、そうした奴もいた。


 だが私は死ねなかった。待っているから。彼女らが家で私の帰りを待っているのだから、絶対に死ぬわけにはいかなかった。


 幸い、それから半月も経たずに戦争は終わり、敵は退却した。友軍が駆けつけた頃には、私以外の仲間は全員死んでいた。



 衰弱していた私は、すぐさま病院に運ばれ、治療を受けた。

 栄養失調と疫病、加えて精神障害。

 重体だったが、隔離施設での集中治療と、数ヶ月のリハビリで、歩行できる程度には回復し、それからすぐ一時的な退院許可が降りた。


 だから即刻、家に帰ることにした。家に帰って……。


 そう、一刻も早く、家族に逢いたかった。


 そうでもしないと、自分の、人間性を司る部分が欠落してしまうように思えたから。


 あの牢の沈黙を、忘れてしまいたかったから。












 だが、そこに、何度も帰ったその場所に、家はなかった。





 娘の好きな花を植えた花壇に囲まれた、海辺の一軒家。






 目の前に広がったのは、焦げ臭くくろずんだ焼け跡だった。






 反戦争の過激派集団が、戦争従事者の住む家と聞いて、腹いせに火を付けたらしい。


 そこに、無関係の家族がいることなど、分かっていたはずなのに。


 深夜、風に煽られて、燃え広がった。当然、皆、逃げ遅れたという。



 皆、逃げ遅れた。



 呆然と立ち尽くす私の前で、野次馬の子供たちが焼けこげた花びらを千切って遊んでいた。



 限界だった。



 世界が真っ白に染まり、その日を境に現実と夢が入れ替わった。


 気づけばいつも、あの時の牢に居た。

 そしてあの時と同じ沈黙。


 だが今度は、戦争が終わることは無い。だから、怨嗟の声が消えることも無い。



 ……ましてや家族の安否など、知る由も無い。



 未来が受け入れ難いのであれば、人は過去に逃亡する。私は漠然と、既に居もしない家族の為に戦っている幻影を作り出した。


 何と滑稽な話だろうか。

 正味、そうでもしないと、殺してしまいそうだったのだろう。皆んな。何も知らずに、平和という隠れ蓑の中でニタニタと笑っている奴らを。


 そして、何も知らずに、のうのうと死にかけていた自分を。


 檻の中に逃げ込んで、自ら錠をした。自首といえば聞こえはいいが、結局のところ己という存在から逃げたのだ。誰に対しても顔向けできずに。


 本来、終わっているべきだった命。

 もう生きる理由も無いのに、それでも何故か死ねずに、こうして歪んだ時間を過ごしてきてしまった。


 だが、それも今日までだ。


 底の無い、どこまでも黒い世界に落下しながら、思う。


 今日、檻が破れて全てが一気に崩壊した。忘れるように隅に追いやっていたものを思い出し、そしてどうしようもないほど腐った自己に気づいてしまった。


 結果訪れたこの暗闇が、血どろみが、何を意味するかは分からない。だが、身を委ねれば、二度とは戻れない。その事実だけは漠然と理解していた。


 全てから逃げてきて、この場所に辿り付いたのだ。


 ならば、いずれ、その全てに追いつかれる時が来る。





 もう、どうでも良い。







「……無い筈でしょう」



 不意に、声が響いた。何も見えない、何も無い闇に、今確かに声を聞いた。

 そしてそれは、よく、聞き覚えのあるものであった。



「どうでも良いことなど、無い筈でしょう」



 今度は明確に、闇の中で突風を巻き起こすかのように、声が響く。

 煩い。もう、良いんだ。はやく眠らせてくれ。



「貴方は畏れている。己の愚かさと激情を」



 ……ああ、そうだ。怖いんだよ、全部。私が腑抜けていたせいで皆んな捕まった。私が直ぐに帰らなかったから、皆んな死んだ。全部私のせいだ。何故、もう一度間違いを起こさないと言える? どうして、のうのうと生きていける? 


 そして、私はもう絶対に許せない。守ってやったのに。それなのに何故。



 何故、火をつけた?



「貴方は臆病で、そして優しいから。誰も傷つけられずに、独りで全てを終えようとしている」



 平坦な声が続く。止めろ。知ったような口を聞くな。これはまやかしだ。また、私が作り出した幻想に過ぎない。私の、うじうじとした弱い部分が形を成して語りかけてきているだけだ。



「けれど、貴方にはまだ、大切な責務が残っているはず」

「思い出して下さい。あなたはそれを、きちんと託されたのだから」





 ––––託しましたからね、隊長。



 暗闇に一瞬、ノイズのようなものが走る。デジャヴのような違和感。この後に及んでまだ何か忘れていたとでも言うのだろうか。


 ……いや、なかった。責務など、そんなものはなかった。なかった筈だ。この後に及んで逃避しようとする汚らしい言い訳に過ぎない筈だ。


 守ろうとした者は皆声を聞くこともなく死んでいったのだ。帰るべき場所すら無くなった。もう私には何も残っていないのだ。未来に残すものなど、もはや、何も––––



 ––––隊長、後は任せて下さい。貴方はここで死んじゃいけないんでしょう?



 薄明かり、硝煙の臭い。

 何も無いはずの暗闇に一筋、確かに息づいた情景が翻る。


 何だ、これは。


 刹那、やけに煙草臭い迷彩が目前を埋め尽くす。笑い合いながら、背中を叩き合い、私の前を行く一行。

 その並び揃った背中には、確かに覚えがあった。


 私の隊の皆。何故、今彼らのことを思い出す。


 いや、そうだ。


 彼らも全員、敵に捕まり、あの牢獄で死んだのだ。




 みんな、あからさまな反抗をして、敵兵に殺されたから。



 ……。



 あからさまな反抗?



 確実に殺されるというのに、何故、無意味な抵抗に身を投じた?



 ––––生きて、そして伝えてください。


 僕たちの、生きた証を。




 ……違う。


 思い出した。

 捻じ曲げていたのだ、全部。


 終わっているべきだったなど、そんなわけがなかった。


 私は、確かに彼らから、託されたのだ。



 あの日、私たちが衰弱でいよいよ限界を迎えようとした、あの時。皆は機密を持ち帰る為、私を逃す為に看守を殴り、無謀な陽動に躍り出た。


 私は仲間の手引きを受け、牢の外に逃げ出した。銃声と怒声を背後に。


 だが、無理だった。


 後もう少しのところで、私は再度捕まり、牢に戻された。



 ……血溜まりに沈みゆく、無惨な亡骸と化した、仲間たちと共に。




 それから救助されるまでの記憶が完全に欠落している。


 忘れるように努めたのだ。


 約束を、果たせなかったから。

 仲間に、また、無駄な苦しみを味わせたから。


 その事実に、耐えることなど、出来なかった。



 詰まる所、寒獄は層を成していたのだ。


 あの戦争の、己を含めた全ての憎悪。私は、それらが混ざり合ったるつぼに堪え切れず、何重にも蓋をした。


 はなから何もなかったかのように。

 しかし、それを土台として寒獄が成立し、私は過去の中の過去、まやかしの中のまやかしに閉じこもるに至った。



 ならば、この暗闇とは、寒獄の原初、あの日の惨劇、さらに言えばあの凄惨な戦争そのものであったのだ。



 ……今更、許してくれるのだろうか。

 彼らは私の無能を、下劣を、愚鈍を。己でさえ受け入れることの出来ない失望を、果たして許してくれるだろうか? 


 暗闇の中の情景は、もう消えてしまった。私の体は依然沈み行き、真っ逆さまに堕ちていっている。元の世界などには、もはや戻れないほどに。



 その時、ふと、手の中で、幾つもの金属が擦れ合う音がした。瞬間、理解した。あの日、私が受け取ったもの。皆と約束したもの。


 だが、何故ここに? 約束は、果たせなかったというのに。


 見ると、拳から、光が漏れ出している。こんな暗闇とは相容れぬ、全く以て朗らかな光が湛えられている。


 また、拳の中で輝くそれは、声を発しているようだった。

 何人もの声が連なった、漣のような群像。


 だがそれは、憎しみの声でも、蔑みの声でも無く。ただ、何かを私に伝えようとしているらしかった。



 握り拳を徐に開く。柔らかな光に包まれて顕になったそれらは……彼らの存在をこの世で唯一示す物。


 片割れを失った、ドッグタグたち。


 未来に持っていくべき物。

 絶対に風化させてはいけない物。


 こんなところで私と一緒に果てるべきでは無いはずなのに。どうして。



 刹那、ドッグタグの光に共鳴するように、背後がパッと明るく煌めいた。と同時に浮遊感が収まる。後ろを振り返ると、ぼんやりと光る靄掛かった何かが揺らめいているのが見えた。


 濃い硝煙と煙草の匂い。特定の誰かでは無いのだろう。あの地で死んだ彼らの偶像が、不安定に形を成して、佇んでいる。


 静かなその影は、ただ私の目の前で揺らめいている。だが、その沈黙の中には私に何かを伝えようとする明確な意思が宿っているのが分かる。



「……私には無理だ。無理だった。お前たちが一番よく知っている筈だろう」



 沈黙に耐え切れず、思わず独り言を云う。


 だが、返事はない。当たり前だ。



「私は失敗した。もう数え切れないほどの命が私のせいで潰えた」



 今目の前にあるのはただの残滓、記憶の中に残留する藻屑に過ぎない。

 そこに在るのは、ごく柔らかな沈黙のみ。



「だから私も消えてなくならねば。戦争によって残された災禍と共に、心中しなければ。この澱んだ憎悪は未来に持って行ってはいけない。私だけでいい。私が死ねばいいんだ。もはや、どう生きれば良いのかすらも分からなくなってしまった。だから、出来ないんだ。私は……」





「隊長」



 偶像に張り付いていた濃霧が霧散し、そこから伸びた一本の手が私の手を掴んだ。



「信じてますよ」




 瞬きの後、偶像は消えていた。仄かな光は消え、再び暗闇が空間を支配し、落下が再開する。

 硝煙と煙草の匂いも散逸した。もはや、己すらも知覚しようのない、どす黒い闇。


 だが、まだ光は、この手の中に。


 目を瞑って、未だ手のひらで温もりを纏う光を、握りしめる。



 彼らは私を信じると言った。


 ……ああ、そうだ。彼らは私の脳裏に住まう幻影に過ぎない。しかし、いや、だからこそ、それは、証明で在る。私は、はなから分かっていたのだ。何故彼らが私について、ここまで来たのか。何故、あの時、自分たちのいずれかではなく、私を逃したのか。


 それを分かっていながら、未だ言い訳を続ける。全く、私は最期まで間抜けな愚者であったのだろう。



 いい加減にしろ。



 今、待ち受けているのは真っ黒な闇の中に永遠に沈みゆく結末のみ。最早、地上も、牢獄さえも程遠くなった。今更戻ることなど、出来るわけが無い。


 と、矮小な私は、自分に思い込ませている。この先には死だけが有るのだと。

 少なくとも、それは、私にとって圧倒的な終点であり、安寧であった。だからこうして、今も堕落を続けているのだ。



 ……だが。



 彼らには、帰るべき場所がある。


 彼らには、死を超えた、怨嗟のしがらみを超えた、その先がある。


 そしてその領域を見据えて、私に、託してくれた。

 そうだ。これ以上に、何が有る。



 許すか、許さないか。

 憎んだか、憎まれたか。


 相互に歪み合う、自責も、恨みつらみも。


 全て円環の如く巡りゆく不条理である。


 そのるつぼに嵌って殺し合う、それが人間なのだろう。


 正味、私や、ひいてはこの戦争さえも、その大きな流れに巻き込まれた極小の砂つぶに過ぎない。

 なればこそ、終わりにしなくては。例え、濁流に呑まれる有象無象であろうと。


 彼らがしたように、人は想いを伝えられるのだから。



 だから、私も、私の存在を以てして彼らが如何にして生きたかを伝えなければならない。




 他の誰にもよらず、生きて、彼らを家に送り届けなければならない。





                 ***



 目を開けると、辺りの様子が一変していた。


 先ほどまでの暗闇とは打って変わり、一面、拍子抜けするほどの真っ白な空間。

 後ろを振り向くと、そこには見慣れた扉が開け放たれている。


 何とも、滑稽なことだ。どう見ても、扉の外に敵などいないではないか。



「御隣人、もう、檻は必要ないのですか」



 どこからか声が響いてくる。狭い檻の中で、ただ一縷の光になっていた声。結局、寒獄は独房であったのだから、この声も少しばかりの残滓のようなものだろう。



「……ああ。迷惑をかけたな」



 足を大きく前に一歩踏み出す。


 一度は捨てた命を、ドブの中を掻き分けて拾い直した。

 だから、これは決してチャンスなどではない。


 私の家族が生きた証であり、仲間たちが生きた証であり、そしてあの戦争で死んでいった全ての偶像の証でもある。


 それらの仄かに光を放つ輪郭に象られて私は生かされている。



「責務を、果たされるのですね」


「……そうだ」



 前途に広がる真っ白な空間はどこまでも続いているように思える。


 彼らを皆んな、家族の元に送り届ける。

 責務を果たし終えれば、いずれは私も、家に帰れるのだろうか。


 あの見慣れた扉を、再びくぐることはあるのだろうか。


 彼らのように、未来を見据えられない私には、無理なのかもしれない。

 少なくとも私は、臆病なのだから。


 だが案外、その日は近いような気もする。寒獄にいた間、何度か垣間見えた、ひどく懐かしいもの。今思えばアレらも、何かを伝えようとしていたのではないか。


 いずれにせよ、私は託された命を、全てが終わるその時まで、燃やし尽くす。


「そう、ですか。ならば私から言えることなど、何も有りはしないでしょう」


 また一歩足を踏み出す。一歩、もう一歩と歩みを進めていく。段々と光が強くなってきた。目覚めの時が近づいている。


「ですが……やはり、最後にもう一つだけ言わせてください」


 真っ白な空間が崩壊していく。最後に、遠くを振り返ると、そこには見慣れた扉と––––揺れる数多のエーデルワイス。その前に、一人、こちらをまっすぐ見つめる誰かが立っている。足元の感覚が崩れ、意識が暗転する直前、その人の顔に、微笑みが浮かぶのが見えた。




「……いつでも、帰ってきて良いのよ」





                 ***



 ピ、ピ、ピ……


 規則的に鳴り始めた機械音で目を覚ました。

 視界がぐらつく。声が出ない。体が動かない。口元には何か妙な感触がある。どうやら酸素マスクのようなものをつけているらしい。


 ベッドに横たわる私を心配そうに、それでいて喜ばしそうに見つめる二つの影がある。一つは泣きながらもう一つの影に話しかけている。服装からして、看護師だろうか。


 他方、もう一つの、小さな影は、私の手を握りながら不安そうな眼で私の顔を覗き込んでいる。


 そして、その顔には、とてもよく見覚えが、否、忘れるものか。

 忘れるはずがないだろう。



「パパ……?」




 深夜、風に煽られて、燃え広がった。

 当然、皆、逃げ遅れた。


 その先は、怖くて聞けなかった。「皆」が何を示しているかを、知りたくなかった。


 ……思い込み。



 やはり、そうだ。


 からも、託されていたのだ。



 ならばもう、迷うことは無い。

 小刻みに震えるその手を、しっかりと握り直す。



「ただいま」





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寒獄にて コランダム @Yasashikiyonasu

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