愛の形
真花
愛の形
東京に雪が積もるのは何年振りだろうか。青いアパートの青さが時間を吸い込んで重く燻んでいる。トタンで出来た外階段の屋根に積もった白は、青と混ざることも中和することも拒否をして、凛と黙っている。
「開けるんで、いいんですよね」
アパートの出入り口で立ち止まった大家が今更の確認をする。大家の足取りは鎖に繋がれているくらいに重く、口数も少なかった。私はその後ろを何も言わずに付いて歩いた。私に繋がっている鎖には鉄球が付いていた。新しい雪原に私達はナメクジのようにずるずると跡を引きながらここまで来た。大家が息を雲にしながら続ける。
「
それはもう何度も説明したことだった。島井が無断欠勤をして、連絡も取れなくなってもう二週間以上経つ。これまでも無断欠勤の歴があるために職場の誰もが、またか、と放置した一週間目と、そんなことより急ぎの仕事がある、と無視した二週間目が過ぎて、誰だったか、あれ島井は? と呟いたことでだまし絵に隠されたもう一方の見方が急に浮かび上がるように職場全体が島井の不在に狼狽した。
「よろしくお願いします」
押し付け合いは急流よりも速やかに私に到達した。業務上でしか接したことはなかったが、特徴が少なくて記憶から溶けて消えてしまいそうな男だった。好きでも嫌いでもないから、面倒臭さと、さらに面倒なことになる予期的面倒臭さの二重奏だけが私の胸をいっぱいにした。
「じゃあ行きますか。二〇五号室です」
大家が敷地に入り、階段を登る。一段一段が抵抗するように声を上げる。その後ろを付いて行く。私の足でも同じ声がした。二階に上がると大家は真っ直ぐ廊下を進んだ。一歩を踏む度に階段と同じ悲鳴が聞こえる。島井の部屋は廊下の一番奥だった。欄干に雪が吹き込んでいた。ドアにも表札にも島井の名前は書かれていなくて、沈黙したドアは他の四つの住人のものと何も変わらない。
大家が呼び鈴を押す。まるで後悔を押下するように重そうだった。部屋の中から気の抜けたチャイムがドア越しに聞こえる。その音は私達をすり抜けて外の雪に溶けていった。溶けるまでの間私も大家も隠れるように何も言わず、静寂に至ってもそのままで、部屋の中で何かが動く気配はしなかった。大家がもう一度呼び鈴を押す。再びチャイムが鳴って、私達は隠れる。待っても何も動かない。
大家がドアを叩く。それは散り切る直前の花びらを落とさないように願うような叩打だったが、徐々に強く、「島井さん、いるんですか」と大家は声を上げる。部屋の中からは何の応答もない。私の手がしんと冷える。何度か島井に大家は呼びかけて、叩き続けて、それでも反応がないことに、手を止めた。
「しょうがないですね。開けましょう」
大家が知恵の輪を繰るように部屋の鍵を出す。簡単な動きなはずなのにぎこちなく、大家は鍵束をガチャンと落とした。無言で拾った。大家が鍵を私に提示しながら頷く。私はそれを受けて、もう後には引けない、頷きで返す。
大家が刺した鍵によって簡単に、当然なのだが、ドアは開いた。ゆっくりと、開けたくないのと開けなければいけない事情がせめぎ合いを少しずつ開ける方に傾けるように開ける。
何かが腐敗したような、全ての食欲を打ち消して逆に吐かせるような、街中にあってはいけない、この部屋にもあってはいけない、赤黒い匂いがした。大家が顔を顰める。私も同じ顔になっているに違いない。大家が私の顔を見る。私は覚悟を決めて頷く。
「島井さーん」
私の声は何にも届かないで落下して消えた。大家と私はスローモーションで警戒をしながら進む。玄関のすぐ先に横向きにキッチンがあり、シンクに置かれた皿に水が少量ずつ出しっ放しになっていて池を作っている。水を止めたくなったが、触れてはいけない気がした。水に留まった私達は再び頷き合って前に進もうとして、止まる。足元に大量の空き缶、ツナ缶のような缶、が並んでいた。それは乱雑に散らかしたのではなく、ドミノ倒しのように整然としていた。どれもが空だった。匂いが強くなって来ている。缶にも触れないように注意する。何の儀式か分からないが、そのままにしておいた方がよい気がした。現場の保存とかではない。自分が影響を受けてしまうことを避けたかった。
廊下とワンルームの部屋の間にあるドアは開けっ放しだった。慎重に缶をよけながら、居室の前で私は止まる。後ろの大家は何も言わない。この匂いは絶対にアウトだ。だが、行くしかない。私は覚悟を十分に溜めてから、決死で部屋に踏み込んだ。
匂いの元が横たわっていた。
「島井さん?」
ベッドの上に、恐らく裸で、体中が崩れている人間だったものが横たわっていた。顔もぐちゃぐちゃになっていて、島井かどうか判別が付かない。部屋の中は外と同じ気温だ。二週間でこんなになるだろうか。私の心臓が早く強く胸の中から逃げ出そうとする。耳がわんわんと鳴る。だが、何の感傷もなかった。まるで業務のように事実を受け止めて、次にすべきことを考えた。部屋を見回す。
ちゃぶ台が横にあった。書き置きがそこだけ惨劇の前で止まっているかのように座していた。その横には大量の薬の空のシートが丁寧に並べられていた。コップは空になっていた。書き置きの正面に行って内容を読む。大家も付いて来た。
「グスタフをよろしくお願いします。島井」
後ろに気配がした。書き置きを覗いていた私も大家も凍り付いた。気配は移動はしないが確かにあって、それが危害を加えるものなのか背中では分からない。チラ、と大家を見ると既に絶命したかのような顔をしている。私にも冷や汗が出る。呼吸を殺す。木になるように動かない。だが、ずっとこうしている訳にもいかない。気配はただそこにあり続けて、もしかしたら大丈夫なものかも知れない。
確かめるしか前には進めない。ずっとこのまま固まっていても助からない。
だから、私は氷を割るように振り返った。
そこには、丸々と太った猫が一匹、餌を見るような目で座っていた。
(了)
愛の形 真花 @kawapsyc
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