ホットの買えない自販機

人鳥暖炉

1.帰路

 粉雪の混じった風がコートの裾をはためかせ、寒さに思わず身を縮めた。暦の上では既に春とはいえ、三月の夜はまだまだ寒い。特に今夜は例年に無い冷え込みだということで、この地域にしては珍しく、路面には雪がうっすらと積もっている。


 この寒さから逃れるために一刻も早く暖かい自宅へたどり着きたいと思う一方で、家で妻と顔を合わせることについて気が重いと考える自分もいた。今朝、家を出る前に喧嘩したばかりなのだ。


 出会った当初から妻は、自分は霊感を持つ家系の出だと公言していた。妻自身も、はっきりと霊が見えるほどではないものの、霊的なものが近くにいるとその気配を感知することができるのだという。唐突に、ここには何かいると言い出したことも一度や二度ではなく、周囲の人間に気味悪がられてもいっこうに改める様子は無かった。


 彼女の霊感についてお前は本当に信じているのかと問われれば、躊躇無く頷くことはできない。しかし彼女がそういう人間であるということは十分に承知した上で結婚を決めたので、自宅に何かいると言い出されたところで、特に気にするつもりは無かった。


 しかし、それがまだ幼い娘の前でとなると、話は別である。


 そうでなくとも、幼児というのはお化けを怖がるものなのだ。妻の言葉をどれほど理解できたのかは不明だが、娘は号泣し、私は思わずカッとなって、いい加減にしろと妻を怒鳴りつけてしまったのだ。


 子供を怖がらせるような言動は慎むべきという点については、頭が冷えた今になっても考えは変わらない。

 しかしなにも、いきなり怒鳴りつけることはなかったかもしれない。


 ――家に帰ったら、まずは妻に謝ろう。


 雪に足を滑らせないよう気をつけつつ、そんなことを考えながら家路を急ぐ。


 それにしても、今夜は本当に寒い。この分だと、家にたどり着く前に体温を根こそぎ奪われてしまいそうだ。そういえば、もう少し先へ行ったところに自販機が設置されていた記憶がある。そこで何か温かい飲み物でも買って、少しでも暖を取ろう。


 幸いにして私の記憶は正しく、前方に自販機の明かりが見えてきた。


 ――できれば、ホットレモンティーがあると良いな。


 そんな期待を持って自販機に近づいた私は、自分の運の無さに溜め息をつくことになった。商品一覧の中にホットレモンティーはあったものの、既に売り切れていたのだ。


いや、レモンティーだけではない。既に三月だからか、それとも元々そうなのか、ホット商品の数自体が少なく、そしてその全てが既に売り切れてしまっていたのだ。


 逃した魚は大きいという話ではないが、自販機のことを思い出す前以上に、温かいレモンティーが欲しくてたまらなくなった。しかし無いものは仕方がない。

幸いにして、ここまで来れば自宅まではあと少しだ。家にさえたどり着けば、温かいものを好きなだけ飲むことだってできる。


 多少の未練を引きずりながらも、自販機に背を向けて歩き出す。雪の混ざった風が、正面から顔に向けて吹きつけてくる。一瞬、視界が真っ白になった。

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