転生に意義あり?

 季節が移るのが分かる。一日の静かな変化さえ嬉しい。 

 朝が近くなると器官に水が廻り、葉と樹皮は太陽を受けて呼吸しようと待っている。空気は適度に二酸化炭素を含んで冷たい。空が明るくなるのが分かる。

 空の青さや風の薫り、時には人肌の温もりを感じ、生きる悩みや世の煩わしさを忘れた。前世では殊更に大音響の般若心経の夢にうなされ、研究費配分で怒りにエネルギーを費やしたのが嘘のようだ。


 全ては僕の世話人である邑崎東子むらさきとうこのおかげだ。彼女は園芸のプロで、懸命に僕を栽培した。害虫が我が身をかじり始めた時も、栄養不足になりかけた時も、彼女は適切に処置を施した。なんとありがたいことだろう。

 一株の植物になり、僕は本当の感謝を悟った。


 世話人の名を知ったのは、梅雨に入る前。

 僕の茎は伸び、葉数は増えて、脇芽を出す頃、突然彼女の声が音の粒になって降り注いだ。

「ごきげンいかが。土の乾き具合ヨシ、肥料の濃度ヨシ。梅雨になったら軒下に入れるよ。お日さまをいっぱい浴びるンだよ」


 幸せである。これを何に例えるべきか。いや、例えなくていい。僕はただに幸せだった。


 梅雨になり、薔薇の鉢は彼女の部屋の軒下に移動した。

 成長した器官は多くの情報をもたらした。

 邑崎東子は一人住まいのようで、昼夜を問わず不意に出かけていく。軒下は7階の広いベランダの一角。隣のベランダから視線を感じる時がある。誰かは分からない。

 閑々とした雨水の音は以前も聞いたことがある気がする。 

 ここは僕が知っている場所なのか。

 が、こうした情報が鉢植えの薔薇に何の益になろう。僕は自然の一部になり、悠々と日を送る。


 東子はラジオの音量を小さく流しながら、ベランダの掃除をする。掃除が終わると缶ビールを手に僕の横に座る。

「もうすぐ咲くね。あンた、性が良いよ。大きな鉢に植えかえるまで大きくなったンだから」


『それは東子さんが懸命に世話してくれたからです』

 僕は頭を下げるかわりに、葉で精一杯呼吸して、青々と7階の風に吹かれる。

 東子はラジオから流れる歌に合わせて体を揺らす。

 ラ・ヴィ・アン・ローズ、「薔薇色の人生」というフランスの歌謡曲だ。

 

 夏の初め、僕は蕾が開くのを感じた。不思議な感覚だった。新しい器官が生まれ、外界に広くひらかれた気がした。産声を上げたい。そんな感覚だ。

 ある夜、朝子さんはせわしなく電話をかけていた。その時、「叫べ」と声がする。

 おかしい。僕が薔薇の植木になってから、そんな欲求はついぞなかった。夏の夜は気温が高く、各器官は昼と同じくらい活き活きしている。僕は声のもとを辿ろうと器官のセンサーに集中した。


 その時だった。隣のベランダから人が柵を乗り越え、まっすぐ僕に近づく。手には鋏。僕は思わず声を発した。

「南無大師返照金剛! 南無大師返照金剛! 南無大師返照金剛!」

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