残飯の残り香
柊木蘭 (ひいらぎらん)
残飯
与謝野晶子の弟が、本当に親から刃を握らせ人を殺めろと教えてもらったのであれば、僕は親になにを教えてもらったのだろうか。
子供は両親の血を引く者。どちらの人間でもある。目が母似だと言われてきた。愛すべき母に似ているなんて、幸福な言葉だ。甘党だったから褒め言葉一つで満足することができた。
けれど、いずれは空腹になる。褒め言葉の余韻は直ぐに冷める。鷹揚だった家庭は一瞬で崩れてしまった。
我儘を言う子供では無かった。その代わり自分を外に出すことが苦手だ。蕪雑乱雑な会話劇が行われる四年三組の教室内でも静かに送っていた。
毛も生えはじめ、背も伸びてきた。幼年から少年、少年から青年へと形が変わっていく。成熟していく人の流れに飲みこまれることなく、成長を重ねていくのは思ってる以上に難しい。瘡蓋が剥がれていることに気がついたときには、靴がきつくなっている。少しずつ大人になろうと、些細な一歩の歩幅も広がっていく。
つまみ食いで空腹をしのいできた。家族が二つに裂け、一人を送る日々をどう送ろうか悩み続けた。折りかけの折り紙。右足だけ作ったプラモデル。十六ページに栞を挟んだ
**
母が家から居なくなってから五ヶ月たった。いつも通り、リビングのテーブルに置かれている皿を電子レンジに入れて温める。待っているあいだに電気ケトルのスイッチを押してお湯を沸かす。インスタントの味噌汁の封を開けている最中にチンと電子レンジから音が鳴る。
炊飯器からご飯を茶碗によそう。味噌汁の容器にお湯を注ぐ。おかずは二品。今日は野菜炒めと餃子が七つ。テーブルに茶碗と味噌汁とおかず皿を配置する。いつもテレビをつけるが今日は着けない。火曜日の十八時に見たい番組は無い。
黙々と食べる。やっぱりテレビをつける。アニメのDVDをレコーダーに入れる。テーブルに座り直して再生ボタンを押す。内容も映像も覚えているため、ラジオ感覚で耳だけ意識を傾けながら晩飯を食べる。
二度ほど、ご飯が用意されてないときがある。その代わり、現金が置かれている。初めて一人で飲食店の扉を開けた。初めてのおつかいは、十七時十分に購入した牛丼の並盛。
締めに残りの味噌汁を啜る。
『美味しい』。
確かに美味しい…けれど身体が暖かくない。
温かいのにぬるい。湯気がホワルバ、ホワルバと揺れ上がるのに、口に入れるとぬるく感じる。夏なのに暖かみを求める。ご飯を食べ終わると冷凍庫のアイスを食べる。味覚から感じる冷ややかさが、身体中に放散していった。
食器を洗い終えたらお風呂に入る。湯船に浸かっても、滴り落ちるシャワーの湯を浴びても、不安は浮かんでこないが、独りよがりに爪を噛む。
風呂からあがる。身体を拭きながら歯磨きをする。時刻は二十一前、子供は寝る時間。パジャマのボタンを止めながらリビングに戻る。雨が降りはじめた。
布団に入る。先月、父がベットを買ってくれた。もう一人で寝れという意味だろう。
夜の降雨の音がとても好き。いつもは、静かで自分の鼻を啜る音、足音が敏感に聞こえてきて恐れる事もある。そんな不安を蹴り飛ばしてくれるのが雨の音。ザァルザァルと、響く荒い降雨が好き。
逆に深夜三時頃に聞こえる新聞配達のおじさんのバイク音が嫌い。この音が序奏となり、始発の電車の走る音。父が帰って来て、リビングから聞こえる生活音らが流す、文明の反響か眠りから覚ます。二度寝して七時半に起きる。リビングには朝ごはんが用意されていた。
**
母が居なくなってから半年が経った。日曜日の昼飯を食べ終えた頃。父と二人で黙々と食べた。うどんと漬物。食器を洗い終え、自室に戻ろうとした時に父に声をかけられる。ドアノブから手を離す。
「お母さんに渡してきてくれ」
ボソボソと話す父。
「分かった」
先月と同じやり取り。父から封筒を受け取る。
中身はお金。先月、封が空いていたので子供の興味心に惹かれて、中身を見てしまった。そのとき初めて一万円札を目にした。五千円札はお年玉で貰ったことがあった。
「頼んだぞ」
そう言うと父は、洗濯機を動かす。玄関の扉を開けて外に出る。
晴れだった。封筒はポケットのなか。これから母の家に向かうところ。
ため息を吐く。なんと言えば良いのか分からない。先月は黙って差し出しただけで終えた。十秒も無かったかもしれない。緊張を実感するたび足が重くなっていく。
白い二階建てのアパートが見えた。母の家だ。一〇一号室がそうだ。背伸びをしてインターフォンを押す。ドアにチェーンを着けたまま、母が出てきた。
「お母さん。はい、これ」
両手で封筒を渡す。母が右手で受け取り、中身を取り出す。
「ありがとうね」
チラッと僕を見つめる。千円札を一枚、母から貰った。
これが母と会える最後の繋ぎだった。
**
あぁだ。こうだ。リビングから罵声の声が聞こえる。自室のベッドの上で、蚕の繭のように毛布の中でうずくまっていた。時刻は夜の十九時頃。
自室の灯りは点いていないが、カーテンが開いていて、そこから届けられる朧げの光が床を照らす。
まだ、罵声が聞こえる。父が母に怒鳴る。母が父に怒鳴り返す。この状況に理解できないまま、一人ポツリと、青息を吐く。
「離婚だ」
机を叩く音とともに、父の決意を込めた叫びが耳を貫いた。
「えぇ、良いわよ」
冷たくお瑣末な一言が胸に刺さる。
「出てけ」
裏返った叫びが聞こえる。廊下を歩く音。ヒールで床を叩き、玄関の扉の鍵を開ける音が僕の心に響いた。
「お母さん!」
身体が勝手に動いた。なにもしなかったら後悔すると、おぞましい冷感が首筋に走った。
まだ間に合う。勇気の一歩を踏み込めたなら決意の二歩目も踏みこめるはずだ。自室のドアを開けてリビングに出る。廊下をバタバタ走って、靴を履かず玄関の扉を開ける。大きな岩を押すような気分だ。お母さん。と、叫ぶ。
玄関が閉じるのが音が聞こえた。
外に出る。頭を左右に降る。お母さんの背中を見つける。
「待ってよ。お母さん」
走りながら叫ぶ。小さかった背中が大きくなっていく。お母さんが振り向く。勢いを止めずに胸中に飛び込む。
戻ってこい。後ろからお父さんが叫ぶ声が聞こえるが無視をして、母の胸の中で泣きじゃくる。
この日以降、僕の家には、母とサンタクロースが来なくなった。
残飯の残り香 柊木蘭 (ひいらぎらん) @HIIRAGIRAN
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