少年
山上りん
本文
朝方、チャイムの音がけたたましく鳴り、私はいつもより早く目を覚ました。眠い目を擦りながら部屋を出ると、同じく目を覚ました母親が、チャイム越しに誰かと話していた。訪ねてきたのは近所に住む女性で、弟の同級生の母親。なにやら動転した様子で言うには、その弟の同級生の雄介くんが、夜のうちに家を抜け出してしまったということらしい。彼女は、我が家に息子がいないことを確認するやいなや、何か分かったら連絡してほしいとだけ言い残し、足早に立ち去ったようだ。時刻は早朝6時。すっかり眠気が覚めてしまった私は、コーヒーを飲もうと棚からカップを取り出した。
「ちょっと」
憔悴しきった表情をした母が、私をキッと睨みつけて言った。
「あんた、探してきてよ」
「どうして。俺が行かなくても、警察にでも任せればいいだろ」
「あの人プライドが高いから、きっとそんなことはしないよ。そのくせ、自分で見つけるまでご近所で騒ぎ立てるから。またうちにも来るはずだし、何より雄介くんが可哀想」
面倒だが、今日は土曜日で大学生は一日中暇だし、断れる雰囲気でも無い。母に、とにかく警察に相談するよう説得しろ、とだけ言い残して、私は家を出た。
そうこうしてもう2時間ほど町を歩いているわけだが、当然、1人の人間を簡単に見つけ出せるはずもない。季節はもう冬になろうとしており、羽織ったコート一枚では少し肌寒い。もう少し歩いたら帰ろう。そう思いふと右手の公園を見ると、奥の方のベンチに誰かが座っていた。中学生くらいの背丈で、妙に厚着をしているその少年は、なにをするでもなく、ただ黙って空を見上げていた。誰が見てもわかる。あれが件の雄介くんだ。かなり分厚いジャンパーを羽織り、学校に持っていくのであろう大きなリュックサックが脇に置かれている。せっかく見つけたのに、逃げられてしまったらたまらない。私はゆっくりと彼の座るベンチに向かって歩いていった。
「やあ」
私が声をかけると、少年はビクッと体を震わせた。そして私の顔を見て、安堵と恐怖が入り混じったような、変な表情を浮かべた。私は彼がその場を立ち去らないよう、彼と同じベンチに座り込んだ。
「こんなところでなにしてるんだい少年」
少年はなにも答えない。
「あ、そ。答えなくていいよ別に。俺暇だからさ、話でも付き合ってよ」
少年は俯いたまま、目だけで私の様子を窺っていた。私が彼を連れ戻しにきた人間であるのか疑っているのだろうが、私は彼と面識がないので、警戒はいずれ解かれるだろう。私は少年の方を向かず、先ほどまでの彼と同じように、姿勢を崩して空を見上げた。
「暑くない?昨日は寒かったけどさ。今日はそれほどでもないなあ」
私がそう言ってコートを脱ぐと、少年も黙って羽織っていた分厚いジャンパーを脱いだ。本当はかなり寒いが、少し汗ばんだ少年のおでこを見て、ここは我慢しようと決めた。
「ねえ、おやつとか持ってない?朝からなにも食べてなくてさ」
少年はなにも答えない。
「ね、交換で、飲み物買ったげるから。お願いだよ」
少年は顔を顰めたが、程なくしてポッケから饅頭を一つだけ出してこっちに差し出した。家から掴み取って持ってきたのだろうが、中学生が持ち歩くには幾分渋い食べ物だ。
私が、飲み物なにがいい?と聞くと、少年は消え入りそうな声でお茶、と答えた。喉が渇いていたのか、遠慮なのかはわからないが、お茶とはこれまた渋い選択だ。私は公園内にある自販機で二人分の麦茶を買って一本渡し、少年の横で饅頭を食べ始めた。
「夜からずっとここにいるのか?お腹が空いただろう」
少年は黙ったまま首を横に振った。
「本当?この饅頭美味しいけど」
少年は食べかけの饅頭を横目でチラリと見て、のそのそと同じ饅頭をポッケから取り出した。
少年が饅頭を食べ終わるのを、私は黙って待っていた。少年が麦茶で口の中の饅頭を流し込んだのを確認して、私は、少年はどうしてここにいるの、と聞いてみた。少年は一瞬固まったが、すぐに、別に、と答えた。
「もう。答えたくないならいいけどさ。ちなみに俺は散歩。この辺、のどかで好きなんだ。君は?」
少年はまた同じ調子で、別に、と答えたが、私は少年が少しずつ警戒を解きつつあるのを感じた。私は置いてあった麦茶を取るふりをして傾け、少しだけ自分のコートにこぼした。あっ、と声を上げて少年のリアクションを誘ったが、少年はびっくりしたような顔をするだけでなにも言わない。少しわざとらしかったかもしれない。
「少年、ハンカチか何か持ってない?俺なにも持ってないんだ」
少年は一瞬悩むようなそぶりを見せたが、鞄をゴソゴソとした後、ハンドタオルを取り出して私のコートを擦り出した。私がありがとう、と言うと、少年はいいよ、と答えた。
「少年は優しいね。君みたいな賢い子は久しぶりに見たよ」
「……賢くない」
少年はタオルを無造作にポケットへ突っ込んだ。私たちはまた前に向き直り、空を見上げていた。
「無敵じゃないよなー」
「なにが?」
「大人って」
私は身体をぐんと上に伸ばし、座り直した。
「今の失敗もさ。そりゃ、子供に比べて色んなこと知ってるけどさ。それでも、間違ってることとかするんだよな。悪意なくても。それなのに、大人って無敵なフリして偉そうなこと言うよな。そうじゃない?」
少年は黙って首を縦に振った。
「だろ?だからさ、子供は反抗しなきゃいけないんだ。色んなことを考えて、間違ってると思ったことには噛み付かないといけないんだよ。それが出来るのが、立派だ。自分で色んなことを考えて、考えて、大人を説得しようとするんだ。それが、立派だ。なあ、少年」
私は、少年の方に顔を向けた。
「家出、とかね」
少年の体がビクッと震えた。途端に警戒心を取り戻した少年は体を私と反対の方に仰け反らせた。
「なんとなく、そうかなって思ったんだ。夜暗いうちに家を出て、ずっとここまで来たんだろ?」
少年は横目でチラチラと私の方を見ている。私は体の向きを直し、また空に浮かぶ雲を目で追いかけ始めた。
「夜、寒かったか?真っ暗なこの街ってどんな感じだった?それがさ、俺にはわからないし、君のお母さんも知らない。それをさ、君は今日知ったんだろ?毎日色んなことがあって、嫌なことがあって、それを変えようとして昨日いっぱい考えたんだろ?本当のところは分かんないけどさ、もう、君は充分前に進んだんじゃないかなあ」
少年は、俯いたまま動かなかった。動かないまま、5分ほどの時間が流れた。少年が何か言うまで、私も何も言わなかった。全部伝わったかは分からないし、いくつか出鱈目も言ったが。私の言葉を、小さな少年が必死に噛み砕こうとしているのがわかった。しばらくして、少年はすっと立ち上がった。そして、すぐにまた座り込んだ。
「電話、ない?」
少年がそう言うので、私はすぐにポッケからスマホを取り出し、電話の画面を開いて渡した。
その後、私と少年が待つ公園に、バタバタと雄介母が走ってやってきた。私が雄介君に携帯を貸したことを伝えると、とても感謝された。彼女は私のことを知らなかったようで、近隣に住むママ友の子だとは気づかれていないようであった。少年は帰る前に、ポケットから饅頭をもう一つ取り出して私に手渡した。もう要らないから、と言うことだそうだ。
家に帰ると、母親がリビングのソファーで寛いでいた。
「あら、長いこと探しに行ってくれてたのね、ありがとう。さっき雄介くんが見つかったからって、お母さん挨拶に来たよ」
母はそう言いながら何かをもぐもぐと食べている。
「何、それ?」
「ああ、お母さんが迷惑かけたお詫びにって持ってきたのよ。あんたのもあるよ」
母が指差す先には、見慣れた大きな饅頭が一つ置かれていた。私はポケットに手を入れて、麦茶をもう一本買いに行くことに決めた。
少年 山上りん @YamagamiRin30
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