第21話 『カリフォルニア・コネクション』おれにもあり得たかも
さて、FMエアチェック少年と化していたので同世代に比してTV視聴時間少な目、と書き、そんななかでも視たのは確かな数少ないドラマタイトルのなかに『熱中時代』を挙げたが、全話、熱中して追うほどではなかった、とも書いた。でこの水谷豊『カリフォルニア・コネクション(作詞阿木燿子作曲平尾昌晃)』が主題歌になってた刑事編も多少なりとも見たのでミッキー・マッケンジーの演技している姿なども覚えているし、その後主演二人の結婚→離婚、みたいな流れも当然覚えているし、だがそれは「大雑把」に、ということであって、ドラマのストーリー含め、水谷豊とミッキー・マッケンジーがいた。『カリフォルニア・コネクション』が主題歌だった。そして『カリフォルニア・コネクション』、コーセー歌謡ベストテンでフルコーラス流れるレベルでヒットしたし、エアチェックしたテープでヘビロテで聴いたのは間違いない、といった程度のこと以上は覚えていない。ドラマのなかの二人はどうなったのか?とかわからない、ということだ。
さてそれはさておき、今回は厨房時代というよりも、学齢期に達するちょっと前のところまでさかのぼった話にしようと思う。『カリフォルニア・コネクション』に絡める意味でも。
で、これも例によって、ネット上いろいろな場所で繰り返し書いたことでもある。
で、あるが、まあそのことの「詳細」があきらかになる、ってことでもあるので、二番煎じとかいうようなことにはならないはずである。
一家四名、パスポート使って沖縄から本土上陸し、最初に住んだのは相模原市の小田急相模原駅最寄りの、部屋の窓から眺めて、前方数十メートルの位置に「行幸道路」、その向こうに小田急線の線路、手前、道をはさんだ向かい側は桑畑、といったロケーションの二間のアパートであった。
で、小学校にあがってしばらくの時期まで、2年強だったか3年弱だったか2年弱だったか、それくらいの期間いたのだが、自分は「幼稚園」というところにまったく通わなかったわけである。沖縄にいた時分ももちろん何かよそに「通う」ようなことは一切なかった。なので幼児のころの暮らしは自分の住まいの周囲、「幼児の徒歩行動圏」の範囲ですっきりすべて完結していたのであった。
つまり小学校にあがるまで、集団生活経験皆無。そしてたまたまなんだがご近所に男児皆無だったので、ごく少数の女児としか交流がなかった、ということである。
なもので沖縄、那覇の邸宅暮らしの記憶に関しては、「邸宅内」でレコード聞いたり、歌番組に合わせて直立不動で歌ったり、あとは「音楽教室」だったので、大人の「生徒」が多数集まった時の三味線やら琴やらの、「古典」のゆったりしたテンポの響きのだったり、とか、つまりは大概「室内」のことばかりなのであった。
ま、那覇のなかでもほんとに「都心」みたいな感じの街中だったし、家の周りは交通量多い車道ばかりだったし、幼児がサクッとフラフラできるような環境ではなかったので、自然とそういう流れになったのであろう。
でオダサガ(「小田急相模原」だと表記長いので以下この俗称とする)のアパート暮らしになって、那覇に比べると、多少は「都会のゴミゴミした感じ」は和らぎ、何せ道はさんですぐ桑畑が広がってる感じだったし、まずはぼつぼつ幼児なりに「外遊び」に興じるようになっていった。むろん最初は「ひとり」で、である。
そこに現れたのが、カレンであった。いやほんとにカレンとしかいいようがなく、当時もフルネーム名乗ってたような記憶はないというか何せ幼児同士の同世代同士だし、そこいらは年齢なりの適当さってことであろう。
近くにあった米軍住宅に住まう軍人一家の娘さんということだ。座間キャンプもほど近い位置だったし。金髪碧眼の典型的アメリカ娘という印象。ハキハキしたおちゃっぴいさん、みたいな。
カレン、普通に日本語話者だった、というかまあ自然のバイリンガル状態だったので、会話は日本語話者同士、幼児なりに普通に行われた。
で、二人何をして遊んだか、だが、まあいろいろな遊びをしたんだろうとは思うが、とにかく覚えているのは「お店やさんごっこ」オンリー。なにしろ露店をひらいた。桑畑の前に。で、商品を並べた。まあ、石とか花とか草とか小枝とか桑の葉とか、そこいらへんのものを商品に見立てて、並べて売ったり買ったりの役を交互にやってた。
ロスに行って、二人でマルホンド・ドライブあたりで一旗あげましょうよ、とかなんとかいう会話があったのかもしれないし、なかったかもしれない。なにしろかなり前の回で書いたが「自我の芽生え」みたいなものは小5くらまで待たないと訪れない鼻たれ小僧だったんで、ここいらの細かいこともほぼ何も覚えておらず、まあ大概のことはカレン主導で行われたのではないか、と。この、うすのろめー、とか思われつつ。
さて、で時折カレン宅にも招かれ、アメリカ式の歓待を受けたりなんぞもした。その記憶はある。自我の芽生えまったく訪れていない鼻たれ小僧なのに記憶ある、と言い切るのは何故というに、強烈なお母さんがいたからだった。カレン母、いかにもな軍人の妻だった、ということだ。
カレン母も全く普通に日本語話者、ネイティブなのか?ってくらいに日本語使い切っていたので会話の不自由はまったくなく、で、母娘の間では確実に英語も使ってたのでカレンの「バイリンガル」な様子もみたわけだ。
で、基本、歓待されているので、概ねにこやかにおだやかに事は運び、お母さん手作りのお菓子舌鼓をうったりする流れなのだが、そんなことよりなにより、とにかく軍人教育ってことなのかなんなのか、なにかちょっとした粗相みたいなことがあると、よそのうちの子供だろうがなんだろうが、招いた客だろうがなんだろうが、とにかくいきなり烈火のごとく怒りだすのであった。
そういうよくない記憶なのでこれまた細かいことは覚えてないんだが、まあおそらおくお菓子食べてる時の食べ方のマナーとかそういうようなことだったような気がする。ボロボロこぼす、とか、スプーンやフォークつかうべきところを、手づかみでいっちゃうとか、いかにも鼻たれ小僧のやらかしそうな不具合はひととおり全部やらかしたんじゃないか、と。で都度烈火のごとく怒られる、と。
これは、ほんと諭す、とか、たしなめる、っていうレベルでなく、ガチギレするのである。
まあ、そんなことがありながらも、1度の訪問では終わらず、度々行ってたとは思う。おそらくまあカレン主導で連れていかれたんだと思うが、そのへんも定かではなく、あるいは自分の家ではありつけないようなお菓子につられて行った側面もあったかもしれない。で、怒られ体験も1度では終わらずだったわけだ。おそらくその都度なにかで怒られていたんじゃないだろうか。
それだけ怒る、しかし頻繁に呼ばれはする、ということは、もしかしてそこそこ何かこいつには見どころがあるし、であるなら、鉄は熱いうちに打てっていう心持になっていたのかもしれない。ま、他人の考える事なのでまったく見当違いかもしれんが。
尚、ここの家の「お父さん」には会った記憶がない。それから、うっすら、自分以外に数名、同年代の「おともだち」もカレン宅にいたような記憶もあるんだが、その人らの顔や名前はまったく覚えてない。おそらく女児のみだったろう、と思う。
なにはともあれ、小学校あがる前、幼稚園には通わず、オダサガ、駅徒歩圏のアパート建物の手前の路上で、桑畑を背にして、カレンとささやか店を開いたり、その母親に菓子をふるまわれながらも叱咤激励されたり、といったようなあれこれの光景が、『カリフォルニア・コネクション』を聴くたびに浮かんでくるのだった。
「ことばをーこえーたーーあいもあーるはあずうう」、いや、でも言葉こえる感じではなかったな、日本語上手かったので。母娘ともに。
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