第14話 78/79と24/25の世情を比較する。
ってことで、構成きめきって推敲やりきってガッチリ固めてある「作品」を予定にしたがって小分けにしてアップロードしているわけではないこの小説なので、まったくもってあさっての方向に話は飛ぶ。なぜそうなるのかというと、「文春砲」の弊害がどんどん出てきて、ジャニーズ、宝塚、松本人志、中居正広とあれこれ攻撃、排撃の気運が高まりまくって、今これを書いてるちょっと前、2025年1月27日から28日未明にかけて、おそらく歴史に残るであろう「フジテレビ記者会見」が長時間行われ、問題追及する側の「記者」連中の非道さが浮き彫りになって、世論の流れもどっちに転ぶかわからない情勢になっているからだ。ま、自分は「反文春」側なのは言うまでもない。
78/79だの24/25だのって、パット・メセニーの名盤『80/81』っぽいよなあ、ってまあそれにかこつけて書いてますよ。そりゃもうね。
で78/79あたりの細かい雰囲気を振り返るために調べようとすると、やはりきょうびのグーグルのポンコツさ加減はいかんともしがたく、そこはそれ国立国会図書館デジタル送信サービスに頼らざるを得ないわけだが、これが実に威力を発揮してくれて、グーグルでは得難い知見がどんどん入ってきますわ。
そこであらためてその存在を見直すべきと痛感したのが「ニュー・ミュージック」に特化した評論家富澤一誠の当時発行の諸々の著書である。
リアルタイム中2の頃、FM雑誌欠かさず購入してたので富澤一誠のレビューの類は日常的に接しまくりの日々で、しかし、なにしろ「24時間テレビ」を拒絶するくらいな中2病絶頂期だったので、富澤一誠のやたらアツい感じの語り口に関しては当時全然肌に合わない気がして、完全に舐めてかかってて、そんなに真面目に読んでなかったんだけど、今読むと「時代考証」の資料としては凄い高価値なのではないかと大げさでなく目からウロコの落ちる思いなのである。
陽水単独で取り上げた著書、ニューミュージッククロニクル的な幅広いレビュー集めた著書、諸々読める状態になっている。それをここで喧伝しまくっても著者には一円も入ってこないのだろうからやや心苦しい面もあるけど、何しろいまは「戦時」みたいなものと認識しているので、ご勘弁いただこう。
国立国会図書館デジタル送信サービスで閲覧可能な書籍のなかに、その富澤一誠著『ニューミュージックの衝撃(FM選書)1977年9月発行 共同通信社』という一冊があり、著者自身の音楽との出会いから始まって、自伝&ドキュメント併行的な体裁で1959年から1978年までの軽音楽史をざっくり記す様相を呈している本である。
その226ページから記載されている、終わりから7番目のエピソードが「陽水マリファナ事件の波紋 1977年(Ⅰ)」と題されたもので、現在ググってウィキなどを見てもあまり詳細のわからない当時のことが詳しく記されている。
当時中1の自分は、まだそれほど井上陽水の人となりに興味を持っていなかったので、何だか大騒ぎになっていたなあ、くらいな大雑把な感じでしか何も覚えていないため、このような書籍のあることは非常に助かることである。
まずマリファナ事件の1977年10月11日の公判における判決前の陽水のことば。
「わが国における現行の大麻取締法がある限り、私は再びこの法を犯すつもりはございません。なぜなら、国の決定に逆らうのは悪であり、加えてその決定には国の最高の機関が使われ、可能な限りの資料が集められ、かつ吟味された結果だと私は信じるからです。(1977大麻吸引裁判・意見陳述書)」
で、1977年当時の世情だと、この文言に対し、おとなしすぎてガッカリ、みたいな反応になるわけだ。なぜ開き直らない!?みたいな。これ2025年だったら、「すぐに罪を認めたのは立派」みたいなのが普通のレスポンスだろうと思うが全然ノリが違う。「すぐに罪を認めたのは立派」と思ったのは当局のみで、それゆえ即日判決が出て執行猶予もついた、という流れ。
客側、大衆側は皆一様にその陽水の態度に「がっかり」した。というような、あれこれ、が富澤著書には細かく書かれている。
リベラル寄り識者、飯沢匡、永六輔、が「反抗」の素振りを見せない陽水と、学生運動盛り下げるばかりの「ニューミュージック好き」の若者たちをまとめて斬っている調子のコメントが東京中日や報知に載っていたりして、それが引用されてもいる。
つまり「マリファナやるなんてけしからん!」っていうのではなく、「マリファナやるんだったら徹底的に国家と戦え!」っていうのが当時のマスコミ世論が作り出す「民意」で、陽水の言動はその民意の賛同を全く得られず、それがためなのか翌年78年リリースのアルバムwhiteはそこそこ売れはしたものの、前のほうの回で大きくとりあげたシングルカット曲『青い闇の警告』は惨憺たる売り上げ成績に終わり、陽水スピード復活!をアピールするような状況にはならなかったわけだ。
2025年現在、薬物関連で芸能人逮捕とかあった場合、1977年の永六輔や飯沢匡のように、それいけ、やれいけ、といった煽り方をする文化人など全国流通の「メジャー」紙上にはまずいない、というか載らないだろうし、ユーザーたる若年層も犯罪行為そのものに対し「がっかりしました」と言うのみなのが主流層であろう。逆に陽水の1977年の言動、「素早く罪を認めるとか先見の明がありますね」っていう評価にすらなるかもしれない。きょうびの若年層の感覚なら。
とにもかくにも1978年、執行猶予中にアルバムだしてアルバムそのものはチャート3位、しかしそこからのシングル曲2曲は圏外、っていう実に微妙な評価を既存ユーザーから受けていたその時に、あまり前後の事情は飲み込んでいない状況で『青い闇の警告』に直観的に強く反応した中2の自分なわけだが、互いの事情は全く別個であるにせよ、「孤立感」「孤独感」のようなものは作者陽水と共有しあえてたのかもしれない。ま他所様の胸中まではわからないことではあるが。
さて、78年から79年にかけてのヒットチャート内に思想論争を巻き起こした曲が各年に1曲ずつあって、それは78年沢田研二『ヤマトより愛をこめて』79年さだまさし『関白宣言』なわけだが、前者は映画内の特攻描写への拒絶感、後者は家父長制への拒絶感、という、2025年と変わらぬ左翼からのいちゃもんなわけだが、当時自分はどう受け止めていたのか、というと、特にそういう左翼的気分に影響されてこれらの曲を嫌ってはいなかった。いなかったが、おそらく他の厨房仲間以上に、左翼的批判の雰囲気は肌身に感じる場所にいて、それは親がインテリ層なおかげで「赤旗」を日曜版も合わせてとっているような家に居たからだ。
こちとら純文学系小説をズリネタにするくらいなので、ある意味「活字中毒」気味でもあったし、赤旗もそこそこ隅々まで読んだ。その紙面の内容に賛同せずとも。というより何しろ赤旗のことでもあるし、敵陣営攻撃みたいなものも数多く載るわけで、その筆致の鮮やかさに惚れ惚れするようなところもあった。
当時は民社党系の労組「同盟」批判キャンペーンを紙上で繰り広げており、それを読む限りにおいては同盟組合員という者どもは何しろ極悪非道の鬼ばかりであって、放っておいたら日本国における労働運動そのものが壊滅してしまいかねない腐敗物質のようなものであるゆえ、断じてその存在を許してはならない、といったような激烈な口調で冒頭から煽り、以下、具体的に同盟内部でどのような醜悪な事態が進行しているのか、を事細かに描写してあったりした。その場におらず、他人事として読むと、それはそれでなかなかに面白いと感じる文章力だったような気がする。気がするんだが、かといって、よしそれならおれも同盟を攻撃しよう、などとは露ほども思わなかったし、まあ、赤旗読む意味というのは自分にとってそれ以上でも以下でもないただの一娯楽であった。というか、同盟のように厨房にとってあまり身近でないものが批判対象になっていた場合はそういう態度でいたのだが、その他数多の「文化芸能」批判に関してはそうはいかない。
で、当時の「文化芸能」批判の目玉だが、そりゃ「ヤマト」や「関白宣言」もやり玉にあがってたような気もするんだけど、あまり覚えてないし、読んで印象に残るような檄文でもなかったんだろう。そんなことよりよく覚えているのが当時「猥褻」めぐる裁判やってた大島渚監督作品映画『愛のコリーダ』の件である。
当時の「赤旗」のことゆえ、そりゃもう「ポルノ」批判急先鋒の姿勢物凄く、ほんとうに今でもその語句が飛び出す絵本のようにありありと目の前にどーんと浮き出てくるくらいな感覚あるんだが、『愛のコリーダ』さんざんくさしてくさしてくさしきって、しまいに「愛は懲り懲りだ」とあったのだ。これはなかなかなインパクトだった。「愛」ですぜ。「愛」に対し「懲り懲りだ」と言ってるのである。凄い振り切り方ではないか。
で、純文学をズリネタにする年頃、中2病発症中の者ゆえ、これに対して、「そうそうその通り」とか「そこにしびれるあこがれる」っていう反応にはならず、むしろ「いやいやいや、そんなことよりおれにも『愛のコリーダ』見せやがれ!」って気分の方が盛り上がって、何言ってやがるんだ取り澄ました調子でこのこのこのーっていう批判的な心持を「赤旗」に対し抱くようになり、以降ずーっと政治的には「非共」のスタンスを貫く者となった。
で、ひるがえって2025年なんだが、なにしろ日本共産党はトランスジェンダリズム推奨側に立っているおかげで、セックスワークイズワーク側にもいる、っていう、ちょっと何が何だかわからないことになっている。「愛は懲り懲りだ」とか言ってたあれはなんだったんだろう。って話なのである。いまだと逆にトランスジェンダリズムをクリティカルに捉える側から「もう一度愛は懲り懲りだと言ってくれ」って言われちゃうくらいになっているわけだ。まったくもってわけがわからない状況であることだなあ、と思う今日この頃である。
ちなみに自分は現在、「文春砲」を代表する「推定有罪報道」と、
「トランスジェンダリズム」と、この2本立てで批判的言動を繰り返し実行している。それらのものが醸し出す「全体主義傾向」への批判的思考を根底にすえてのことである。
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