第13話 小さな日常『バス通り裏(森山良子)』等々

 さて前回の「壮大」な、っていうのと逆な作風っていうとまあ、日常的な細かいことを、朗々歌い上げ白玉音符多めではなく、音数言葉数多め黒玉音符多めで、淡々と描写していくような曲ってことになるが、こういうのもそりゃ70年代にはたくさんあった。で、タイトルに「超有名」曲の曲名を入れ込むと閲覧数あがるのかっていうと、そうでもなくなってきたので、変な考えは止めて、マイペースで好き勝手に進めることにして、森山良子『バス通り裏(作詞松本隆作曲財津和夫)』という森山良子を聞き込んでいる者以外にはあまり浸透していない1976年の曲を引き合いにだしてみる。


 これは十朱幸代主演の古いドラマの主題歌とかではもちろんないが、1976年の時点でその頃のことをノスタルジックに振り返る内容の曲である。「日常」のささやかな場面を歌うってことだと、既にかぐや姫も出てきて大ヒットしていたし、でも完全にそっちのテイストに振り切りはしない松本隆節、しかも財津和夫メロディー乗せての、という小気味よい仕上がりの曲である。森山良子ナンバーなのだが、朗々歌い上げ感もなく、終始サラっとした感触。


 当然、ベストテン番組でない何かで聴いたんだろうと思う。NHKFMとかかな。流行とかチャートとか関係なく、実績のあるミュージシャンがアルバムで新譜出したりした場合に、そこから数曲ピックアップして紹介する、っていうような番組もそこそこあったし。前述の陽水『青い闇の警告』を知ったのもその手の番組だろうと思うし。


 森山良子に関しては、そういう紹介のされ方する機会もそこそこ多かったんだと思う。なので他に「ベストテン」で聴いてはいないけど知ってる曲として『歌ってよ夕日の歌を』とか『あなたがいるから』とかいろいろ浮かんでくる。親の所有するベスト盤には収録されていないような諸々の曲。


 さてその「日常」のささやかなことをサラっと、そんなに深刻にならず、感情込め過ぎず歌う、たとえそれが恋愛絡みのことであっても、っていうような範疇の名曲ってことで即思い浮かぶのは太田裕美『しあわせ未満(作詞松本隆作曲筒美京平)』なわけだが、これは1977年1月20日発売。これよくよく歌詞読み込むとけっこう暗い内容なんだがメロディーライン、アレンジ、太田裕美の歌い方も相まって「悲しいんだけどなんか明るい」感じになっているわけだ。


 で、多分そんなに関連性はないんだろうけど、その頃日テレで中村雅俊主演でやってた「ゆうひが丘の総理大臣」的な青春ドラマのような、多少の「波乱」はあっても大カタストロフには至らない安心感みたいなものを提供しまっせー、って感じなのがまさにその道のプロ、さだまさしの『木根川橋』や『パンプキンパイとシナモンティー』等である。


 『パンプキンパイとシナモンティー』に関しては、中学卒業間際、吹奏楽部内

の最後のお楽しみカヴァーバンド大会にて、購入して間もない5万6千円のモーリスのスチール弦のアコギで7カポのポジションで速いアルペジオ速いポジション移動を破綻なくこなしきった。アコギギタリストとして頂点に達した頃と言ってよかろう。いやまあそんなに大げさな話じゃなく、高校以降はだんだんジャズ方面に転換していったので、モーリスのギターせっかく買ったはいいけどあんまり使う機会なくなったってことである。


 ま、しかし、ささやかな日常系とはいっても、明るい、暗い、と2系統あるわけで、上記さだまさしの2曲は明るめなわけだが、暗い方だと本家本元はなんといってもかぐや姫だろうと自分も思うわけで、そのなかでも好みは『赤ちょうちん』かな、と。やはりその「速いアルペジオ」が出来るようになると、それをやりたくなる、っていう心理が働くわけで、うってつけなのが『赤ちょうちん』なわけだった。これは弾き語って楽しい曲上位に入るなあ。個人的には。それとかぐや姫はアルバム「三階建ての詩」は持っていて、その1曲目の『人生は流行ステップ』は明るさがにじみ出る感じが大変良いと思う。


 で、この話は概ね「厨房がリアタイで聴いてた音楽」を基本にすえているので、高校以降に書籍やら友人知人からの情報やらで聞き知ったあとづけの知識のものはいれてない。ささやかな日常系といったらURCレーベル界隈とか、表のメジャーな放送には乗りにくいような様々な人々がそりゃもう数多くいるのはアラ還の今現在把握はしているけれど、ネット無し、youtube無しの時代の厨房というものの情報収集力なんてのは大体この程度のものなのであった。


 なのでまあ、高田渡は『自衛隊に入ろう』くらいは知ってたけど、その他、細かいことはよくしらなかったし、遠藤賢司や友川カズキなどは厨房の頃はほんとうに全く知らなかった。岡林信康は大晦日から元旦にかけてやるような番組で何度か見た。


 それを踏まえ、中3までに知ってた小さな日常の歌のあれこれを続けると、布施明『陽ざしの中で(作詞関真次吉川忠英)』はのんびりとした和み感覚という点では全邦楽曲トップと言ってよかろう。これは最近、吉川忠英本人歌唱の方も動画で初めてチェックしてみたんだが、よりアコースティック感の強いサウンドになっていて布施明バージョンとは違う味わいがあった。


 さて、いよいよこの小さな日常の歌の範疇で、こ、これは!!凄いっす!おみそれしました、と最も強く思う歌について触れようと思う。それは『坂道 (作詞小椋佳作曲井上陽水)』で、作詞者作曲者各々の本人歌唱バージョンあるが、自分が先に、厨房の段階で聴取済みだったのはLP『夢追い人』持ってた関係で小椋佳版の方であった。陽水を収集し終えたのは高校以降のことだったので。ということで小椋佳バージョンを前提にして語るわけだが、そもそもこれを「小さな日常」という範疇にいれてよいのかどうか迷うところではある。


 ま、しかし関東南部それも丘陵部に住むと痛感するのが圧倒的な「坂道」の多さなのであり、多摩武蔵野地区もそうだし、横浜あたりも臨港部から内陸のほうへちょっと入ると丘と坂ばかりなところたくさんあるし、最近あまり足を運ぶ機会ないんだが都心、区部も場所によっては坂ばかりというし、北関東の広い平野部を除くと、そりゃもうそこらじゅう凹凸の多い場所ばかり、なわけだ。首都圏全般。


 ということで、シンプルに「坂道」についての考察を歌にしてみる、ってことは、「日常」のありふれた景色についての考察ってことと同義であると言えよう。


 というかサビで「誰かが登り坂といい 誰かが下り坂という 僕にはどちらかわからない 僕にはわからない」と言ってるわけで、考察したけど答えはでない、と。


 そりゃまあ確かに自分にもどっちかはわからない。


 そんなわけで小さな日常あれこれ考え巡らせてもわからないことだらけであることだなあ、という諸行無常の響きに満ち溢れた曲となっている。


 そしてこの小椋佳バージョンの特筆すべきところは例によって巨匠星勝の凝りに凝ったアレンジの妙味にあるわけだが、なかでも全曲3分30秒という短い尺であるにも関わらず歌部分が2分45秒あたりで終わって残りおよそ45秒弱、インストのみの「後奏」エンディングが続くということである。「誰ひとりこの坂道の 果てを知らないからでしょう」っていう歌詞にかけてこういうことをしているのかなんなのか。


 このアルバム『夢追い人』全体が銀行員小椋佳海外短期赴任時に製作ということもあってLA録音、海外ミュージシャン起用の、当時最新鋭のフュージョンサウンドで出来ているのであり、リー・リトナー、ジョー・サンプル等のお馴染みの名前も見える。で、小椋佳作曲の曲は一つも入っていない。しかしチャート1位獲得している。


 今回この小説執筆にあたってそう多量ではないものの、年鑑やらなにやらを随時確認して書き続けてるのだが、反戦フォークの時代が吉田拓郎の登場によって終わり、それが「ニューミュージック」になり、きょうびの言葉でいうところの「J-POP」になっていった、という大まかな流れっていうのは、まあ自分も、そうそう言われなくてもわかるわい、と自負していたんだが、細かい各種論評をなにからなにまで全部が全部把握はしておらず、今般小森陽一(1953生 国文学者)によるニューミュージック批判の語句「吉田拓郎、井上陽水、小椋佳、松任谷由実の反革命四人組」っていうのがあるのを吉田拓郎のウィキペディア見て初めて知って、あはは、そういう評価なのね、と苦笑いしつつ、まあ「反革命、上等」としか言い様のないことなのであるが、なにはともあれ、サウンド面での洗練の極致みたいなものは、この4名のアルバム製作過程で、一旦もう既にこの70年代中盤で尽くされたようなところがあるんだろうなあ、とはあらためて思った今日この頃である。
















 








 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る