新薬カシコナール
人鳥暖炉
第一章:新薬カシコナールの着想
かつて夢見た未来では、あらゆる病は克服されているはずだった。
なるほど、技術的な面に限って言えば、確かにそれはほとんど実現したかもしれない。しかしながら技術的に治療が可能であるということと、実際に治療を受けられるということはまた別である。
要は、金の問題だ。
科学技術の進歩は新たな薬の開発を手助けしてはくれたが、同時に安全性のために“調べることができる項目”を増やしもした。そして人間に使用する医薬品に関して言えば、『調べることができる』というのが『調べなくてはならない』とほぼ同義となる。
なぜなら、調べることができたのにそれをせず新たな薬を市場へ出した場合、万が一何かあればその薬を開発した企業は相当な社会的批判を受けることになるからだ。
加えて監督官庁も、医薬品の認可にあたっては調べ得る限りの項目についての検討を要求してくる。彼らにしてみれば、それらの検討にいくらかかろうとも自分達の懐は痛まないし、逆にもし副作用を見落として薬害事件にでも発展すれば自分達の責任も問われるのだから、当然と言えば当然である。
しかしそれらの検査には多額の費用がかかり、そしてそれを回収するためには薬価を高く設定せざるを得ない。その一方で、日本の財政は相変わらず芳しくない状況であり、年々高騰する医療費に頭を痛めた政府は、医療費の自己負担割合を大幅に引き上げた。
こうして、ただでさえ高価な医薬品は、ますます庶民には手の届かないものとなったのである。
この現状に頭を抱えたのは、技術的には実現している薬が経済的理由で手に入らない貧しい患者達だけではない。今となっては富裕層にのみ購入可能となった高額な医薬品を売る側、つまり我々製薬企業もまた、悩みを抱えることになった。
なにしろ、いくら一つ一つの医薬品が高額で売れるとは言っても、購入者である富裕層の絶対数は少ない。その上、そうした人達は普段から食生活などで健康に気を遣えるため、病気にかかる割合はむしろ低めである。
それに加えて、ほとんどの病気に対する治療薬はライバル企業も開発している。元々少ないパイを多数の企業で奪い合っているのだから、大した利益があがらないのも当然であった。
「ほんで、なんかもっとこう、ばーんと売れるようなもんは作れんの?」
社長の言葉に、俺は内心で溜息と悪態をついた。
それが難しいのだという話を今したばかりではないか。
「ですから今も申し上げた通り、多額の研究費をかけて新薬を開発したところで、ごく限られた数の人間にしか売れないので、たいていの場合採算が取れないのです」
内心のうんざりした気持ちをできるだけ表面に出さないよう気をつけながら応える。
まったく、下手に第一研究部長などという立場に昇進してしまったがために直接社長の相手をしなくてはならない機会が増え、かえって俺のクオリティ・オブ・ライフは低下している気がする。
「いや、それはさっき聞いたし。それを踏まえた上で何か考えつかんのって言うてるんやん? なんか新しく作って売り出さんと今の主力製品の特許がどんどん切れてってジリ貧やで?」
そんなことは言われるまでもなく分かっている。特許が切れればすぐに後発医薬品メーカーが同じ成分の薬を売り出すため、ただでさえ減っている売上が更に下がる。そうなる前に新たな主力となる製品を開発しなくてはならない。
だが、この時代にいったいどんな薬を新しく作れば売れるというのか。
しかも、こういう時代にこそトップには有能な人材が求められるというのに、うちの会社ではそこに座っているのが他人に何か考えろと言うだけで自分は何も考えていない馬鹿なのだ。これでどうしろというのだろう。
技術的にはいかなる病気であれ治せるようになった今でも、馬鹿は死ななきゃ治らない。馬鹿につける薬は無いのだから。
まったく、そんな薬があれば、俺が真っ先に買って目の前のこの馬鹿にぺたぺたとつけてやるのに!
そこまで考えて、俺はハッとした。そんな薬があれば――多くの人間に売れるのではないか?
馬鹿につける薬と言うと語弊があるが、賢くなる薬と言い換えれば欲しがる人間は少なくないはずだ。少なくとも、特定の疾患にかかっていて尚且つ金もある人間よりはずっと多いに違いない。
何の病気に対する薬を開発すべきかということばかり考えていた俺は、なんと間抜けだったのだろう! そうだ、健康な人間でも欲しがる薬こそが売れるのだ。なにせ健康な人間の数は、特定の病気の患者と比べて圧倒的に多いのだから。
だが一番の問題は、そもそも本当にそんな薬を作れるのか、ということだった。
文献を調べるうちに俺は、ある種の抗てんかん薬や免疫抑制剤には遺伝子の情報を読み出しやすくする作用があり、これにより学習能力を強化することができるという情報を得た。
人が何かを新しく学習する時、神経細胞は他の神経細胞との接続を強化する。そしてそのためには、ある遺伝子の情報が神経細胞内で読み出される必要があるのだ。
ところが、遺伝子を構成する物質であるDNAの一部は、繰り返し折り畳んだ手紙のようにコンパクトにまとめられ、そのままでは遺伝子の情報が読み出しづらい状態になっている。
学習に必要な遺伝子がこの情報が読み出しづらい領域にあると、神経細胞間の接続強化もなかなか進まなくなってしまう。
学習能力強化薬を使えば、コンパクトにまとめられたDNAを緩んだ状態にすることで、神経細胞間の接続強化をスムーズにすることができるのだ。
しかしながら、これらの薬は健康な人間が使用し続けるには副作用が強すぎたため、学習能力強化に使用するというアイディアは結局頓挫したようだった。
とはいえ、多種類の化合物を調べれば、その中には学習能力強化作用は十分にあり、かつ副作用は弱いものもあるはずだ。
そう踏んだ俺は、人を賢くする薬の開発を社長に提案することにした。
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