長瀬が髪を切った理由

山岸マロニィ

長瀬が髪を切った理由

 一学期の終業式の日。

 長瀬が髪を切ってきた。


 長瀬は色白で、少し病弱なところがあって、時々学校を休む。その度、中学から同じ高校に進学した俺に、ノートを見せてと頼んでくる。


 長瀬は美人だ。ぱっちりした目をしていて小顔で、サラサラのロングヘアーを風になびかせている。だから、クラス、いや、学年のアイドル的な存在だ。清楚系アイドル。本人は少し迷惑そうだが。

 そんな彼女が、俺だけには気兼ねなく話し掛けるから、友人の智則なんかは、

「あいつ、おまえに気があるんじゃねーの?」

と冷やかしてくる。

「ちげーし。ただ同じ中学だっただけだし」

「天野だって同中おなちゅうだろ? あいつは女だぜ?」

「天野はオタクだから、落書きだらけでノートが見にくいんだと」

「オタクで悪かったわね」

 天野が俺の前の席に座り、机に肘を置いて俺を覗き込んだ。

「そういう木梨こそ、長瀬ッチが好きなんじゃないの?」

 天野の細めた目が、悪戯っぽく俺を見る。

「バカ言えよ! 俺は、頼まれるから仕方なく、ノートを貸してやってるだけだよ」

 そう言いながら顔を背けるが、こういう時、耳が赤くなるのは、どう隠せばいいのか俺には分からない。

「ふーん」

 言いながら天野は立ち上がった。

「……自分の気持ちに正直にならないと、いつか、後悔するよ」

 彼女は意味深な目で俺を見下ろしてから、長瀬の方に歩いて行った。


 真夏の照り付ける太陽も、長瀬の肌を焼く事はできないのだろうか。紙みたいに白い頬を、バッサリとボブに切った髪が隠す。今時あんな髪型の女子高生など、なかなかいない。

 切る前の髪型にしたって、ちょっと変わっていた。毛先が綺麗に揃った、ツヤツヤと手入れのされた腰まで届く黒髪。市松人形みたいだと、彼女の人気をやっかむ女子たちが言っているのを聞いた事がある。

 ……でも、そんなミステリアスな雰囲気も含めて、俺は彼女が好きだった。


 初めて喋ったのは、中二の時。

 体育の授業中、急に貧血で倒れたのだ。保健係だった俺が、先生と一緒に彼女を保健室に運んだ。

「ありがとう」

 ベッドに横になった彼女は、俺を見てそう微笑んだ――俺の中で、彼女が特別な存在になったのは、この時からだった。


 気持ちを伝えるチャンスは何度もあった。しかし、中学卒業の時は、同じ高校に行くし……と、貸したノートを返される時には、また次もあるから……と、自分に言い訳をしてきた。要するに、俺は臆病者だ。

 長瀬と親友の天野は、俺の事を見抜いている。天野を通して、長瀬の気持ちを確認すれば告白しやすいのではないか、なんて事も考えた。けれど、この気持ちをSNSなんかで拡散されたら、と思うと、それだけは嫌だった……一度、あいつのSNSを見たけど、かなりのフォロワーを集めてる、界隈じゃ有名人らしいし。


 だから現状、こうして斜め後ろの席から長瀬の横顔を眺める事しか、俺には出来なかった。


 ホームルームが終わると、智則と駅に向かう。

「あーだりぃ。夏休みっつっても、俺ら受験生だからさ、全然遊ぶ気になれねぇ」

 日差しが照り付けるアスファルト。陽炎を追って進む途中、智則が聞いてきた。

「なぁ、長瀬、なんで髪切ったんだろうな?」

 俺はドキッとした。考えてなかった。そう言えば、長瀬は中学の時からずっと髪が長い。髪を短くしたところなど見た事がなかった。それをバッサリ切ってきたのだ。何か理由があってもおかしくない。

 女が髪を切る理由――もしかして……。

 黙り込む俺に、智則はニヤけた顔を見せた。

「あんなカワイイ子にさ、彼氏がいない訳ねーじゃん。別れたんだろ」

 その言葉に、俺は足を止めた。

「嘘だ」

「おまえ、あれだけノートのやりとりしてて知らねーの?」

「じゃあ、おまえ知ってんのかよ、長瀬が誰と付き合ってたのか」

「俺だって知らねーよ」

 智則は適当な奴だ。思い込みを喋るから信用できない。

 ……でも、万が一、もしそうだとしたら、俺は思い違いをしていた事になる。


 長瀬は清楚で、ピュアで、しとやかで、誰かと付き合ってるとか、考えた事がなかった。

 もし、他の男と付き合っていたとすれば……。俺の中の長瀬のイメージが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。


 夏休みはつまらなかった。

 皆受験生。遊びに誘う相手もいないし、遊んでる場合じゃないというプレッシャーが、否応なく時間をすり潰してくる。


 ――そして、心の中には長瀬の事。

 今頃、どうしてるんだろうか。

 彼氏と別れた傷心を抱えて、涙しているのか。

 それとも、他に新しい彼氏を……。


 そう思い至って、俺は気付いた――もしかしたら、これは俺にとってとんでもないチャンスかもしれない。今、長瀬が誰かと付き合っている可能性はものすごく低い。フラれた心の隙間に入り込める可能性があるんじゃないか。


 俺はスマホを手にしていた。長瀬のアドレスを開く。そして、文字を打ち込んだ。


『今、何してる?』


 たったそれだけの文字を打つのが精一杯だった。ところがだ。

 送信ボタンが、押せない。

 画面を見ながら、俺は固まった。

「…………」

 どれだけ画面を睨んでいただろうか。結局、メールを削除して、俺はベッドに寝転んだ。


 ◇◇◇


 ――九月。

 すっかり受験モードに入った顔をして来た奴。遊びまくって焦ってる奴。

 そんなクラスの顔ぶれを横目に、俺は長瀬の席を眺めていた。


 ――そこに、長瀬がいない。


 ホームルームで、担任が言った。

「ご家庭の事情で、長瀬さんはしばらくお休みします」


 ……どういう事だよ? 俺は混乱した。

 休み時間に天野を捕まえて問い質した。天野は気まずそうに俺を見上げた。

「長瀬ッチに、言わないで欲しいって止められてたんだけどね……」


 ――帰りの電車で、俺は頭を抱えていた。

 天野の言葉が、脳裏を反芻する。


「長瀬っち、病気で入院してるんだ。夏休みから」


 入院と言うと、見舞いに来たがる奴が出るだろう。だから誰にも言わないで欲しいと、天野にだけは言っていたらしい。

 ――なんで天野なんだよ。俺には教えてくれないのかよ。

 ショックだった。どちらかというと、俺は長瀬と仲がいい方だと思っていた。同じ中学から進学した同級生は三人だけ。でも、長瀬は秘密を教える相手として俺を選ばずに、天野を選んだ。


 憂鬱な気分で、二学期が過ぎていく。

 きっと、天野は長瀬と連絡を取り合っているだろうから、聞けば何らかの事は教えてくれただろう。でも、俺は聞けなかった。

 ネットで調べた。何か月も入院しなきゃいけない病気って何だよ、と。しかし、命に係わる大病しか出て来ない。俺はスマホを閉じた。


 ◇◇◇


 三学期も、長瀬は来なかった。

 受験なんてどうでも良かった。とりあえず、近くの大学を受けたら受かったから、そこに決めた。


 ――そして、卒業式。

 長瀬が来た。


 前も細かったが、また痩せたように見えた……そして、前みたいな、長い髪をしていた。

 長瀬は教室に入るなり、俺の席に来た。そして、

「おはよう」

と笑った。

「天野ッチに聞いたよ。木梨クンにだけは教えたって」

 聞きたい事がありすぎて、教室には居られなかった。俺は長瀬の手を取り、屋上へ行った。


 校庭に保護者が集まっている。もうすぐ体育館に案内すると、校内放送が流れた。


「…………」


 聞きたい事、言いたい事は山ほどあるのに、時間がないのに、言葉が出てこない。そんな情けない俺を見ながら、長瀬は再び微笑んだ。

「これ、カツラなの」

「…………」

「前から病気でね。いつか、抗ガン剤の治療をしなきゃいけないって分かってて。そうしたら、髪の毛が抜けちゃうから、自分の髪でカツラが作れるように、伸ばしてたの。どうしても、卒業式には出たくて」

 長瀬は手すりの向こうを眺めた。初春の風が髪を揺らす。その姿は、俺が知ってる長瀬のままだった。

「本当は夏休みに切りたかったんだけど、治療の都合でね、夏休み前になっちゃって。あのおかっぱ頭も、カツラだったんだよ」

 そう言って、長瀬は振り返った。

「木梨クンに、みっともないところを見せたくなかったから」


 その言葉に、俺は冷や水を浴びせられた気持ちになった。

 ――俺は、今まで何をしてきたのだろう。臆病に逃げてばかりで、その癖嫉妬して、どうでもいい事に悩んで。

 その間、彼女はひとりで戦っていた。

 何も知らずに、俺は……。


「卒業したら、ちょっと遠くの病院に移るんだ」

「…………」

「だから、もう会えないと思う」

「……会えるさ」


 俺がそう言うと、長瀬は目を丸くした。

「病気を治せばいいんだろ? 簡単な事じゃねーか。これまで治療を頑張って来たんだろ。諦めたような事を言うなよ」


 風が通り抜けていく。校内放送がしんみりとしたクラシック音楽に変わった。


「場所が離れたって、いくらだって会えるじゃねーか。ビデオチャットしようぜ。毎日顔を見せろよな。弱音なんかを吐いたら喝を入れてやるから」

 長瀬の瞳が潤んだ。無言で頷く。

 それ以上、長瀬を見ていられなかった。

「卒業式に遅れるぜ」

 俺は階段に向かった。


 ◇◇◇


 それから約束通り、毎日ビデオチャットをした。長瀬はベッドの上で、長い髪のカツラを付けて、俺に笑顔を見せた。

 他愛もない話をしてから、俺は必ずこう言った。

「今日も負けなかったな。明日も頑張れよな」

「うん、おやすみ」


 しかし、毎日顔を見ていれば、否応なく気付く。

 日に日に、長瀬の顔が痩せていく。カツラで頬を隠すようにしてはいるが、分かる。点滴の数も増えて、長瀬の体と機械を繋ぐチューブも増えていく。

「……ごめん、ちょっと疲れた」

 そうやって会話が終わる事が多くなった。


 ある時、長瀬からメールが来た。

「今日は、座るのが辛いんだ。メールでごめんね」

 俺は精一杯の励ましの言葉を込めて、返事を書いた。元気になって欲しい。それだけを願っていた。


 ……ところが。

 ある日、長瀬の番号から着信があった。珍しいなと出てみると、彼女の母親だった。


「励ましてくれる事は嬉しいし、感謝もしています。娘もあなたの励ましに応えようと、頑張ってきました。けれど、私はもう、娘に頑張ってとは言えません」


 電話を切ってから、俺は呆然とした。

 電話の最後は、涙声だった。「ありがとう、ありがとう」と。

 それが何を意味するのかを、気付かない訳がない。


 俺は泣いた。

 己の浅はかさを心から後悔した。

 離れているから、無責任に励ませたんだ。いや、励ましてるつもりになっていただけだ。俺の自己満足に過ぎなかったんだ。

 日に日に弱り、苦痛に喘ぐ娘を直接見ていた彼女の母親は、俺をどんな風に思っていたのだろう。


 それから間もなくだった。

 天野から電話が来た。

 長瀬の、葬儀の連絡だった。


 ◇◇◇


 動かなくなった長瀬は、老人のように小さかった。

 死に化粧をされた顔を彩る、長い髪。花を添える手が震えた。


 ◇◇◇

 

 ポカンと日常に穴が空いた。

 そうなって初めて、俺が長瀬に支えられていた事に気付いた。

 ポキリと折れた支えをなくした俺は、時間の流れに流されるだけの日々を送っていたと思う。


 だからなぜ、同窓会に出席の返事をしたのか覚えていない。


「ちっす、木梨ッチ」

 一年ぶりの天野の声がやけに明るくて、俺は腹が立った。

 ヤケ酒で悪酔いした俺の背中を天野はさする。

「長瀬ッチからは聞いてたよ、木梨と毎日話してるって」

「俺がバカだったんだよ、あいつの気持ちも考えないで、無責任に励まして。俺が励ましてたのは結局、長瀬を励ましてる気になってた俺自身なんだよ。自己陶酔してただけなんだよ。現実逃避してただけなんだよ……最低だよ、俺は」

「でも、さ……」

 天野は俺に水を勧めた。

「二十歳でそれが分かる人って、なかなかいないよ?」

 天野は言った。顔の見えないSNSでは、善意の押し付けが正義なのだと。

「何回か炎上もしたけどさ、自分がしている事が誰かを傷付けてるって、気付いてない人ばっかりなんだなと思ったよ……それに」

 天野は、少しだけ大人びた目を軽く伏せた。

「木梨がいなかったら、長瀬、あんなに生きられなかったと思う」

「…………」

「私には、『死にたい』って言ってたから。私なんて、何も長瀬の支えになれなかったんだよ……長瀬が羨ましかった私の方が、最低だよ」


 ――それから天野と付き合って、結婚して家庭を築くなんて、当時の俺からしたら考えられなかっただろう。

 毎年、長瀬の命日には、一緒に墓参りに行く。

 今年はその後、二人で美容院に寄る。


 ヘアドネーション。


 長瀬を思う気持ちを、この髪に込めて。

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