鏡に映るはいかなるものか

チューバというのは実に難儀な楽器である。


吹奏楽においては花形であるトランペットよりは圧倒的に大きいのに音は低くて圧倒的に目立たない。いや、でかくて目立つのだが端に追いやられていて壁と同化している。


あまり知られていないことだが、楽器というのはとても季節に左右されやすい。こと冬になると、(音の振動の関係とか説明を受けたけど理解できなかったが)とりあえずピッチがとても低くなる。金管楽器に至っては金属だから熱伝導率の関係でものすごく冷たくなるのでもろに影響を受ける。


チューニングの時には毎回指揮者の顧問から音程が低いことを指摘されるけど、楽器がでかくて中の空洞も多いので一度冷えてしまうと修正がとても難しい。だから演奏しないで隅っこに座っているときは必死で息を吹き込んであっためているわけだけど、マウスピースが冷たくて唇はあかぎれしそうだし、膝の上に乗せているとそこから体温を奪われていく。楽器に命を吸われているような錯覚をしてしまうほどだ。


そして今、僕は合奏でのふがいなさについて、パートリーダーであり部長である女子の島村さんに滾々こんこんと説教を受けている。


島村さんは僕と同級生で、今年高校2年生。夏のコンクールの後に運営が代替わりをして、今は部の運営をする立場に回った冬だ。同じ低音パートで苦楽を共にしてきたわけだけど、しっかり者の島村さんに対して僕は実にぼんやりとしていてしょっちゅう説教を受けている。


普段から苦言を呈されてばかりで、おそらく日常の雑談よりもお小言のほうが多いだろう。雑談も「ふーん」「そう」ぐらいしか返ってこないし、お小言以外の言葉を一度も受けたことがない。


いや、一度だけあったな。


夏に先輩たちが引退するにあたって誰が部長になるかを全体で会議したときのこと。全員が責任を負いたがらず、そのくせ誰になることも良しとしない雰囲気で会議の牽制が続いていた。責任感の強い島村さんは立候補しようとも思っていたが、それにより自分から出しゃばった人として後ろ指を刺されることも同時に恐れていた、という話を会議の前にちらっと聞いたことがあった。


そこで僕は、島村さんについての客観的な評価を述べたうえで、部長に推薦することにした。結果、危惧していた批難はなくあれよあれよと会議は進みそのまま現体制へと落ち着いた。


その後、僕が会議の後に空き教室でマウスピースをあててぶーぶーいっていたところに島村さんが来て、いくらか感謝の言葉を貰ったような気がする。その時ぐらいかな。


「ちょっと、聞いてるの?」


ハッと我に返って、今お説教中だということを思い出した。


「あのねぇ…」

島村さんはため息をついた後お説教を続けた。よくもまぁそんなに話すことを思いつけるもんだ。いや、実際には僕が即刻ぼんやりと自分の世界に入るからそんなには話していないのかもしれない。


脇に目を向けると、楽器が無言で鎮座していた。

チューバはでかいがゆえに自立することができる。ベルを下に向けてひっくり返した形になると、まるで銀色に光るでんでんむしのようだ。


もうキンキンに冷え切っちゃっただろうなぁ、なんてことを考えながら楽器を眺めていると、天井の蛍光灯が楽器に反射して映っていることに気づいた。

自分の楽器は銀メッキであり、ポリッシュがけを何度もしているためいつでもピカピカにしてあるのが自慢だ。とはいえ、楽器を膝に乗せて出番を待っているときに楽器を鏡して鼻毛が出ていないかを確認するぐらいにしか役にたっていないけど。


目をさらに下に向けると、当然自分の足が移っている。管だから円柱に延ばされているので、自分の足が細長く見える。


ベルは床まで広がっているので、その先の島村さんの足も見える。ベルは床に向かって広がるように口が大きくなっているので、カーブミラーのように広い範囲を見ることができる。



―ん?



島村さんの足が見える。

天井も見える。

その間は?



「あっっっ!!!!」


僕は思わず大きい声を上げてしまった。


目の前の島村さんは目を丸くしてキョトンとしている。

そして目を下に向ける。


「あっっっ!!!!」


すべてを察したのか、島村さんの顔は真っ赤になった。


僕は弁明しようと口を開いたが、次の瞬間には左頬に強烈な衝撃を感じ、そのまま椅子から吹っ飛んで床に頭を打ってしまった。薄れゆく意識の中、島村さんが走って教室を出ていく後姿を見た。口の中に血の味がする。口を開けたせいで歯で内側を切ったかな。まいったな、この楽器口を使うのに…。




冬休みに入り、年末年始は部活もお休みになるので部室を大掃除し、全員で各々の楽器を清掃した。終わった人から帰っていくので、だんだん人影もまばらになっていった。


抜き差し管にグリスを塗ってロータリーの調子も完璧にして自分の仕事にほれぼれしていたところ、あとで部室に来るようにと言われた。

部室に入ると、部室には島村さんだけがいた。やれやれ、みんな帰ったのに一人だけ呼び出しでお説教かな。


と、思ったけど島村さんは何も話を切り出さない。

むしろ、何か恥ずかしくてもじもじしているようにも見える。


この冬、張り手の傷もまだ癒えぬ上にお説教で一年を終えるのか。


それとも?

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