神龍軒は岐路に立つ

月見 夕

二年前の契約

「一ヶ月以内にここから立ち退いてくれ。そういう契約だったはずだ」

 スーツの男が言い残したその言葉は胸に深く深く突き刺さり、俺はその意味を咀嚼できずにただ立ち尽くすしかなかった。

 気づいたときには男は既に立ち去っていて、呆然とした俺の目の前には契約書の紙切れだけが残されていた。

「帰ったぞー。龍之介、今日の杏仁ロールはすっげー評判良かっ……おい、どうした?」

 配達から戻ってきた兄貴は訝しむように覗き込む。暮れたガラス戸に映った俺は顔面蒼白だった。

 掻い摘んで事情を話すと、兄貴も言葉を失った。

「マジかよ……」

 俺だって何かの間違いだと思いたい。しかし懐かしい癖字は、どう読んでもサイン欄に親父の名を刻んでいる。要約すれば二年以内にここから立ち退くとの内容に、親父は何を思って承諾したというのだろう。

「何てことしてくれてんだよ、親父……」

 俺は机上の契約書に拳を落とした。

 自分の代で神龍軒を終わらそうとしていたのか。二人の子に残すまいとしていたのか。爺ちゃんの代から続く中華屋になんて縛られずに自由に生きろと、寡黙な親父はそう言いたかったのだろうか。

 ここはもう、俺にとって守るべき城になったというのに。

 脱力し、頭に巻いていた手拭いを解いたその時……玄関戸が開いた。

「あの……お店、やってますか」

 新規の客らしい女性がそう扉の陰から顔を覗かせ、俺はなんとか営業用の笑顔を張り付けた。



「辛気臭い顔が並んでたから来てみれば……あの手紙、そんな内容だったのねぇ。時限爆弾か何か?」

 翌日の昼下がり、お隣の純喫茶「シン・カテドラル」のマスター……もといママは青椒肉絲定食を啄み、そう首を傾げた。

 彼はたまにこうしてピークタイムを外して食事に来る。昨日の事情を相談すると、ママは凛々しい青髭顔を渋くした。

「契約書としては簡単な体裁ね……効力があるものかどうかは弁護士とかそういう専門家に聞いた方が良いんじゃないかしら? どうして龍明がそんな大事なことを黙ってたのか謎だけど」

 生前の親父とママは旧知の仲だ。彼なら何か知っているかと思ったのだが、俺たちと同じく何も聞かされていない様子だった。

 二年後に店を潰すなんて大事なこと、何で黙って死んじまったんだよ、親父……。

 ママが定食をつつく音だけが響く中、重い空気をものともしないように兄貴は口を開いた。

「……俺、これを機にバンドに専念しようかな」

 何も考えてない風の軽やかな提案に力が抜ける。

 多分冗談半分、本気半分なのだろう。インディーズバンドと二足の草鞋で中華屋の看板息子をしていた兄貴は元々、どこかで抜けられないか考えていたのかもしれない。

 だからこそ店を続けられないかと悩む今この場に最も相応しくなく、俺は頭に血が上る感じがした。

「お前ふざけんなよ……」

「こら中華屋弟、店先よ。落ち着きなさい」

 客なんてママしかいないのだが、彼は争いを嫌ってかそう宥めた。それはそう……だけど兄貴の言葉はすんなりと飲み込めるものではなかった。

 肩を竦めた兄貴はそそくさと店外へ逃げていく。残された静けさが余計に重さを増した気がして、俺は大きな溜息を吐いた。

 静寂を破るように、黒電話が鳴る。

「電話よぉ、弟」

「……分かってるよ」

 飯を掻き込むママが箸で電話を指し、渋々受話器を取った。

「ご機嫌よう。注文よろしいかしら」

 受話器の向こうから、いつもの鈴が転がるような声音がする。近くの病院に住まう常連客の令嬢、城之崎さんだ。

 恐らくいつもの注文だろう。毎度中華屋に向けているとは思えない内容の無茶なメニューをリクエストしてくるのだが……ちょっと今日は受けられるだけの、心の余裕がない。

「城之崎さん……今日は……」

「……どうかしたの」

 普段とは違う声で様子を察したのか、城之崎さんは疑問符を浮かべるように声を潜めた。

 こんな話をしても仕方がないのに、どうしてか契約の顛末を語ってしまう。話してから「しまった」と思った。なんで俺はこの子に話してるんだろう。気が動転しているにも程がある。

 案の定、返ってきたのは冷めた言葉だった。

「そんなこと、ひとりの客でしかない私に関係あると思う?」

 ごもっとも過ぎる返答だ。その問いかけはあまりに真っ当で、俺は自分の馬鹿さを呪って受話器を握りしめる他なかった。そうだよな。この子には関係ない。俺は何を、事情の一端を背負わそうとしているんだろう。話して楽になりたいだけじゃないか。

「興が醒めた……今日は結構よ。ただね」

 失望した、とでも言いたげに大きな溜息を吐いた彼女は……少しだけ言い淀むように溜めると、やがて意を決したように口を開いた。

「どうして最後まで足掻かないの? 手をこまねいてただ黙って終わる気? 貴方の店を背負う思いってそんなものなの?」

 珍しく感情を露わにして、城之崎さんは勢いに任せるようにそうなじる。電話越しに殴られたような、すぐそばで胸倉を掴まれた気がして、俺はただ言葉を失った。

「……約束したじゃない。私だって、歩くためのリハビリを始めたのよ。その気にさせておいて勝手に無くなろうとしないで頂戴」

 それだけ言って電話はがちゃりと消えた。しばらく耳の奥で、怒りの訴えを反芻する。

 それは彼女の一種の悲鳴のようでもあった。年下の少女にどこまで言わせてるんだ。俺は、俺は――

「お嬢、何て?」

 しばらく受話器を抱えたまま呆けていた俺に、ママはふっと笑みを向けた。会話は漏れ聞こえていたようだった。

 黒電話をあるべき姿に戻し、俺はそばの番台によろよろと腰掛ける。

「……最後まで足掻け、だってさ」

「お嬢の言う通りね。ただ待ってたって薔薇色の未来なんてやって来ないわ。しつこく追いかけて捕まえなくっちゃ」

 ママはそう言い、とどめのようにウィンクを寄越して、俺は思わず天を仰いだ。まったく……本当に絵面が強い。

 そうだよな。三代続く老舗の看板を、やっと軌道に乗ってきた経営を、新たについたお客さんの笑顔を、そして何よりあの子の「もう一度歩きたい」という思いを――どうして諦められるんだ。

 それを背負わないで、何が三代目だ。

 両手で顔を張り、弱気な自分を追い出す。考えろ考えろ考えろ。この場所を失わないための秘策を。突破口になる何かを。

 番台の中に突っ込まれた郵便物の山を漁り、役に立ちそうなものを手当り次第引っ張り出しては投げ、散らかしていく。

 やがて見つけた一枚のチラシに、目が釘付けになった。『出店者募集中』の六文字が狭い視界の中で燦然と輝いて見えた。

 これだ。もうこれしかない。

「地域にとって“無くてはならない店“になれば……お客さんから声が上がれば……店、続けられないかな」

「潰さないで、って署名運動があるくらいってこと?」

 ママも気になったのか、そばに寄って覗き込んでくる。

 年内に届いていたその白黒のチラシに載る番号に、急いで電話をかける。

 締切は昨日だと記載がある。どうだろう、間に合うだろうか。間に合ってくれ。

 三回のコールをもどかしく聞いていると、ややあって電話の相手は受話器を取った。

 齧り付くように名乗った俺はひとつ深呼吸し、一縷の望みをかけて申し入れた。

「月末の……申込、まだできますか」

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神龍軒は岐路に立つ 月見 夕 @tsukimi0518

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