伊勢物語異聞 その2

兵藤晴佳

梓弓

「おい、しっかりしろ!」

 月明かりを頼りに夜道を探しに探してやっと見つけ出した女は都の外れで、湧き出る泉のそばに倒れ伏していた。

 何度かゆすったが目を覚まさず、汲んだ清水を貌にかけてやるとようやく気がついた。

 私の顔を見るなり、わっと泣きながらすがりつく。

「ごめんなさい、ごめんなさい……もう、あなたにはお詫びの言葉もありません」

 この女のもとには3年も通った。

 今夜、ようやく家に入れてくれることになっていたのに、戸を叩いても返事がない。

 鬼にでもさらわれたかと思っていたが、まずは無事でよかった。

「何があったの?」

 答えたくなければそれで構わなかったのだが、女は私の腕の中で、堰を切ったように語りだした。

「実は……」 

 私には、愛する男がありました。

 ところが3年前、あの陸奥の戦に兵を率いて行くよう命じられたとかで、きっと帰ってくるからと言い残して都を去りました。

 それからのことは、あなたご自身がよくご存じのとおりです。

 待ちわびる人がいると申しておりますのに、あなたは毎晩のようにわが家へお通いになった。

 むなしく帰るお姿を戸の隙間からそっと見るたびに、あの人が早く帰らないかと思う気持ちが募りました。

 最初のうちは、そうなればあなたも諦めるだろうと思ったからです。

 でも、いつしか、同じ気持ちは逆の思いから湧き出でるようになりました。

 あの人が帰らなければ、私はあなたと結ばれてしまう、と。

 だからとうとう昨夜、私は諦めることにしました。

 あの人は戦で死んだのです。

 今宵、お会いしましょうとお約束いたしましたのは、死んだ人への思いを断ち切るためでもありました。

 それなのに。 

 家の戸を叩く者の声は、あなたではなかった。

「開けてください。」

 できません。できるわけがありません。

 私の心はもう、あなたに差し上げたのですから。

 だから私は歌で答えました。


  あらたまの年の三年を待ちわびて ただ今宵こそ新枕すれ

 

 あなたを待ちわびて待ちわびて、ちょうど今夜、他の方の妻となろうとしているのに、なぜ今になってお帰りになったの?

 戦に行かれるような方です。そう尋ねる私の家に鬼のごとく押し入って、力ずくでさらっていくかもしれないとも思いました。

 ところが、戸は引き開けられることもなく、外から歌が返ってくるばかりでした。


  あづさ弓 ま弓 槻弓 年を経て わがせしがごとうるはしみせよ


 長い間、私があなたを愛したように、彼を愛しなさい……。


 そう言われて、もう心が決まっているはずの私の口からは、勝手に歌がほとばしっていました。


  あずさ弓引けど引かねど昔より 心は君に寄りにしものを


 ごめんなさい!

 あなたが私の心を引いても引かなくても、私の心はあなたのものでしたのに、などと口走ってしまって。

 自分で驚く間もありませんでした。

 家の戸を押し開けると、あの人の姿はありません。

 思わず後を追い欠けて追いかけて、とうとうここで倒れてしまいました。

 私の命も、ここまで。

 そう思った私は指を噛み切って、そこの岩に血で書きつけました。


  相思はで離れぬる人をとどめかね わが身は今ぞ消え果てぬめる


 思いが届かず、去っていったあの人を引き止められないで、私は今、死んでしまうようです。


「それは許さぬ」

 そう言って強く抱きしめると、女は泣きながらすがりついてきた。

 月明かりの下、死の淵から帰ってきた女と私の心は、固く結びついたようだった。

 ところが。

 私たちの上に差す影がある。

「どういうこと? これ」

 聞き覚えのある女の声だった。

「いや、これはね……」

 振り向くと、そこには3年前、私が「戦に行く」と言って置いてきた女が立っていた。

 その傍らにいる男を見た腕の中の女も、すべてを察したらしい。

 月の光よりも冷たいものが背筋を走ったのは、向こうの男も同じだろう。

 どうやら、最後の最後で私の女に白状したようだ。

 戦に出たふりをして、3年で互いの女を誘惑できるかどうか賭けた気の長い企みを……。

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伊勢物語異聞 その2 兵藤晴佳 @hyoudo

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