事故物件未満

十坂真黑

事故物件未満

 何度経験しても、退去立ち合いは緊張するものだ。

 特に、退去費用の概算を口にする時は自然と心拍数が上がる。お金が絡むと豹変する人は珍しくないからだ。

 だが今回に関してはその心配はなかった。

 片桐さんは去年この部屋に入居する際、私が担当したお客さんだった。気が弱く、例えるなら強引に勧められれば得体のしれぬ書類にもぽんと印鑑を押してしまうような人だ。

 また入居期間が一年間と短期だったため、高額な退去時費用負担が発生するリスクも低い。

 五十八歳のシングルマザー。近所のスーパーのパートと、亡くなった夫の遺族年金で生活していた。当時は足を怪我していて松葉づえをついていたが、一年も経てばさすがに治っている。 


 退去する部屋の間取りは1DK。玄関は直接ダイニングに通じており、奥の洋室とは襖で隔てられている。洋室に襖とは一見奇妙な取り合わせだが、元々和室だった部屋を洋室に変えたケースにはよく見られる。

 広さは三十平米もない。母と娘の二人暮らしには手狭で、それが退去理由かと思ったが必然的に一つしかない洋室に親子二人で並べて布団を寝ることになり、おかげで以前より母娘仲が深まったと、片桐さんは嬉しそうだった。


 退去立ち合いは、入居者と一緒に室内の傷や設備の故障の有無などを確認し、借主の費用負担を明らかにする作業だ。だから入居者のうち誰か一人いれば事足りるのだが、なぜかこの日は娘である奈帆さんの姿もあった。母一人では法外な退去時費用をふんだくられないかと心配して同席したのかもしれない。確かにそういう悪質な業者も少なからず存在する。だが記憶では娘さんはまだ高校生で、時に法律用語が飛び交う退去精算の話に興味を持つとも思えなかった。 

 現に奈帆さんは室内点検中もひたすら奥の洋室でスマホをいじっていた。


「……はい、では今日は以上になります。お見積もりは後日新居に郵送いたしますので」

 三十分も掛からず、確認作業は終わった。部屋が狭く綺麗なほど、立会は早く終わる。

「きれいに使っていただいてありがとうございます」

 お世辞ではなく、心の底からの言葉だった。掃除も事前にしっかり行ってくれたようだ。埃も少なかった。ぜんそく持ちの身としてはありがたい。

 片桐さんは心なしか一年前より白髪の増えた髪を揺らしてみせた。


「たった一年だもの。すみませんねえ、十坂とさかさんには一生懸命探していただいたのに」


 希望に合った部屋を探しお客さんに喜んでもらうのがこの仕事の醍醐味だが、同時に紹介した人が退去してしまう時の寂しさもひとしおだ。


 確か一年前の同じ時期に「急いで部屋を探している」と、彼女は予約なしで店に駆け込んできた。希望条件を聞き取り、レインズ(業者専用物件検索サイト)で血眼になって探した。良さそうな物件はタッチの差で決まってしまっていたり、入居時期が合わなかったりと部屋探しは難航した。結局、希望のエリアからは外れたが、うちの管理物件で無事成約。でかしたと、珍しく上司に褒められたのが昨日のことのようだ。


「こんなに早く出られてしまうなんて残念です。何か問題がありましたか?」


 たった一年で退去するということは、部屋や住居環境に問題があったのだろうか。


「とんでもない。素敵な部屋よ。街の雰囲気もいいし。でもねえ……」


 含みのある言い方が気になった。

 食い下がると、ようやく片桐さんは口を割ってくれた。


「十坂さんって、幽霊とか信じる方?」


 本当は「オカルト大好きです!」と即答したいところだったが、不動産業者が霊を信じているなどと言えば、客の不安を煽りかねない。「まあ、いてもおかしくはないと思ってます」と無難な回答に留めた。

 その答えに安心したのか、


「実はね、毎年お盆になるとうちの夫が帰ってくるの」


 私はよほど変な顔をしたのだろう。「ごめんなさい、変なこと言って」と、片桐さんは会話を打ち切ろうとした。


「いえ、すいません。でもご主人さんは亡くなられたんじゃ……?」


 去年部屋を探した際、今の部屋の退去理由として「今の部屋には夫との思い出が詰まっているから、思い出して辛くなる」と語っていたはずだ。

「そうなの。だからお盆の時期だけ帰ってくるのよ」

 お盆と言えばあの世から死者が帰ってくる時期。その通りと言えばそうなのだが。


「なぜ旦那さんが帰ってこられたと?」


「……誰もいない部屋から、物音がするんです。見ると、夫が以前買ってきたぬいぐるみがタンスから落ちていたの。あと、誰もいないのにトイレが流れるんですよ。それも、二回連続で。それって、生きていた頃の夫の癖なんですよ」


 どうやら彼女は室内で起きた不可解な現象を、亡き夫の仕業だと確信しているらしい。だが私からすれば、どちらも勘違いや思い込みの範疇で済まされる内容だった。

 それに今の回答は、肝心の部分に言及されていない。


「どうして旦那さんが帰ってくると、引っ越さなくてはいけないんですか?」


 残した妻と娘を想って、亡き夫が年に一度家に帰ってくる。美談ではあっても引っ越しをする理由にならないではないか。まあそう思うのは私が生粋のオカルト好きだからであって、普通の人は親族であろうと霊が家の中にいるなど耐え難いものなのかもしれないが。

 すると片桐さんは深くため息を吐いてみせた。


「実はうちの夫……生前は重度のアルコール依存症でね、たびたび私達に暴力を振っていたの。晩年は特にひどかった。罵倒、罵倒。こちらが一言えば、百で殴られる。だから私、娘を連れて家を出たのよ。あの人、そのことにすごく腹を立ててたわ。殺してやるって……。正直言うとあの人が死んだとき、ホッとしたくらいです。でもそれが始まりだった……」


 そこで娘さんがピクッと肩を揺らした。


「あの人、霊になっても私達のことを解放する気、ないみたい。追いかけてくるのよ……。去年もそうだった。すぐわかったわ。あの人が帰って来たんだって。でも、初めの頃はよかったの。トイレが二回流れたり、物が落ちたりしても気味が悪いだけだもの。けど、お盆が近づくにつれ、だんだんひどくなっていったの。夢にまで出てくるのよ、『俺を見捨てやがって』って。……覚えてる? 私、初めてお店に行ったとき、足を怪我していたでしょう」


 私は頷く。「確か、住んでいたアパートの外階段から落ちてしまったと」


「ええ、それは本当。でも落ちたんじゃない、落とされたのよ……だってあの時、耳元で『もうすぐだ』って声が聞こえたんだもの。私、その次の日にあなたのお店に飛び込んだの」


 そこで言葉を区切ると、おもむろに片桐さんは袖を捲って見せた。

 骨ばった彼女の腕の一部は、青紫に変色していた。ひどい痣だった。


「去年と同じことがまた起きてるの。これ以上この部屋にいたら、私達は殺される。だから……ごめんなさい。本当に」


 片桐さんは両手で顔を覆い、深々と頭を下げた。



 片桐さん親子を見送った後、私は一人残って最終チェックを行う。

 立会は荷物を搬出した後に行うので、室内に物は一切ない。家具の無い室内というのはやたらと広く感じられる。初夏だというのに心なしか室温も低く感じた。

 片桐さん曰く、この部屋には夫の霊が潜んでいるそうだ。が、物音一つしない。

 あんな話を聞いたからだろうか、先ほどから鳥肌が止まらない。


 正直に言うと、この時私はかなりびびっていた。人に危害を加える幽霊と部屋で二人きりだと言われて、平然と職務をこなせるほど私は肝が据わっていない。だがここで仕事を放り出して逃げ帰ったら、上司にひどくどやされるだろう。

 両者を天秤にかけて、私は仕事を終わらせることを選んだ。


 全部片桐さんの思い込みかもしれない。今の話に根拠は何一つなかった。恐怖を感じる要素なんて、どこにもないではないか。

 温水洗浄便座は問題なく稼働するか、換気扇から異音はしないか。チェック項目を機械的に埋めていく。設備の故障は入居者に非が無ければ修理費用を請求できないが、異常があった場合は早急に業者を手配する必要がある。


 全てのチェックが終わり、念のため全ての窓の鍵がかかっているかどうか見て、ようやく部屋を退室する。

 片桐さんから受け取った鍵を使い、玄関の鍵を掛けた。

 退去時精算は後日になるが、この状態なら敷金はほぼ返せるだろう。


「あの」


 心臓が止まるかと思った。

 振り返ると、先に帰ったはずの奈帆さんが立っていた。片桐さんの姿はない。

 忘れ物でもしたのだろうか、と咄嗟に思ったが、部屋が空であることは確認したばかりだ。


「次の人、もうきまってるんですか」


 思わぬ質問に、虚を突かれた。

 人気のある部屋だと、前の住民が退去する以前から部屋の申し込みが入っていたりする。

 この部屋は東京メトロの某駅から徒歩五分という好立地で、しばらく前に申し込みが入り、新しい契約が進んでいた。そちらの契約担当は私の上司だ。

 これまでの経験上、自分が退去した後の部屋について気にする人は、あまりいない。


「決まっているけど、それがどうかしたの?」


 驚かされた恨みか、ついつっけんどんな口調になる。

 奈帆さんは答えず、ただ俯いて唇を噛んだ。


「……私たちが前に住んでいた部屋について、調べてみてください」


 絞り出すように言うと、彼女はこちらを振り返ることなく、走り去っていった。



 帰社後、私は奈帆さんの言葉が気になり、片桐さんの契約書ファイルを確認した。

 綴じたファイルには契約に関する書類が一緒くたに纏められている。私はその中から申込書をとりだした。

 契約の前段階で物件申込書を書いてもらうが、そこには現住所の情報を記載する項目がある。


 当時片桐さんたちが住んでいた部屋は、すぐに判明した。おそらくはオーナー名にハイツを付けた、よくある名称のアパートのようだ。部屋番号は201号室。

 試しに物件名を検索してみる。

  物件サイトなど、何の変哲のないページが続く。が、一件だけ気になるサイトを見つけ、クリックする。


 今や知名度は全国区、新居探しにお馴染みの事故物件検索サイト、大島何某である。

 表示された近隣にはいくつかの炎マークがついていた。

 私は別のタブを開き、街灯アパートの住所を検索、地図上での物件位置を確認する。


 再び大島何某に戻り、別タブの地図と照らし合わせてアパートの位置に炎マークが無いか確認した。


 ……あった。


『20××年 8月×日、××県××市のアパートの二階にある一室で、この部屋の住人のSさんとその妻Yさんが遺体となって発見された。室内は犯人によって荒らされたとみられ、二人には全身を殴打された跡があり、死因は撲殺とみられている。警察は物取り目的と怨恨目的、両方の可能性を視野に捜査を進めている』


 詳細を見ると、そんな文章が記載されている。新聞か別サイトの記事から引用したようだ。

 どうやらこの記事が書かれた時点で、犯人は捕まっていないらしい。

 部屋番号は記載がないが、二階だということは明記されている。


 20××年というと、去年だ。時期的に見て、もしこれが片桐さんたちが以前住んでいた部屋と同じだとすれば、彼女たちが退去した後、そう経たないうちに次に越してきた住民が殺害されたということになる。

 これは偶然なのだろうか?

 オカルト好き、かつ推理小説マニアな私は、不謹慎とは思いつつ勝手な妄想を巡らせる。

 ……もしこれが偶然でないとしたら?

 片桐さんの夫は、片桐さんたちが引っ越したことに気付かず(あるいはそのことに癇癪を起して)、新たに越してきた人たちを殺害した?


 そして同じことがまた起きようとしているとしたら。


 悩んだが、私は上司にこのことを報告した。

 五十代の上司は顔色一つ変えず私の話を聞いた後、

「お前、武田さんに余計なこと言うなよ」

 武田さんというのは、あの部屋の新しい入居予定者のことだ。

「そんな話真に受けるな。そもそも片桐って人が言ってるだけだろ。そんなの、事故が起きてから考えればいい」


 不動産業界における『事故』とは、日常的に使う事故とはややニュアンスが異なる。 『事件等により物件にケチが付く』ことも、広い意味では事故と呼ぶのである。


「現段階ではなにも起きてないんだから、告知義務もないんだよ。それよか、余計なこと言って契約がパーになったらどうする」


 確かに、現時点で事故物件ではない、いわば事故物件未満の部屋におかしな噂を吹聴してはオーナーさんが損をしてしまう。最悪、オーナーから手を切られる。そうなれば困るのはこちらの方で、管理会社は百パーセント、オーナーの味方だ。


 今回のようなオカルト事案であればまだ分かる。上司がオカルト否定派なのであれば、片桐さんの話は馬鹿馬鹿しいものだろう。 


 だが例えば、内々に基礎部分の手抜き工事が発覚したという場合であったら、どうだろう。


 それでも、この人は同じことを言うのではないか。「まだ事故が起きていないんだから。お前、余計なこと言うなよ」


 その結果、人が亡くなったとしても、この人は顔色一つ変えないのではないか。

 人の命とお金が平気で天秤にかけられる。

 無論、すべての業者がそうだとはいわない。だが利益の前では人の命さえ軽んじられる──それが、この業界の暗黙の了解なのだと、私は悟った。


 退去立ち合いの際、片桐さんの腕に浮かんだ青紫の痣を思い出す。見て見ぬふりをすることは、暴力に加担することと同じではないのか。

 上司の机の上には武田さんの契約書が置かれていた。このまま、また犠牲者を出すことになるのだろうか。


 いずれにせよ長くは続けていけない仕事だな、と私は思った。

 

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