おかえりなさいを言う前に

森野樽児

おかえりなさいを言う前に

「ただいまー!おーい、今帰ったぞー!」


 パパの声がする。パパが帰って来たんだ。ワタシは思わず声を上げそうになったけど、ママとの約束を思い出す。


「パパが帰って来ても絶対に『おかえりなさい』って言っちゃダメ」


 布団を頭まで被るとワタシは耳を塞いだ。それでも、玄関にいるはずのパパの声は二階のワタシにまで聞こえてくる。


「おーい!どうした?パパが帰ったぞー?開けてくれー」


 ドンドンドンドン


 パパの声と一緒に玄関の扉を叩く音が響く。いつもと同じ、夜遅くに帰って来た時のパパだ。

 

 いつもならこの後、ママが呆れた声を上げながら玄関を開けてあげる。そしてまた早速二人でケンカが始まる。でもワタシはこっそり一階に降りるとパパに抱きついて言うんだ。「おかえりなさいパパ!」って。パパはお酒で臭いけど、にっこり笑って「ただいまサナエ」って言ってくれる。そしたらママも呆れて笑う。いつもの仲良しに戻るんだ。


「おーい!あけてくれー!パパが帰ったぞー!ハルコー!俺だー!サナエー!シオリー!パパだよー!」


 ドンドンドンドン


 パパがワタシ達の名前を呼んでる。ママの名前もワタシの名前も妹の名前も。ママは今どうしてるだろうか。


「私はどうなってもいいのでこの子達は」


 この前、ママはそう言ってた。何日か前から家には知らない男の人が来てた。丸々太ったおじさんをママは"センセイ"って呼んでた。いつも難しい顔をして二人で色々話してた。たまにママは泣いてた。ワタシはなんとなくそのセンセイが苦手だった。


「なぁハルコ、まだ怒ってるのか?ごめんよハルコ!悪かった!だからここを開けてくれー!」


 ドンドンドンドン


 今朝、センセイに言われワタシはママと一緒に家中の鏡をリビングに集めた。ワタシが持ってたお化粧ごっこ用の鏡も持って来た。

 

「どうもありがとう。終わったら、ちゃんと返すからね」


 まるでヒゲのないサンタさんのような顔をしたセンセイは、そう言ってワタシから鏡を受け取った。リビングには沢山の鏡が並んでキラキラとキレイだった。どうしてこんなことするのか、ワタシが聞いてもママは何も答えてくれなかった。でも

 

「大丈夫、サナエとシオリは私が守るから」

 

 そう言ってワタシと妹をギュッと抱きしめてくれた。



「あけてくれーあけてくれーあけてくれーあけてくれーあけてくれー」


 ドンドンドンドン


 パパの声はいつの間にかまるで機械のようになってた。ただ同じ言葉を繰り返すだけ。声はパパだけど、パパじゃないみたいだ。


「本当に、一人で大丈夫かいサナちゃん?」


 寝る前にばあばがそう言ってくれた。いつもは遠い街にいるのにママが呼んで来てくれた。ワタシも妹もすごく嬉しくて、たくさん遊んでもらった。

 「今日は二人ともばあばと一緒に寝ようね」そう言ってくれたけど、ワタシはもうおねえちゃんだから大丈夫だって言った。ばあばもママも不安そうにしてたけど、ワタシは大丈夫だよって笑って言った。そうした方がママも元気になる気がしたから。


「じゃあサナエ、これだけは約束して。パパが帰って来ても絶対に返事しちゃダメ。絶対に『おかえりなさい』って言っちゃダメだからね。絶対に。約束して」


 ママとワタシは指切りして約束した。絶対守るよママ。だから大丈夫。


 ママとの約束を何度も何度も頭の中で思いだす。


「あけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてー」


 ドンドンドンドン


 パパの声は壊れたおもちゃのようになった。


「あけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてー」


 ドンドンドンドン


 大丈夫だよママ。ちゃんと約束したからね。ばあばもシオリも大丈夫。おねえちゃんだからね。



 気づいたらパパの声はしなくなっていた。


 布団からゆっくり顔を出すと、外が明るくなってた。いつの間にか寝てたのか、朝が来てたんだ。


 恐る恐る一階に降りると、ママとセンセイとシオリを抱いたばあばがいた。リビングにあった鏡は全部割れてて、それをママとセンセイは一緒に片付けていた。

 ワタシに気づいたママが駆け寄って来た。パキパキと鏡の破片をスリッパで割りながら、ワタシをギュッと抱きしめてくれた。


「もう大丈夫だからねサナエ!怖かったよね!よく頑張ったね!」


 ママは泣いていた。ワタシも何故だか泣いてしまった。でもすごいホッとした。すごく安心した。


「ごめんねサナエちゃん、鏡返せなくなっちゃった」


 センセイがやってきてワタシに言った。

 まん丸の顔は汗びっしょりだったけど、優しい顔をしていた。


 リビングに差し込む朝日が割れた鏡にたくさん反射して、とっても、とってもキレイだった。


 

******************


 それが、父が帰ってきた最初の年だった。

 

 あれから二十年。

 次の年も、その次の年も、同じ日に父は帰ってきた。


 うちに何が起きているのか私が理解するには数年必要だった。父がすでに死んでいる事、何故か毎年同じ日に家に帰ってくる事、その為に"先生"が協力してくれた事……正直未だに理解できていない部分も多々あるが、少しずつ分かるようになっていった。

 

 父はすんなり帰ってくれる年もあれば、なかなか帰らない年もあった。毎年先生が色々な方法を調べては、手探りで様々な対策を講じて来た。一度効いた方法も効かなくなったり、引越しはむしろ逆効果だと分かったり、家族がバラけてると多少マシになったり――でも今でも父が帰ってくるのを止める事は出来ていない。


「結局、私は何もできませんでした」

 

 ベッドの上で先生は弱々しくそう呟いた。

 

「何言ってるんですか先生。先生がいなかったらうちの家族はもっととっくの昔にいなくなってます。先生には、本当に感謝してもし切れないです」

 

 そう言いながら私は先生の手を握った。あんなに丸々としていた手は見る影もなく痩せ細り、骨と皮だけになっていた。同じく別人のようになった顔で、先生は振り絞るように、ゆっくり口を開いた。

 

「人は誰しも、故郷に……我が家に……家族の下に……帰りたいものなんです。きっとそれは、死んだ後も同じで……だからどんなに私が手を尽くそうとも、結局止められなかった……みんなやっぱり帰りたいんです……それはきっと、誰にも止められないんです……」


 

 そう言った先生はそれから二日後に亡くなった。

 

 

 だから今年は、初めて先生無しでこの日を迎えなきゃいけない。これまで全てをかけて我が家の為に戦ってくれた先生は、もういない。


「サナエ……いるの?」

「いるよママ。大丈夫ここにいるよ」

「ああ、サナエ……今日はパパ達が来るよ……サナエ……帰ってくる……あの人が帰ってくる……」

「大丈夫。今年は私がいるから。大丈夫だよママ」

 

 ベッドの上で心配そうにしている母に私は優しく語りかける。そうだ。大丈夫。母は必ず私が守る。その為に私はこの家に帰って来たんだ。


 

 私はリビングで一人、時計を見つめていた。日付が変われば、帰ってくる。みんながここに帰ってくる。大丈夫。覚悟は出来ている。



 時計の針がてっぺんに並び、日付が変わると同時に玄関の扉がドンドンと叩かれた。


「おーい!ただいまー!今、帰ったぞー!開けてくれー」


 ドンドンドンドン

 

「サナちゃーん。ばあばが帰って来たよー。早く開けてちょうだーい」


 ドンドンドンドン


「お姉ちゃーん!ただいまー!あけてー!あけてよー!!」


 ドンドンドンドン


 

 私はタバコに火を着けた。

 長い夜が始まる。


 <了>

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おかえりなさいを言う前に 森野樽児 @tulugey_woood

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