第9話 ババロア
ミアは、自分が「ババロア星人」だったころのことを思い出していた。当然ながら、このような荒唐無稽な話は現実ではなく、何かの暗喩に過ぎない。彼女はベッドで夢を見ていた。夢は、目覚めた瞬間にその内容が揮発するように忘れ去られていくが、目が覚める寸前の一瞬だけ、鮮明にその体験が身体の上に想起される。これは彼女が今まさにベッドから起き上がろうとする刹那の出来事である。しかし、現実の時間軸はこの際どうでもよく、重要なのは彼女の夢が何に根ざしているかであった。
ババロア星は地球から遥か離れた銀河の片隅に浮かぶ惑星である。空間的に離れた2点は同じ時間の地平線上に存在せず、地球から発したどの宇宙船も、その星にたどり着くことができなかった。地球人とババロア人との間には大きな技術的隔たりがあり、彼らは最先端の航海術によってようやく地球に足を付けることとなった。夢は突飛な展開を往々にして作り出すものであり、物語は都合のよいように展開する。
ババロア星の周囲には地球の月と似た衛星が浮かんでおり、ババロア人たちはこの衛星を「エクレア」と呼び、神聖な存在として崇拝していた。エクレアは彼らの信仰の対象であり、古くから伝統的に敬われてきた。彼らの伝説によると、ババロア人の王妃が天に昇ってエクレアに今でも住んでいるらしい。小さな隕石の衝突によって形作られたクレーターの微細な構造まで、彼らは観測できるほどの科学力を有していたが、科学の中で信仰が捨てられることなく、伝説は彼らの中で語り継がれた。このような故郷への郷愁が後の地球移住へ繋がったのは当然の結果である。
ババロア人たちの文化や科学力は地球のそれを遥かに凌駕し、国家は1つに統一され、言語も統一されていた。彼らは脳を互いに密に結合することでリアルタイムなコミュニケーションを可能にし、真の民主主義をこの世界に作り出した。そして、長きにわたって平和が続いた。しかし、平和はやがて退屈を生み、退屈は怠惰をもたらした。突然、一人一人のババロア人たちに自由という観念が生まれ、彼らを形作った社会は崩壊し始めた。彼らは最終的に無限に広がる真っ暗な宇宙を眺めながら、ブラックホールに飲み込まれていった。
ミアは宇宙船に乗ってババロア星を脱出し、この地球にやって来た。彼女は宇宙船から白く輝く月を見た時、故郷の面影をその中に見て、移住を決めた。今は地球で再び理想の文明を築き上げようとしている。そのため、地球人に擬態し、地球の重力に耐えられない足の代わりに車椅子を利用している。
ミアは夢の中で、そんな彼女の過去を一瞬にして創り上げる。身体が勝手に物語を作り、それに適応してしまう。夢は現実の出来事の暗喩あり、人間の深層心理を映し出す。現実の身体は療養中で、脳は破壊された神経細胞を修復するのに必死であり、神経細胞の結合が生まれるたびに新たな回路が形成され、その過程で奇妙な夢が生まれた。
その時、遠い宇宙からひとつの交信が届いた。ババロア星にいた母からのメッセージであった。ババロア人は、たとえどれだけ宇宙を隔てていても、互いに会話することができる。テレパシーというよりは同調という言葉のほうが正しい。
ミアの脳裏に、ターバンを巻いたピンク色の肌をしたババロア人の女性の顔が浮かんだ。口元がゆっくりと上下に動いて何か言葉を発している。その顔はぼんやりとしか見えない。
「何であなたは中途半端なのかしら……本当に私に会いに来たいとは思わないの?」
ミアはハッとする。母の胸中に渦巻く怒りを、まるでそれが自分のものであるように体験していた。母の思考と自分の思考が一体化し、区別が付かなくなる。
「あなたは地球から離れることを望んでいる。それなのに、最後まで自分を信じることができず、どうにかして助かろうとしている。死が怖くないのであればなぜそれを遂行しないの。もっと、直接的な方法で」
「私は……」
「あの機械に同情しているのかしら?」
「そんなことあるわけない……」
ミアの母は崩壊した星とともに死んだ。そして、虚空の宇宙に意識だけが虚しく漂っていた。ミアが再び母と一緒になるためには彼女も身体から離れ、宇宙と一緒になる必要がある。それは実際には簡単なことであった。死を受け入れるだけでいい。神の言葉で語られる、死を卑しむ言葉は、生きている者たちが作り出した幻想に過ぎない。世界の神を殺し、自分の中に神を見つけなければいけない。
「私はここで幸せに生きているのよ……あなたも早くいらっしゃい……」
夢の内容は都合のよいものへと変遷する。それは叶うはずのないものであった。真っ暗な宇宙の中でミアは、母と一緒になることができるが、共に生きることはできない。醜い現実と存在しない理想のどちらかを選ぶ必要がある。
ミアの脳裏にウィリアムのことが浮かぶ。夢の中の思考は荒れ狂う海のように激しく、霧のようにぼやけている。
「父についてはどう思うの……」
「あなたが知る必要はない。現実は厳しいのよ……だから、早く決心することよ。全ては神の思し召しなのだから……」
ミアの身体の中に様々な感情が混ざり合い、彼女の顔は不安げな表情で前を見ている。
やがて、周囲のすべてがまばゆい光に包まれ、視界が崩れ落ちていく。次の瞬間、ミアは自分の部屋に戻っていた。夢は完全に消え去り、現実の感覚が一気に体に戻ってくる。重力の重みが肩にのしかかり、残る眠気が彼女をベッドに押し付けた。
窓の外はまだ暗く、夜はまだ始まったばかりのようだ。星一つ見えない闇が空を覆い、ドアの隙間から漏れる廊下の明かりが薄ぼんやりとした光を投げかけている。きっとパニが夜更かしして本を読んでいるのだろう。そんな風に考えながら、ミアの意識は再び薄れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます