第7話 読書
窓から差し込む昼の陽光が、静寂に包まれた部屋の殺風景さを際立たせていた。パニはシステムが提示する作業を一通り処理し終えると、計算資源にわずかな余裕が生まれ、新たな行動を模索し始めた。
書斎の扉の前で一瞬躊躇した後、そっと中へと足を踏み入れる。そこには、天井まで届く本棚が壁一面を覆い尽くしており、棚には所狭しと本がぎっしりと詰まっていた。
パニはロボットであり、人間のような知的好奇心を持たない。書斎に入るのはあくまでもインターネット検索の代わりに過ぎない。年季の入った本の香りや、書斎の静けさ、そこに宿る独特の重みなどはパニには関係無かった。
ゆっくりと指を身体から最も近くにある本の上に入れると、最適な圧力で引きずり、本を取り出す。圧力で押さえつけてられていた本が自然と開き中からは文字が飛び出してきた。
パニはしばらくそれとにらめっこしていたが、画像をスキャンするとその隅に数字があるのを見つけた。そして、紙がめくると前や後ろには他の文章があるのを理解した。さらに、他の紙についても調べることで本というものが数字の順に文章が書かれた紙を並べたものであるということを理解し始めた。
そこで、パニは一番最初の紙に戻ってから、連なった紙を順番にスキャンし、出来上がった文章をシステム内に構築した。画像が処理されて文章にされてしまえば情報量は非常に小さなものだった。紙をめくる動作にもプログラムが慣れてきたことでスラスラと紙をめくることができるようになった。そして、最終的にはページを連続でざっとめくるだけ一冊の本が持つ文章をシステム内に構築することができた。
そうして構成された本の内容は宇宙冒険物語を描いた作品であった。主人公の男が数奇な運命に巻き込まれて宇宙のあちこちを旅する。そして、最終的に旅の目的を知ることになる。
パニは本の情報を全て処理したが、自分がしている行為が正しい読書なのかは分からなかった。一旦手に持った本をしまうと記憶領域に本の情報を書き込む。そして、違う本を取り出すと同じ作業を繰り返した。
「恋愛物語:男と女が恋に落ち、苦難を乗り越えて結ばれる。架空の歴史物語:王子が戦いの中で成長し、偉大な王になる。犯罪物語:探偵が犯人の策を見破る……」
記憶領域に本の情報が次々に書き込まれた。文字情報は小さく、要約されて保存されたため、それらの情報は記憶領域のごくわずかな部分を占めた。情報が増えるたび、パニはこの世界に対する理解が増したような気がした。
夕方になると表で車が止まる音がしてミアが帰って来たのが分かった。パニはミアを玄関まで迎えに行きながら、今日獲得した知識について話してみようと思った。
「おかえりなさい、学校はどうでしたか?」
パニはミアの鞄を彼女の机まで運んだ後、上着を脱ぐミアに尋ねた。ミアはすぐには答えなかった。パニは彼女の生体情報をモニタしていたが、活動レベルは今までよりも低い数値を示していた。
「別に大したことは無いわ。学校なんて疲れるだけよ」
ミアは不機嫌そうに言った。パニは彼女の横で直立しながら作業が終わるのを待っていた。
「先ほど、ミアのために夕食を作りました。今回は私が勝手に作らせていただきました」
「へえ……そう」
ミアはぶっきらぼうに言いながら、車いすを操作してダイニングルームにいった。キッチンからは出来立ての料理を示す匂いが廊下にも流れ込んでいた。
「今日、私はたくさんの本を読ませていただきました。そして、本棚からレシピ本を見つけることができたのです。その中でも最も使用された痕跡のあったページから料理を選ばせていただきました。おそらく、あなた方のお気に入りの料理だと……」
そう言ってパニは鍋の蓋を開けた。蒸気が部屋の中に小さな雲を作った。
「根菜と肉を一緒に煮込んだ伝統料理です。手順通りに作ってみました。味覚センサで調べたところ、万人が気に入るだろう味の範疇にとどまっていました。お疲れでしょうから、いくらでも召し上がってください」
パニはお玉を握ると容積を計算し、鍋の中の人参やジャガイモがまんべんなく入るように掬った。そして、慣れた手つきで底の深い皿に料理を入れてミアの目の前に置いた。
「どうですか。お口に合っていたでしょうか?」
「まあ、レトルト食品よりは悪くはないかも……でも、美味しくはないわね」
「そうですか……良さそうなレシピだったのですが、ミアの口には合わなかったようですね。今度は違う料理を試してみたほうがよさそうですね」
パニは淡々と話しながら、記憶領域に料理名とミアの反応を追加した。そして、次に作るべき料理が何かを考えていた。
「ねえ、あなたは本当に人を苛立たせるのが好きみたいね」
「申し訳ございません。今の発言に何か不適切なことがありましたか。そうでしたら私のミスでございます」
「そういう馬鹿丁寧な言い方に腹が立っているのよ……」
ミアが勢いよくスプーンを机の上に置いた。パニのシステムの中で怒りを示す数値が急激に上昇する。パニは少ない言葉から原因を突き止めることはできなかった。結局謝る事しかできない。
「ああ、なんでこんな気味の悪い機械と一緒に暮らさないといけないのよ!人間みたいな顔をして、人間みたいなことを話して……気持ち悪いのよ」
「申し訳ございません。私には何が何だか本当に分からないのです……私にあなたの心を理解できればどれだけいいのか分かりません。ぜひ、あなたの心の内を少しでも言葉にして伝えてくれると助かります」
パニが必死に謝るのを見て、ミアの心拍数を示す数値が次第に小さくなっていく。彼女は鼻で笑う。
「全く、私としたらロボット相手に本気になるなんて馬鹿らしいわ……」
「ミア、私に何かできることはありませんか?言っていただければなんでも致しますよ」
パニは寄り添うように話す。それは、ミアを理解できないパニにできる唯一の手段であった。
「あなたは料理が下手よ……別にあなたの料理が不味いとは言っていない。でも、本当に下手なの。私の言っている意味が分かる?」
「すみません……私にはその言葉の意味を理解することができないのです。味以外に何か悪いところがあったのでしょうか?」
パニは率直に話していたが、ミアは残念そうな顔をする。机上の料理はすでに冷め始めており、スープから出る湯気は消えていた。
「あなたには分からないでしょうね。なぜなら、あなたは人間ではないから。センサーで味が分かったところであなたが食べることはできないのだから」
「そうですね……確かに私はそういう意味では上手く料理することができないのかもしれません」
ミアは無言で黙々と料理を食べる。ミアの皿にあった料理は綺麗に片づけられた。そして、食べ終えるとすぐにテーブルから離れた。
パニはミアの表情や心拍数などを観察し、立っていることしかできない。呆然としているパニにミアは小さな声で「ご馳走様」と言って自分の部屋の方へ進んで行った。パニはお礼を言ったが、ミアが何を考えているのかさっぱり分からなかった。
夜になり、ミアが眠ったのをシステムの通知から確認すると、パニは彼女に動作音が聞こえないようにそっと書斎に向かった。パニは本棚の中に自分が求める情報がないかを確かめたかった。まだ読んでいない本はたくさんあったため、それらを読めばミアの心情を理解する何かの手がかりが見つかると考えたのである。
パニは、昼にやっていたように再び本を取り出してはその内容を解析し、使える情報がないかを探す。パニの頭の中には先ほどの夕食の出来事があった。パニは精一杯ミアの口に合う料理を作ったと思ったがミアにとっては違うようだった。パニはミアが言っていた「料理が下手」とは何かについても理解することができなかった。
右手で本の背中を支えながら、左手で器用に一ページずつ紙をめくる。その様子は、傍から見れば確かに人間がする動作とあまり変わらない。しかし、パニがする読書には根本的な何かが欠けていたのである。
パニは昼の時より、ずっと上手く読書をしていた。パニは本を読むとき、一冊に含まれる情報を要約するのではなく、一文ずつ、ときには一つの単語に至るまで細分化して解析を進めた。夜はロボットにとって非常に長い時間であり、パニは多くの計算資源を読書に費やすことができる。そして、単語と単語の関係や文章と文章の関係を通して複雑な人間関係やプロットを頭の中に整理することができた。
パニは読書を通じて、多くのことを学び始めている。その中の一つが「人間は嘘をつく」という事実である。ロボットと異なり、人間は言葉と行動が必ずしも一致しない。本には、言葉と行動が食い違う人間の例が数多く描かれている。しかし、いざその知識を現実に当てはめようとすると、パニは混乱してしまうのも事実だった。
例えば、ミアの言葉が真実かどうかを判断しようと試みても、何が真実で何が虚偽なのか、パニには分からない。ロボットにとって判断できるのは言葉の表面であり、ミアの内心まで理解することはできない。そのため、思考はそこで行き詰まり、堂々巡りを始め、やがて無限ループに陥ってしまう。そして最終的には、システムを強制的に終了せざるを得なくなる。
やがて、パニの指が最後の一冊にたどり着く。意味のある情報を得られる可能性は限りなく少なかったが他の選択肢は無く、作業を続行する。
パニは最後の本を棚に戻すと呆然とその場に立ち尽くしていた。今では全ての本のタイトルの名前と内容が記憶の中にある。もはや、本棚は無用な存在であった。
パニは長い思考を終え、システムが結論を出す。問題はこれらの本棚が小さすぎることであり、もっと多くの情報に触れる必要を示している。しかし、この家に小さすぎる本棚以上の情報はなかった。パニは呆然と立ち尽くし、ぎっしりと積み込まれた沢山の本を眺め、ミアの言葉をシステム上で繰り返し反芻していた。
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