魂の帰る場所

砂塔ろうか

魂の帰る場所

 タロが死んでから、もう20年になる。


 タロは私が子供の時分、我が家で飼っていた犬である。ゴールデンレトリバーで、垂れ目の、優しい顔立ちをしていた。私が家に帰るとすぐにじゃれついてきて、そんなタロによく顔を舐められたものだ。


 そんなタロのことが、私は少し怖かった。

 子供だったからだろう。身体の大きな犬にじゃれつかれるのは、私にとって襲われるのとなんら変わりなく、犬に舐められるというのは、うっかり噛まれでもしないかという不安にひたすら耐えるだけの時間だった。


 そもそも、犬に舐められるのが好きではなかった。

 当時のクラスメイトに『ドラえもん』に出てくる骨川スネ夫みたいに嫌味な金持ちがいたのだが、夏休み明け、日焼けした肌をこすりながら彼は海外旅行の大変さを滔々と語っていたことがあった。とくに動物に噛まれた大変なことになるという話を——それはもうしつこく話していた。


 海外で犬に噛まれたとかいう話で、傷痕を勲章のように見せつけながら話して回っていた。


 クラスメート全員に話し終えたかと思うと隣のクラス、その隣のクラス、果ては下級生にまで話していた。

 上級生には自慢しに行かなかったところが、あいつの小心者っぷりを証明している。


 ——と、そんな脱線はさておき。


 そんなわけで当時の私には「動物の咬傷=死」という概念がとことんまで擦り込まれていた。


 ていうか生き物の唾液全般、自分の身体につくことに耐えられなかった。間接キスを嫌悪するくらいの潔癖症だったのである。


 そんな私だが——やはり、タロが死ぬと少しだけ寂しく思ったものだ。


 タロが死んでも、タロが暮らしていた犬小屋だけは墓標のごとく家の庭に残されて——しかし誰も、傷心ゆえか犬小屋を掃除したりはせずに。

 そうして、ただ朽ちていく一方だった犬小屋を私は家の縁側からじっと見ているのが、タロが死んでからしばらくの間、私の習慣となった。


 つまるところ、あのタロに押し倒されて舐められる一方であった苦痛の時間は、私にとって欠かすことのできない日常の一部になっていたのだ。


 しかし、それが突然に失われてしまった。だから、その代替が必要だった。


 タロのために時間を使うという行いをしなくては、その先の習慣——宿題をするだとか家事を手伝うだとか——がままならなくなってしまうのだ。


 とはいえ、時間の流れとは残酷なもので。


 ある日、タロの犬小屋を気にもとめなくなっている自分に気付いた。


 いつのまにか、本当にいつのまにか、私は犬小屋を見るという習慣を喪失していた。


 だからだろう。


 タロが帰ってきたのは。


 きっと、存在を忘れようとしていた私を咎めるために、帰ってきたのである。


 ある日の夕暮れのことである。ふと犬小屋を——もう「タロ」という名前も読めないほどにボロボロになっていた——犬小屋を見ると、その中に黒い影のようなものが見えた。

 目の錯覚だと思った。

 けれどその影はたしかに、動いていた。


 不気味に思って、私はすぐに目を逸らした。


 すると、突如として何かに押し倒された。嗅ぎ覚えのある生臭い、犬のにおいがして、顔を何かに舐められた。


 その正体を確かめる気にはなれなかった。


 じっと目をつむったまま耐えていると、いつのまにか影は消えていた。


 しかし、犬小屋にはあの影が見えた。


 以来、私はタロに舐められぬように、一日のうち、しばらくの時間をタロのために使うようにした。


 そうして、10年。


 もはや犬小屋は形をなしていない。それでも家の庭には、タロがいる。


 タロのカタチをした、ナニカが。




◇◇◇


 その手記が発見されたのは、取り壊しが決まった無人の家屋の一室でのことだった。


 その家屋はもう何年も住民がいない空家で、荒廃しているという言葉がこれ以上ないくらいにしっくりくる物件だった。


 その家には幽霊が出るとの噂があり、なんでも人のかたちをした影が家に出入りするところが目撃されているのだとか。


 その噂と手記の内容にもし、関連があるのだとすれば、それはもう土地の問題としか思えない。


 あの土地には、「いなくなったものの魂を呼び戻してしまう」、そういう性質があるのだろう。


 「魂の帰る場所」という表現があるが、あの土地はまさにそれなのだ。あの土地で暮らせば、そこに魂を囚われる。


 そしておそらく、その住民はその事実を一人でも多くの人に知ってもらおうと、時として生者に干渉する。手記の中のタロしかり、怪談話に語られる住民しかり。


 そう考えると、この手記も実は住民が記したものなのかもしれない。


 なにせ————その家の住民がいなくなったのは、今から10年も昔のことだったのだから。


(了)


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