第2話 此の糸で愛を縫う

 一花が家のドアを開けた途端、今日も今日とてリビングからうれしそうな声が届く。椅子の足がきぃと鳴る。トタトタと軽い足音が跳ねて、玄関からほど近い茶色の扉からにこにこ笑顔が現れる。

「いっちゃん!」

「ふふっ。ただいま菜乃」

 藤平菜乃花、現在六歳。九歳下の妹にして、かわいすぎるお年頃。生まれたばかりの赤子を前に、この子は自分が守るのだと決意したその日からずっと、一花の心は奪われている。

 バッグも置かずにそのまま菜乃を抱きしめると、小さな腕が首に回る。あどけない天使さまは、課題に部活と一気に忙しくなった高校生活の一番の癒やしである。

 けれど、彼女の関心はこの頃もっぱら一花にはない。

「ねぇいっちゃん。かーして?」

 身体を離すと、菜乃が胸の前で両手をお椀型にして差し出してくる。

「モモちゃん、はやく、かーして?」

くりんくりんの前髪に、まるく潤んだ二つの瞳。その視線は、ちらちらと一花を逸れて、肩に提げたバッグに向いていた。正確には、そこに付いたクマのマスコットに。

「また負けた……」

モモちゃんことそのマスコットは小学校の入学祝いで母が作ったものだ。柔らかい桃色のボア生地に、首元の小さなリボン。一針ずつ丁寧に作られたその右足の裏には、紫の花が一つ刺繍されている。一輪の花の、一花。自分の名前に対して、初めて明確に誇りを持ったきっかけの贈り物だった。お守りのように持ち歩き、今では少し色がくすんでしまったとはいえ、まだまだ可愛いまま、ほつれもへたりもしていない。

その可愛さがとうとう菜乃にもバレたのは、丁度一週間前のこと。理由は単純、自分も同じように橙色のクマをもらったからである。その名をミカン。名付け親はどちらも母だ。

「……私、菜乃と遊びたいなー?」

「あーとで! ねぇ、はやく」

純粋無垢な五歳児は、とても素直に姉本体に用はないと告げてくる。

「もぉー私泣くよ?」

「えーなんでー?」

腕を解いて、バッグも置く。差し出した両手はやっぱり引っ込めようとはしないから、諦めて金具を外し、モモを渡した。菜乃の視線はもう戻ってこない。肩越しに「ありがと!」と叫ぶと、一花を残してさっさとリビングへと舞い戻ってしまった。

「早く帰ってきた日くらい、その愛の半分でいいから姉にも分けてよ……」

やっと靴を脱いで上がり框に足をかける。すぐ隣の階段からは足音が降りてきた。

その気配が、今はどうしても気まずい。

「おかえり。ケーキ、冷蔵庫にあるよ」

母が膨らんだ洗濯籠を抱えたまま、通りすがりに頭を撫でる。一拍置いて、犬のように頭を振る。

ふんと鼻を鳴らす。

「早く食べればいいのに」

母の背中を眺めながら、昨日から未だ扱いきれない感情がぐるぐると渦巻いた。


一花の誕生日は四月十三日。だから、春の門出は誕生日と一緒にして、ケーキが出てくる事は多々あった。今年もそうだろうと思っていたし、ケーキが出てくるだけで十分とも思っていた。問題はそこじゃない。

「なんで、チーズケーキなの?」

一花は甘いチーズがあまり好きではない。果物の方が好き。これは菜乃の好物。母はただ苦笑する。

「今年は菜乃の入学祝いも一緒でしょう。菜乃が店内で騒いじゃって」

 菜乃は可愛い。大切な妹。高校生になって、誕生日を特別な日にする気もない。

「ごめんね、今年は菜乃に譲ってあげて」

それでもすごく、腹が立った。

「……いらない」

 思いの外低く出た声に母が驚いている。一花もこの感情が分からない。

「嫌いだもん。菜乃にあげれば」


リビングを通らず、二階の自室に籠って数十分。課題を前に、ノートの端を弄んでいた時だった。

「いっちゃーん」

ノックどころか返答する間もなく、無邪気にガチャリとドアが開く。菜乃はモモ達を両手に握っていた。

「これなぁに?」

ズイッと差し出された右手に諦めてシャーペンを置く。指で示したのはモモの足の刺繍だ。

「私のマークでしょ。ほら、菜乃は『菜の花の菜乃』だから、ミカンの足には黄色のお花」

二つの刺繍を並べて見せながら、一花は少し首を傾げた。モモ達に限らず、母が作ったものには全て刺繍がされている。一花が紫で自分が黄色の花だということは当に知っているはずだった。菜乃は平然と頷く。

「うん、しってるよ。だから、いっちゃんのお花なぁに?」

「あぁそういうこと」

一輪の花の一花だから、紫の花が一つ。菜乃と違って直接名前に引用されていないから、それが何の花なのか言われてみれば考えた事がなかった。紫で、五枚の花弁が少し尖っているおかげで星にも見える花。急かすように菜乃は「ねぇねぇ」と繰り返す。頭の中に一つの名前が浮かんだ、その時だった。

「ねぇ、このお星さまのお花、なぁに?」

──今、何かが引っかかった。大きな瞳がこちらに向いている。捉える前に過ぎた違和感が気になって、黒い瞳孔から目が離せない。心臓がうるさい。吸い込まれそうな心地がする。重大なミスを見つけた時のような、身体中が痺れる感覚がする。

「……いっちゃん?」

ハッと気がつけば、菜乃はどこか不安げに眉を下げていた。

「えーっとね、そう。桔梗、だと思うよ。ほら、星形で紫」

さっと調べてスマホの検索画面を慌てて見せる。菜乃が素直に喜ぶ横で、一花は未だ妙な鼓動から抜け出せない。お星さまのお花。そのフレーズをもっとずっと前に聞いた気がした。記憶の糸口が見えそうになったところで、またガチャリとドアが開く。

「菜乃ー? モモ返すだけで時間かかりすぎ。早く宿題やってくださーい。ごめんねいっちゃん」

母が、呆れた様子で立っていた。入口を振り返った菜乃は咄嗟に両手を背中に隠して言い放つ。

「終わったもん!」

「えぇ、さっき始めたばかりでしょう。ほら、いっちゃんも一人のお部屋じゃないと集中出来ないから。行くよー」

「いーや!」

どたばたと駄々をこね始めた菜乃を半ば引きずるようにして母は部屋の外に連れて行く。その合間に手からモモを抜き取って一花に返す事も忘れない。

「もうすぐご飯出来るから。キリの良いところで降りていらっしゃい」

「あ、うん」

手元に戻ったモモと、いつもの風景。変わらない母。まともに口を挟む間もなく、また部屋に静寂が戻ってくる。ドアを見て、モモを見る。スマホは置いて、両手で握った。首元の小さなリボン。足裏には紫の花。耳は静寂の中の微量な音を捉えて軋んでいる。お星さまのお花。一輪の花の一花。

──じゃあお前、明日から一人な!

誰かの声が聞こえた瞬間、濁流のように過去の記憶がなだれ込んだ。大きな改竄が、ガラガラと剥がれていく。

菜乃と一花は十歳差。つまり一花が小学校に入学したのは十年前。そのタイミングで一花がモモをもらったから、菜乃も入学祝いでミカンをもらった。そのはずだった。

乾いた笑い声が小さく揺れる。順番が、逆だ。

「菜乃が入学祝いでミカンをもらったから、私もそうだと思い込んだ」

 何故、今まで忘れていたのだろう。

「モモは、入学祝いなんかじゃない」

触れた指先はやけに冷たかった。


一年生か、二年生か。ここまでくるとそれすら怪しいけれど、まだ少なくとも低学年用の昇降口を使っていた頃。曇り空が長く続いて、いつにも増して廊下がひんやりとしていた日。一花は授業で名前の由来を発表した。手に握る原稿用紙には、昨日両親に聞いた話をそっくりそのまま書いてある。自身の名に込められた意味は初めて知った。順番が回ってきて、一輪の花の一花だとただ誇らしく発表する。その行為に皆との差異はなかったはずだった。

休み時間で廊下に出ると、唐突に目の前が陰る。目線を上げると、一花よりも背の高いクラスの男の子が立ちはだかっていた。普段ほとんど関わりはなく、教室の隅っこで穏やかに過ごす一花とはまるで真逆。クラスの中心で、バカ騒ぎしては先生に怒られるような子だった。壁際に沿ったその道筋を通りたいのだと思って横に避けるも、彼はとおせんぼするように追ってくる。訳が分からず固まった。見上げた先で、彼はわらう。

「ねぇ、『一輪』って事は、友達いらないの?」

確かに、よく一緒にいる友達は、丁度学校を休んでいた。廊下の端で対峙する二人を気にする人もいない。けれどそういう事ではないことくらい分かると思った。言われた意味が分からない内に、彼は勝手に沈黙を肯定と取る。

ニィッと嗤う、歯茎が見えた。

「じゃあお前、明日から一人な!」

誇らしそうに、自分が一番に発見したと自慢するかのように、言うだけ言ったら満足して、彼は一花を通り過ぎる。薄暗い空間で、彼の声がこだまする。

どんなにやんちゃでも、彼はクラスの中心にいる子だった。彼の言葉は、本当になれてしまう言葉だった。

がらんどうの廊下に焦点が合わない。一人だと言われた直後に、本当に一人取り残されている。言われた意味は、やっぱり分からない。両親が教えてくれた意味からは、あまりにも乖離していたから。言葉通りは、信じたくないのに、人生たった六年分の知識では、別の意味なんて見つけられなかったから。

覚束ない足取りで教室に戻っても、休みの友達は休みのまま。帰るまで一人で考えた。帰っても考えていた。考え続けて、学校にさえ行かなければ、一人だと知らないままでいられる事だけはどうにか分かった。

だから一花は、泣いて叫んで学校を休んだ。次の日も、また次の日も。

だから母は——モモを作った。

「とびっきり可愛く作ったから。モモちゃん持って行けば、絶対誰かが話しかけてくれるよ」

 ねぇ見て? と、モモを手渡しながら、母は一花の頭を撫でる。

「このお星さまのお花が、絶対、ぜぇったい一花のこと守るから。何があっても、ね」

母の声は凜と力強く、そして本当にその通りになった。一連の出来事をたった十年で忘れられるくらい、二日ぶりの教室は前と変わらなかった。


耳元で、浅い自分の声がする。瞬きもせず、手に残る紫の花を見つめる。……予感があった。

母は手芸と同じくらい、花が好きだ。

固まった指を無理やり動かして、スマホを動かす。関節が頼りない。思い出した記憶の断片が脳をグラグラと揺すっている。妙な緊張感で、菜乃に見せた検索画面に三文字分つけたすだけなのに、何倍の時間をかけてしまう。検索ボタンを押しつけて、ゆっくりと離す。画面は無情に、一瞬で切り替わった。

あの時母は、どんな顔をしていただろうか。

手元で光る文字列が歪んで見にくい。目をそらして、顔を上げて、それでも無理だったから諦めた。柔く詰まる息の隙間を、吹っ切れた笑い声がひらひら通る。

「こんなの、小学生が分かってたまるか」

鼻の奥が少し痛い。口角はふるふる上がっていく。気恥ずかしさで唇を噛んだ。やってくれたと母を心中で責めながら、モモの足を何度も撫でてあげた。

──桔梗の花言葉は、「変わらぬ愛」

形式的なお祝いではなく、一花にだけの贈り物。

一花も大概、子供なのだ。昨日のあれは、誕生日くらいその愛を独り占めしたかっただけだと気づく。

はぁあと長い息を吐く。

「……ケーキ、食べよう」

 食べられないほど、嫌いでもない。


ドアを開けると、奥からうれしそうな声がする。椅子の足がきぃとなって、トタトタと軽い足音が跳ねる。天使さまが登場する前に、一花は靴を脱いで金具も外した。

「いっちゃん!」

「はいどうぞぉ」

ドアが開いた瞬間モモを手渡し、駄々っ子五歳児の機嫌を取る。彼女の目的が一花でないと重々承知でやった事だが、一秒で踵を返した後ろ姿にやっぱり心を抉られる。仕方ないけれど。今日は、それ以上にやりたい事が他にある。気を取り直して、等間隔の音が咲く台所へと足を向けた。

「お母さん」

「おかえり……どうしたの?」

いつものくだりがないからか、母は少し拍子抜けしたように首を傾げた。一花はニィッと笑って、お椀型にした両手を差し出す。

「刺繍の道具、貸して?」

一拍置いて、二つの瞳がまんまるに見開く。あまりにもそれが菜乃とそっくりで、一花は大声で笑ってみせた。

自室の机に、借りた道具と買ってきたばかりのキットが並んでいる。サルビアと書かれた隣には難易度の星が四つもあった。母の技量に反して、一花の能力がミジンコ同然である事は分かっている。小学校の家庭科でそれをよぉく知っている幼馴染みは、悪いことは言わないから絶対一人でやるなと言ってくれた。酷い話である。

ふんと鼻を鳴らす。

「一人で大丈夫だもん」

使いかけの紫の糸を、長く引き出す。一針ずつ丁寧に。

この糸で、愛を縫おう。

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