ただそこに在るはなし
竹倉 翠雨
第1話 瓜の蔓に茄子もなりたい
明莉が手伝うことになったのは、単に折よく訪ねてきたからだった。
「ごめんね~明莉ちゃんも新生活準備で忙しいでしょうに。菫の引っ越しの手伝いだなんて」
玄関先で大きく膨らんだ荷物を抱え、ぽったりとした母が振り返る。今年で五十代後半というのに、これから元気に六時間勤務だそうだ。
「いえいえ。私はこのまま実家通いだし。提出書類もひとまず落ち着いたから大丈夫です」
明莉の爽やかな佇まいに、頬に手を当て、吐息を一つ。その仕草に菫もまた小さくため息をついた。
「やっぱり流石ね。あの難関大学に合格しちゃうだけあるわ。菫も浪人にはならなくて良かったけれど、結局他県だもの。一人暮らしなんて大丈夫かしらって未だに心配で。それに——」
「お母さーん。時間ないんでしょ。早く行きなよ」
壁にもたれかかったまま、あごをぺいっと時計に向ける。いつもの出発時刻よりすでに七分超過だ。
「あらやだ。じゃあ明莉ちゃん、菫のことよろしくね。菫もちゃんとやんなさいよー」
口を挟む間もなくドアが閉まる。途端に周りが静かになった。
「ふふ、ゆうちゃんがゆうちゃんしてる」
跳ねた毛先が肩を流れる。ただの寝癖も明莉の髪質だと様になる。生まれつき人より少し明るい彼女の髪はいつもふるりと絡まっていた。
「そ、心配性で明莉大好き。実子の私もかないませーん」
そんなことないでしょと笑う声に菫はただ肩をすくめてみせる。頭脳明晰、才色兼備。出会った頃から何でもできるスーパーマンが杉原明莉だ。才能、容姿、職業等々、全てにおいて凡の凡を生きる三村家にとって、四歳の娘が連れてきたお隣の星はさぞ眩しく映っただろう。合格祝いのケーキだって明莉の方がチョコのプレートが豪華だった。
「私の方がチョコ好きなのに」
「またそれかい。食の恨みは怖いねぇ」
先に階段を上っていた明莉が目を閉じてウンウンと頷く。
「だぁってそうじゃん。私だって合格した」
意味もなく壁紙の凹凸を指でなぞり、倍の時間をかけて後を追う。頭上で待っていた明莉の顔を覗けば、わざとらしく肩を落とした。
「もーわかったってば。終わったらコンビニね。終わったら」
明莉が指すのは菫の汚部屋だ。六畳半の広さに対して圧倒的に服の量が多すぎると、かれこれ三年は言われ続けている。一向に直らないのは、母が売ってもその分菫が出かける度にマネキン買いをするからだ。
「本当に洋服持ちだよね。羨ましい気はするけどさ。なんかまた増えてない?」
着々と段ボールを組み立てる明莉にガムテープを放る。あちこちに出来た服の山は菫が片っ端からハンガーを取って集めた結果だ。クローゼットの中にはまだ手つかずの服が眠っている。
「明莉もバイトで稼いだ分注ぎ込めばそうなれるよ。部屋の広さと引き換えに」
「やなこった」
たまご色の春の光が、淡く小さく宙を舞う。開け放った窓辺で、ふぅわりとカーテンが透き通った。
「うわぁ懐かしい。まだこれ持ってたの?」
菫が仕分け、明莉が収納と役割を決め、作業し始めてから数時間。途中で食べたお好み焼きが丁度お腹で主張してきた頃だった。クローゼットの中から出てきた明莉が紫の塊を掲げている。それが何かはすぐに分かって喉の奥から変な声がでた。人工的な緑のヘタに、所々色がくすんだ紫のボディ。ふっくらとした分厚い生地に顔と手足の穴があいている。
それはまぶしい記憶の欠片で、一二を争う黒歴史。
「伝説の、ナス!」
えいっと走るポーズをとった明莉にとうとう菫も吹き出した。重力そのまま服に埋もれると、柔軟剤の甘酸っぱいにおいがひろがった。
その場の流れと気の迷い。あるいはノリが楽しい中学生の青さ故。二年生の夏祭り、菫と明莉はナスになった。もしかしなくても、あれが人生で一番ダサい瞬間だ。突き刺さる視線と、籠る熱気と、明莉のダッシュを思い出す。
事の発端は明莉の母、環ちゃんが町内の子ども会主催の夏祭りに、杉原家特製のナスカレーを出店したいと言った事からだった。環ちゃんのナスカレーは菫も度々ごちそうになっていて、すごくおいしいのを知っている。だから店の手伝いは菫から申し出た。じゃあ呼び込みをお願いしようかなと言われた時も疑うことなく引き受けた。
「その時は悪ノリ環ちゃんをまだまだ知らなかったからなぁ」
倒れ込んだまま首だけひねって明莉を見る。
「後にも先にもこれ以上の悪ノリはない。菫を巻き込むなって怒ったもん」
夏祭り当日、用意されていたのはおそろいのTシャツでも紫色のタオルでもなく、大きなナスの着ぐるみだった。安物のペラペラとしたものならまだマシだった。真夏の夕方、熱気は籠もるし、風もほとんど通さないその着ぐるみで、汗びっしょりになりながら二人は必死に道化を演じた。環ちゃんのナスカレーは最速の一時間と少しで完売した。
「私まだこの時の写真残ってると思う。データそのままだし」
「へ?」
スマホを手に取った明莉に、ドキリと心臓が音を立てる。忘れもしないこのナス事件は菫も大切にしている記憶の一つだ。おつりを忘れたちびっ子たちにナスの明莉が猛ダッシュで届けに行って、阿鼻叫喚の追いかけっこが始まったのもいい思い出だ。だからこそ環ちゃんがそのままくれたこの着ぐるみだって、きちんと畳んでしまっておいたのだ。
ただ問題は、当時の菫が大層まんまるな体つきをしていたことだった。つまりはぶさいく。一生思い出したくない過去の自分である。
「それをなーんでまだ持ってんの!」
思い出しただけで寒気がする。素早く起き上がって、部屋の端を陣取っていた明莉に駆け寄った。当時の姿の記録なんて抹消するに限るというのに。
「だって面白かったじゃん」
「それとこれは話がちがぁう! そもそも中学なんて五年も前だよ? そのまま消滅しとこうよう」
ばっしばっしと背中を叩くも、明莉は全く気にしない。お婆のようにのんびり頷いてされるがままだ。
「時の流れに逆らうのが写真の役目だからねぇ。菫も見たいくせに」
「だれが!」
全くこちらを見ていないのに明莉の防御は堅かった。スマホを奪わんとする菫の両手を避けながら、スイスイと指を滑らせる。仕舞いには片手でいなされた。
「ほれ」
ずいっと間近に差し出されたのは、手足の生えたナスの二人。怖いくらいに綺麗なフォームで走る明莉と、店の前で笑いころげる菫だった。ダサい着ぐるみのはずなのに、明莉のナスは何故か様になっている。もっちりとしたナスの先から細い手足がすらりと伸びる。分厚い生地に埋もれかけた必死の形相もどこか愛着が湧くから不思議である。対して菫は酷かった。風船みたいに膨れた顔。笑ったおかげで更に頬が盛り上がっている。重いまぶたに目元は潰れ、手足も明莉の二回りは太い。ぶさいくで、ぶさいくな菫だった。
「うわぁムリやだ今すぐ消して!」
右手がスマホに伸びた瞬間、ひょひょいと器用に狭い足場を跳ねて逃げられる。両手で隠すようにスマホを肩口に遠ざけた明莉は、拗ねた声色で笑ってみせた。
「いやだよ、私この菫好きだもん」
「なんでよ!」
「かわいいじゃん」
「はぁ?」
それのどこが、という副音声はきちんと明莉にも伝わったらしい。しょうがないなぁとでも言うように、眉を下げて、肩をゆらす。
「ほんとだって。菫、最近カメラ向けても全部同じ。綺麗な笑顔しかしないんだもん。それが爆笑だなんて、キチョーだよぉ。これ撮ったゆうちゃん天才だと思った」
杉原家だけが使う母のあだ名が今回ばかりは憎たらしい。行事になると一眼レフを片手にシャッターチャンスを狙っている人だ。いいものが撮れたと嬉々として共有したのだろう。
「あんの盗撮犯」
「写真好きって言ってあげなよ。というかゆうちゃんが撮ってたの、菫だって了承してたでしょ。つまり盗撮ではなぁい」
明莉の笑顔に舌打ちで返せば、面白そうにさらに笑った。鼻を鳴らしてそっぽを向くと、窓の外が薄暗い。おかげで変に口を曲げた自分がはっきりと映った。今でこそ人並みに痩せたが、菫の比較対象はいつだって明莉になる。凡の菫が対等になれる訳がないのに周りは無情に優劣をつけた。
だから、かわいいは、いつも明莉のものだった。
無表情で目をそらす。中途半端に開いた段ボールに、真新しいパジャマが引っかかっていた。モコモコとしたもも色の生地に、背中についた三角のとげ。フードについたキバと瞳がかわいらしくて、中学生の心を奪った恐竜のパジャマ。
これがいいと言ったのは、菫が先だった。二人が買うには少し高めのそのパジャマを見つけた後、お互いがお小遣いを頑張って貯めはじめた。十一月に控えた修学旅行に間に合わせるべく、買い食いをやめて、新しい漫画も我慢した。売り切れないかとハラハラしながら通販サイトにアクセスしては、まだあるよと励まし合った。
明莉ちゃんはかわいいのにね。
偶然聞こえたその言葉を、多分、明莉は気づいていた。
「菫」
ふと、柔らかい声が響く。
「……なに」
ゆっくりと顔を上げると、明莉は困ったような、気恥ずかしそうな、寂しそうな顔で首を傾けていた。
「もっと笑ってよ。そのまんまが、いいからさ」
「おうぁ。結構時間経ってる」
明莉も窓の外の暗さに気づいたらしく、スマホを置いて動き出した。まだ部屋には仕分けも収納もされていない服たちが散乱している。その他の雑貨もまた然り。ベッドだって解体しないといけない。とりあえず外に出していたためにむしろ前より散らかった気さえした。
「これ本気で終わる気がしないんだけど」
リミットは明日の昼過ぎだ。悠長な事は言っていられない。ただ、今までで一番散らかった部屋についため息が出た。
「ま、最悪菫が自力で運ぶってことで」
顔を覆った隙間から睨めあげるようにして覗く。明莉はさも名案だと言わんばかりの顔でコクリと頷いた。ついでに元気なサムズアップ。
「そこは無理にでも間に合うって言ってよ……」
想像だけで十分疲れた菫に対して、明莉は子供がいたずらに成功した時みたいな笑い方をした。
「じゃあそろそろ本気を出そうかね」
ひとり気ままに大きく伸びをして、手に持っていたナスをこちらに投げた。そこら辺にあった服も手当たり次第、見向きもせずに容赦なく放ってくる。止める間もなく無数の服が宙を舞った。羽のように、跳ねるように。天井の光を透かしながら、明莉の腕がトランポリンになったみたいに、ぽーいぽーいと飛んできた。手元のナスはヘタの下でぽっかりと空いた穴がこちらを向く。黒くて、深くて、無駄に分厚い。それでも奥の光がうっすらと透過した。
「明莉ー」
クローゼットの中に頭を突っ込んだまま、声だけが返ってくる。もぞもぞと背中が動き、数秒も経たずに戻ってくる。まんまるい目が瞬いた。綺麗な笑顔をしなくても、何も考えていないような気の抜けた顔でも、明莉だと許される。明莉だったら、様になる。生まれ持ったスペックを前に、周りはどうしたって不平等だ。けれどそれを素直に憎めないくらいには、明莉は明莉で、菫に対してはいつも不平等に優しかった。
「もう、いいや」
声の玉がぽんとはじける。大きな息の玉が引っかかりながら喉を通って、頬がしゅわしゅわと震えている。
「ここら辺の服、袋に入れるのだけ手伝って」
ぱっちり二重の大きな瞳がさらに大きく見開かれる。それをなんでもないように見ないフリをして、段ボールの代わりに七十リットルゴミ袋を手に取った。明莉が来るよりずっと前、本当に好きな服だけは既に箱詰めしてあった。あとで、あのパジャマは追加しよう。一拍置いて無言で近づいてきた明莉がぽすぽすと頭をなでる。背後に回ったと思えば、ぐぅっとこちらに寄りかかってきた。
「なに、おもっ、痛い」
「それらはどこへ?」
ぶらりと脱力した白い指が、手元の袋をちょんとつっつく。首元を髪が撫でてくすぐったい。離れる気はないことを悟って、せめて分散させようと腰を折る。
「んー。なるべく高く売れるとこ?」
すべらかな右腕が、頼りなくその左と絡んで揺らいでいる。
「じゃあ、そのお金で帰ってきて」
木琴みたいな、かれんな声がころころ響く。頭脳明晰、才色兼備。何でも出来るスーパーマンの唯一の弱点を、そういえば菫は知っていた。
「この家に、ちゃんと帰ってきてね」
目の前で垂れ下がる左手を、少し遊びながら両手で握る。ぱちぱちと拍手をして、細い指を意味もなくつまんで、最後にぎゅうっと強く握った。
「うん」
この寂しがり屋は、いつまで経っても直らない。
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