Vamp Psychedelia

腺沼優ニ子

Vamp Psychedelia




 血液でキマるタイプの人間がいる。たとえば俺だ。



 

 キマる、というのはつまり他の言い方をすると、パキる、とか、ラリる、とかそういうやつ。薬物に関して俺は違法も合法も脱法もあまり縁が無いので「キマる」という言い方が正確にその状態を指しているかどうか正直わからないのだが、でも、多分、あれは「キマッてる」で正しい。


 あらゆる五感がバグって幻視・幻聴・幻嗅が同時多発的に大挙しキマりまくりでぽわぽわの俺をガンガン襲う。研ぎ澄まされた神経が俺の脳内に収まりきらずに漏れ出て部屋も飛び越え空の上までいっちゃって、そこから距離も壁もガン無視で俺という存在を俯瞰する。視えない筈のすべてが視えて、それらを構築するオブジェクトたちの輪郭がいちど消され血の赤で再度描き直される、何度も、何度も、何度も描き殴られる。大量の赤い多重線に囲われた俺はそこで新たな景色に気付く。幻想はいつも確かに俺の脳みその中にあった、当たり前のように、それこそ、あらゆる生物の身体中を血液が循環しているように。普段は眠っているその能力が他者の血液の客観的な認識によって呼び覚まされると、途端に俺の中に攻め込んでくるのだ。わかるか? これが世界の真理なんだぜ、とそんなことを鼓膜の真横で捲し立てる。興奮と覚醒は互いに高まり合って連鎖する、天上天下とミクロとマクロが瞬時に切り替わり全能感に支配される。悪い気はしない、なんなら快楽とさえ言えるだろう。だからもっと、もっと、とより濃くて多量の血液を俺は欲する。


 俺は吸血鬼だ。血を求め、生きる意味を血に見出す。

 

 でも別に、誰かの血液を俺の身体へ接種するようなことはしない。吸ったり、呑んだり、嘗めたり、味わったり、そんな行為は必要ない。ただそこに血液がある、その確証が得られれば十分。誰かが血を流している、壁に血痕が着いている、衣類が赤黒く汚れている、そんな場面の傍に立っているだけで俺の受容体は反応し、どばどば体内へ麻薬物質を撒き散らしてくれる。ジャスト、確信。ほんと、それだけで俺は覚醒出来ちゃう。

 

 記憶が無いほど幼い頃のことは知らない。けれど大体、小学校に上がるか上がらないかくらいのところで既にそういう身体のつくりは備わっていた筈だ。覚えている限り最も古い記憶はしらゆりこども園の卒園式中、当時園児の中ではいちばん大柄だった沢木ひろきが鼻血を出してガーンと壇上からぶっ倒れたときのこと。俺はそのとき沢木ひろきの真横で「おもいでのアルバム」を歌っていた、いや、「今日の日はさようなら」だったかもしれない、兎に角、その位置からよく見えたのだ、彼の鼻腔から噴き出した血液の赤が。伴奏には丁度そのとき来日中だったイングランドのヘヴィメタルバンドMotörhead(モーターヘッド)が客演してくれて、モタヘ目当てで押し掛けた卒園式に全く関係のないおっさんとか金髪のねーちゃんらが園の狭いホール内に鮨詰め状態になっていた。沢木ひろきはぶっ倒れたのち、十三段くらいあるひな壇をレインボースプリングの要領でぎっこんばったん墜ちていき、垂れた鼻血は各段に干支の形の染みを残す。墜ちた先のフロアには運よく医学科浪人生の客がいて彼が捨身で執刀する無免許オペのお陰で沢木ひろきは一命を取り留める。式後のヒーローインタビューで浪人生は「知識の前借りを裁く法律は未だこの国には無かった筈なので笑」と嘯いた。一同大笑い、俺は笑えなかった。まあそもそも鼻血程度でガキは死なないからこの思い出に信憑性はなく、ファンも園児も父兄も共々デスヴォイスで沸き立つフロアとか、保育士たちが物販対応で天手古舞だったこととか、浪人生とか十三階段とか、これらぜんぶが俺の幻視・幻聴、沢木の流血が原因で書き変えられた嘘の思い出であるのは確か。

 最初は恐怖を覚えていたかもしれない。ガキの俺はどこまでが現実でどこまでが幻想か判断出来ず、知覚されるすべての情報を拒絶したくなっていただろう。しかし幼い子供というのは如何せん怪我が多く、体育の授業や公園での遊戯にて自然と訪れる流血場面に幾度も立ち会う度、同じような、いや、似ても似つかない多種多様な幻想を浴びせられては次第に恐れも消えていった。原体験的情景は得てして過剰であり、卒園式のようなあまりに脈略がなく具体性の強い幻影はそのうち薄れていく、代わりに十代になる頃には草花や虫、もっと抽象的な色鮮やかなイメージなど、所謂〝トリップ〟的幻影が増えた。また、この流血ゾーンに入ることが同時に莫大な快楽を伴うと発見したのもこの頃で、病みつきになった俺は自ら望んで他者の流血を確認しに行くようになる。

 気色の悪い子供だったろう。東に怪我人アリと聞けば鼻の穴を拡げて向かい、西に事故アリと聞けば這ってでも現場に現れ、人からどう見られるか気にも留めず虚ろな目をして譫言を漏らす。トリップを繰り返す毎その効果は持続力を落とし、脳内を駆け巡る快楽物質が切れれば軽い禁断症状に陥る。欲求と自制心の熾烈なせめぎ合いはついに譫妄をもたらし、無意識のうちに何度鋏を握りしめたことか。

 幸か不幸か俺の脳は、俺自身が流す血に限ってまるで麻痺したかのように働きを止め、痛みだけを素直に享受する単調な機械と化してしまう。画面の向こうの流血場面に関しても同様で、それが作り物であれ実際の映像であれ、距離的な隔たりがあると理解しているうちはとんと興味を示さない。よって快楽をたった独りで自給自足することはどんな手法を選んでも果たされず、つまり、仮に行動に出るのなら必ず誰かの助けないし他人の痛みを経る他無い。ひとつ断っておきたいのは俺が二十余年生きたうち、自らの欲求を満たすべく暴力的な手段に訴えた機会はいちどだってなかったということ。だからこの世に生を受けたこと以外、俺に余罪は無いのである。

 この症状を誰かに言ったことはない。俺以外にこういう種類の人間がいるかどうかもわからない。両親も兄弟も至って普通のやつらだから遺伝とかではない筈だ。いちどだけネット上の質問型掲示板において、「体質」や「精神疾患」などのタグを貼ったりなんかして個人が特定されるような情報は伏せつつ、やんわりとそれとなく書き込んでみたことがあるが、案の定、しばらく誰も取り合ってくれず、数日経って再び確認すれば「厨二病乙ww」などと罵倒するコメントだけが付いており、ついぞ有益な情報は得られず仕舞いであった。この顛末については俺の特異体質の唯一無二性が保たれた気がして、かえって優越感情がくすぐられる心地がした。

 小学六年生のとき、まわりのやつらに比べ少しだけ成績が良かった俺は通っていた塾で中学受験を勧められる。県内にある国立大学の附属中学だから特に学費が高い訳でも通学が困難な訳でもなく「記念受験くらいに思って。」などと親に唆されながら受けてみれば見事合格した。思春期真っ盛りかつ変な体質によって理解を越える行動を数多していた小学時代だったので、親はかなり安心した筈である。俺だって少し自分を見直した気分になった。

 入学後も調子よく高い成績を維持し、中学三年間を通して学年順位が二桁に落ちることはいちどもなかった。部活は膝を擦り剝く機会の多そうな男子サッカー部に所属し、そこにおいてもある程度の活躍を果たせた。基本的に流血ゾーンへの没入はおよそあらゆる能力の活性化をもたらし、運動競技によって薬物のドープがパフォーマンス向上に効果的であるように、他者の流血が期待出来る、または既に為されている段階でのその試合は俺の独壇場であった。しかし実際には柔らかい芝生の上よりざらついた砂地などの上で転ぶ方が流血の確率が高くなるため、たとえば陸上部なんかの方が他人の血液に立ち会う機会は多かったんじゃないの、と気付いた頃にはもうサッカー部も引退間際であり、練習中に度々陸上グラウンドの方へ羨望を向けている奇妙な上級生として俺の姿は後輩の目に映っただろう。

 附属中は中高一貫ではなかったので高校に入るためにもまた受験をする必要があり、志望したのは県内随一の進学校である男子校、ここも難なく合格した。入学式後、帰宅途中の電車内で学校案内のパンフレットを舐めるように読んでいた母から、「医学部への進学実績もすごいわよ。」と言われ、「それだ。」とピンときた。

 医者になれば、他者の血液に触れる機会がいまより格段に増えることは確実だろう。

 不純な動機と罵られるかもしれない。でも、夢なんか持ったことがなかった俺にとっては天啓を受けた気持ちであったのだ。何故いままで気付かなかったのだろう、と思った。何故気付かないままここまで目指すものもなく勉強を頑張れたのだろう、とも考えた。すべての努力は医学部に入るためだったのではないか、他人の血液への接触機会が増える方向へ無意識のうちに標準を合わせていたから勉強を続けられたのではなかろうか、そんな荒唐無稽な発想さえ湧き出る始末であった。

 兎に角、高校入学後はひたすら医学部医学科への合格を目指し、勉学に邁進した。貧しい家庭ではなかったが、私立の医学部へ通わせられるほど裕福でもなかったため自然と国公立大学を志望することとなり、それはつまり日本の中で上位数パーセントの学力を有する必要があることを意味していた。苦しいと感じたことはなかった。部活にも入っていなかったため流血を目にする機会は減っていたが、こと学習に関してトリップは良い効果を与えないことを経験から知っていたので、禁煙禁酒ならぬ禁血を自らに課していた。厳しく精神を律すれば禁断症状さえ脳の隅に追いやることが出来た。

 高校二年生から駅前の学習塾に通い始めた。東大や京大、医学部医学科への現役合格を目指す高校生のための会員制の塾である。俺が通う高校の生徒ならば月謝が多少安くなるとの文言に惹かれ入塾を決めたが、入ってみれば本当に多少しか安くはならず、それよりも家計を圧迫したのは莫大な教材費であった。入ってしまったものは仕様がない、いつかの出世払いね、などと笑いながら専業主婦であった母は家の中で出来るパートの仕事をもらってきて何とかやりくりしてくれる。夜遅くに塾から帰宅すると暗い食卓にはラップのかかった夕食と重なった段ボールが並び、その横で無心にゼリーのカップへラベルを貼る母の後ろ姿を見たとき、初めて、本当に生まれて初めて、俺の心は痛んだ。俺は間違った夢を設定してしまったのだろうか? 俺という存在は、この世に生まれてきても本当によかったのだろうか? 答えは出なかった。疲れの滲む彼女の背に、ただいま、と声を掛けることさえ憚られ、俺は唇を動かすだけで、ごめん、と言った。

 塾には何人か同級生がいた。一年のとき一緒のクラスだったやつと二年で一緒になったやつ、それからそいつの友達の、計四人でいつもつるんでいた。彼らとは塾の中だけでなく次第に学校でもよく喋るようになり、塾のある日は共に駅まで向かい、無い日だって四人並んで通学路を狭くした。小学時代は血液を追い求める奇行を隠さなかったためか友達と呼べる存在はいなく、中学時代は逆に自分の特殊な嗜好を悟られないよう必要以上に心を閉ざし続けていたせいでやはり友達は出来ず、高校に入ってから勉強を生活の中心に据えたお陰でやっと肩の力を抜いて級友と関わることが出来、塾の彼らをはじめとして友達も増え、人生の中で最も交友関係が広がる時期であった。それに伴い、段々と心から湧き出るような笑顔が増えた。別に今までだって笑えなかった訳ではないが、下手に脳を破壊するほどの快楽を幼い頃から覚えていたせいでどこか物足りないような、そんな心地を常に抱えていたのだ。それが高校二年の頃になると衝動的な欲求は鳴りを潜め、対して、ささやかながらもかけがえのない日々の瞬間に喜びを見出す気概が生まれた。その劇的な変化は、流血を目にしなければここまで心安らかに生きることが出来るのか、と俺自身目を見張るものがあった。医学部を志望する動機が何だったのか俺の中でも曖昧になってきており、しかしそれは嬉しい曖昧であると認識する。このままあのホリックを闇に葬り去りたい気持ちであった。俺はまっとうなやつだと信じ込みながらすべて忘れてしまいたかった。


 秋風の吹く涼しい日曜のことであった。塾内で模試があるせいで、休日なのに俺たちは駅前ビルの四階に詰め込まれマークシートと六時間向き合い続けていた。日が暮れる前にテストは終了し用紙を提出した後、解散となった。四人でどこか飯でも行こうか、と誰からともなく提案され、多少の解放感を全員が漂わせながら笑い合ってビルを出た。駅へ向かう交差点に差し掛かり、俺は携帯を机の中に置き忘れていたことに気が付く。「悪い、忘れ物。」と言って、回れ右をして急いで教室へ戻ろうとしたとき、背後で耳をつんざくスリップ音が轟いた。まるで、自分の心臓が止まったようであった。遅れて耳に入る群衆のどよめく声、うるさい女性の悲鳴、もたつく時間の中で振り向けば、縞模様の横断歩道の上に俺の友達が並んでいた。その身体の多くは引き千切られ散逸し力なくのっぺりと捨て置かれた状態で、さっきまで数Bがどうの、立体ベクトルがどうのとか話していたやつらが立体どころか平面になっていておそろしい。棒のようになった足を何とか前へ振り出し、匂い立つほど人間の中身を無様に曝す彼らへ俺は近付く。彼らを直視する。彼らの裂け目を、内容を、往生際を、見届ける。俺は、俺はどんな顔をしていただろう。


 俺はどんな顔をしていただろう。


 当たり前のように現場には血が流れている。人生で見た中で、フィクション/ノンフィクション/実体験含め、もうダントツいちばんで、最高級の出血量。横断歩道の白の縞縞が赤に浸食されていき芸術的な模様が浮かび上がる。線が少ない部分はキャストがモップで描いてくれる。彼らはティムバートンが美術監修を務めた衣装を纏い、奇妙に折れ曲がった箒と塵取りとマイペットの容器を抱えた文科省の掃除屋たちだ。ブルガリア仕込みの和声進行で歌っているのは、日雇いの試験官たち。リクルートスーツがはだけ茶会用のドレスが覗き、彼女たちも実はキャストであったことが明かされる。空から梯子が降ってくる。その威勢の良さから何本もあるのかと思いきや二本だけで、一本は無人、もう一本にはザ・タッチのふたりが掴まっていた。一本無人ならそれぞれで分け合えよ、仲良しかよ、と思う傍から「幽体離脱~。」と叫び投身、地面にぶつかる前に俺は興味を失ってしまう。役者は皆思い思いに動き回る。統制なんて取れていない。こんな凄惨な事故、そりゃ誰もがパニックになるだろう。駅前は時代遅れのフラッシュモブか、それとも駅前を模したミュージカルの舞台であったのだろうか、事故った車さえ躍り出し、動かないのは彼らだけ。


 俺の三人の友達だけ。




 二年半が経った。俺は医学部に進学せず、しかし志望校を変えることもなく、目指していた総合大学の医学部棟の目の前、工学部棟を主な縄張りとする工学部二年の学生になっていた。

 よくよく考えてみればいちいち流血に興奮しているようではろくに医者は務まらないのだ。まさかオペなんて出来ないだろうし、仮に血を見ない抜け道として精神科を選んだとしても、医学生のうちは皆平等に解剖実習を嫌というほど経験するのだろう。秀才揃いの医学部に行けばいつか誰かが必ず俺の症状に気が付く。そのとき人間失格の烙印を押されても、俺は文句を言えない。とは言えそんな形で人生を棒には振りたくない、ならば最初から医学徒への道を避ければいい話。事故をきっかけに俺の考えはそう転換した。内職までして俺の医学部進学を応援してくれていた母や他の家族には、何も言われなかった。正直、当時の俺の学力があればすんなり合格出来た筈だが、それでも志望学部の偏差値を下げた俺に「勿体ない。」などと言う人間は誰ひとりとしていなかったのだ。きっと全員がこう考えているのだろう。「人間の脆さを目の当たりにして、医者を目指す気概が削がれてしまった。」もっと単純に、「事故のショックで当時のモチベーションごとトラウマになっている。」とか、「事故現場すぐ近くの塾なんて通い続けられる訳がない。」みたいに。

 

 全然違う。思い出してしまっただけなんだ。


 俺が他人の血液でキマるタイプの人間だって。


 幸運にも、人生において最も脳内麻薬が分泌されてしまった事故直後の瞬間に俺の様子に気を取られていたやつなんてひとりもおらず、よってあのとき俺がトリップ状態にあり幻覚の最中を彷徨っていたことは多分誰にも気付かれていない。だから未だに俺のこの特性は俺自身だけが知る神秘である。ここまで来ればもう一生隠し通して墓場まで持っていってやる、日々そう思っている。

 しかしやはり過剰な快楽はおそろしい、ということは身に沁みて感じる次第で、何故なら事故後しばらく俺は正気を取り戻せなかったから。傍から見れば、友人を喪ったショックで茫然自失となっている姿に映っただろうが、いやいや、そうじゃない、自失は自失でも譫妄状態による病的自失である。しばし脳を支配し続けていた快楽物質が切れたことによる単なる中毒症状。そこまでのトリップを経れば、幼い頃と同様、再び流血それ自体が恐怖の対象となり、また自動的に錯乱へ陥ってしまうのを避けるため外出は控えるようになった。それさえも家族からしてみればわかりやすいPTSDとして受け取ったのであろう。そういった他者からの視線がこの時期、(言葉を選ばずに言えば)あらゆる場面で都合が良かった。ボロが出るよりはやく実家を出たかった。その思いは翌々年果たされ、こうして今は実家から離れた土地で悠々自適にひとり暮らしをしている。

 学部二年次へ進級したこの春、正式な学科に配属が決まった。俺が入った学科には数名の外国人留学生がおり、そのうちのひとりと俺は友達になる。長身で端正な顔立ちをした、俳優の岡田将生を彷彿とさせる雰囲気がある男だ。中国から来た二十歳の男で、名前を劉傑(リウジエ)という。

 日本語読みだと、「リュウ ケツ」。

 冗談みたいであろう、しかし声を掛けてきたのはあちらの方からだ。後から聞けば、別に誰にでも声を掛けていた訳ではなかったらしい。図体だけ長い癖に寂しん坊のきらいがある彼は対照的に小柄な俺に声を掛けやすいと目を付けたのか、「ごはん行きましょう。」などと敢えて拙さを残した発音で誘い掛けた。断る理由もなく、いつもひとりで訪れていた工学部食堂へ、その日初めてふたりで行った。

 誘った癖にあちらから話を振る素振りはなく、無言で配膳レーンにふたり並んでいるだけも苦しいのでそれとなく俺が中国のことなんかを質問すると、訊かれたことの二割り増しくらいの情報量ですべて返してくれた。日本語は全然、流暢であった。

 それからは二限か三限がある日は必ずあちらから昼食に誘われ、毎度ふたりでレーンへ並んだ。四限に実験がある日は夕食にも誘われ、その時間に空いている北部食堂まで足を運び、ふたりで黙々とカレーを掻き込むなどした。当たり障りの無い話題は疾うに尽きていたが、プライベートまで踏み込むにはまだ時期尚早だろうとお互いが言外に匂わせていた。

 四限の実験が思ったより早く終わった初夏のある日、「北部食堂でアイスが始まったらしいですよ。」とこれまた劉の方から誘われ、俺たちふたりは工学部を出て北へ向かった。十五時頃はきっと最も食堂が空いている時間帯で、ガラガラの席には食器さえ持たず駄弁るために座り込んだ一年生たちがちらほら、とその程度の混み具合。昼は工学部食堂でしっかり食べていたためアイスのみを購入し、広々とテーブルを使って席に着いた。口数少なに他愛もない話をぽつぽつ交わしていると、白地に赤線のジャケットを羽織った若いお姉さんが近付いてきた。学生ではなさそうだが、何の用だろうか。不躾な目線をくれてやる俺と、対して優し気にお姉さんの話を聞いている劉のふたりを前にし、彼女の姿勢が意識せずとも後者へ向くのは自然だった。劉がその調子なら仕方ない、俺だって話だけは聞いてやる。

 どうやらいま現在、外の駐輪場付近に献血カーが駐留しており、若い学生さんの血液が多量に必要であると、今ならなんとドリンクと菓子パンとペンとステッカーとハンカチ云々無料でもらえますよと、お兄さん方、献血は興味ないですかー? と、そういう話であった。

 

 献血。


「……お誘い有難いのですが、申し訳ないです。これから俺ら用があるんで。」と俺が言うより劉の方がはやく、「ボクたちでよければ、受けさせて下さい。」と目を輝かせて勝手なことを言い出し始め、「助かります、ありがとうございます。」と笑顔のお姉さんに連れられ、食べかけのアイスを味わう暇もなくあれよという間に俺らの姿は外の駐輪場にあった。

 不味いな、そう感じた。これまでの人生、献血という行為に対しいちどだって考えを及ばさなかった訳ではない。たとえば中学時代、膝小僧の擦り剝きを求めそれ自体には全く興味もないサッカー部に所属するほどに誰かの血液を欲していた頃、サッカーなんかよりもっと簡単かつ世間体よく他者の血液を実感できる場として、献血について真剣に思いを馳せていたことは確かにある。しかしこの国では十六歳に満たない者の献血は制度として認められておらず、敢え無く断念した。つまり合法的に血を感じられる機会は高校生になるまで待つ必要があったのだが、高校以降になると各種理由のもと今度は自ら流血ゾーンを避けるようになったため、献血というアイデアは頭を過ることすらなくなっていた。

 さて、いまの俺はどうだ。

 やはり献血の場にいるだけで、キマってしまうのだろうか。事故以降、他人の流血を生で見る場面はほとんどなかった。あったとしても手のあかぎれや指のさかむけにちょいと血が滲んでいるのが見えるだけで、さしもの俺だってその程度じゃ何とも思わない。だからつまり、自我を見失うほどの快楽はあれからいちども味わってはいない訳だ。

 これは俺にとって挑戦であった。何を期待しているのだろう、献血カーの前に来て愈々爛々と瞳を輝かせる劉傑の隣で、俺はしばし足を止め逡巡する。ひょっとして、全然俺ってもう、真人間なんじゃなかろうか。前回のラリパキから二年以上が経っていて、こんなにブランクがあるのは初めてのことだから、その感覚自体もう身体が覚えていなくたって不思議じゃない。たとえ結局再びキマってしまおうが、最悪、数時間忘我するだけだろう、あの日の比ではない筈だ。

 

 ならば、確認くらいの気持ちでヤッてみてもいいんじゃないの?


 誰も俺を責められないんじゃないの?


 献血カーの中へ這入る。そこはジャングルだった。

 低い位置で絡まり合ったツタやシダがまるで天井みたいに空を隠し、黒々と太い木々の幹が所狭しと立ち並び壁を形成する。自然が織り成す完璧な居住空間であった。いやー、これは住めるな、住んじゃおうかな、もう献血カーの中で暮らしてしまおうか。そんなことを考える。横を見れば劉傑だってそんな顔をしている。「なんだか居心地いいすね。」だって、何だ、お前もその気か。長くて赤い毛が幾本か混じったアルビノのマントヒヒが背後でツタをきゅきゅきゅと結ぶ。ヤバい、閉じ込められた。閉じ込められちゃったよ、リュウケツくん。もうこれはやっぱ住むしかないね、ここに。いいでしょ? マントヒヒが脇から柔らかい岩石をふたつ引張り出してきて俺たちに座るよう促す。俺らは仲良く並んでそこへ座る。少し仰向けの姿勢、頭上のツタやシダの隙間から陽光が漏れて眩しい。甘い香りが漂ったかと思えば、マントヒヒが俺の右手にまるごとマンゴーを握らせてくれた。マンゴーの天辺にはタンポポが一輪挿してあり、手に持ったそれをただ鑑賞するばかりの俺に劉傑は本当の楽しみ方を教えてくれる。タンポポの花の部分をエイヤと一気に口に含み、唇をすぼめ、ちゅうう、と吸い込むのだ。え、こうやればいいの? ちゅうう、甘い。桃の味。マンゴーじゃないんだ。

 ジャングルの奥から今度は孔雀が現れた。美しい羽を簡単に披露してくれるほど品位は低くなく、折り畳まれた尾羽はふりふりと左右に揺れる。孔雀が口をひらく。「おふたりは献血は初めてですか。」え? 聞こえないよ。「ボクは初めてです。」劉傑の言葉は聞こえる。なんでか耳が遠くなっている、桃ジュースに毒でも仕込まれたか。高周波数域でさえずる孔雀女はその後、笹の葉と熟れたラズベリーを繰り出し、ベリーを舐めようとする俺に一同は戸惑っていた。劉傑が隣で見せてくれたように、ベリーを舐めるのではなく笹の葉表面に摺り付け中身を付着させるとマントヒヒは満足そうに去っていく。残ったのは孔雀女と俺と劉だけであった。孔雀は長いツタを樹木の根っこから引張り伸ばしてきてその先端に己から毟り取った羽を一本ずつ括り付ける。そうして羽の鋭利な方を俺らに向けた。これ殺されるのかな。

「これ殺されるのかな。」

 劉傑は無視をした。そろそろ誰も取り合ってくれなくなっていた。

 羽の先端は首尾よく俺の肘の真裏にぶっ刺さり、そこからさらに体内へ向け先っぽを伸ばす。どこまで伸びていくのかと思えば、脇の辺りで再び体外へ顔を出し、今度はとぐろを巻いて二の腕の周りを周回する。微かな痛みと締め付けによる心地よさで何とも言えない気分であった。同様のまじないを施されている隣の劉傑を見れば、孔雀女の怨念が特に籠っていたのか、俺なんかよりずっと痛そうに顔を歪めていた。ああ、可哀想に、劉傑。しかし彼には申し訳ないが、俺はその顔が大好きだと思った。顔色も悪くなってきている。苦悶に眉を顰め、息は粗い。額に浮き出た動脈の影が孔雀女の踊りに呼応しどくどくと震える。そう、孔雀女は自分の呪術によって彼がこんなに苦しんでいるというのに、素知らぬ振りして躍っているのである。だけど、なんとその羽のうつくしいこと。俺だって気を取られちゃう、お、お、お、とよく見ようと身体を起こせば、また聴き取れない音波で女はぴちぴちさえずる。大人しくしてろってか、うるさいやつめ。

 次第に空気が澱み重くなり、視界がぼやける。ジャングルの夜ははやい、辺り一面水が充填され、ピラニアが泳ぎ始めた。喰われないよう、俺はバタ足で進む。俺ははやい。サッカーだって初心者の頃から上手かった。でも劉傑が見当たらない。あいつはどこだ、ひとりぼっちにさせてしまった。あいつはダメなんだ、俺がいないとどうしようもないんだ。寂しがり屋でかわいくて、俺に好かれることを嬉しいと思っていること、俺にまだ気付かれていないと思っているんだろうな。劉傑ダメだ。どこ行った、死ぬな。はぐれるな、死ぬな劉傑。




「話があります。」

 と劉傑から、口頭ではなく珍しくLINEを使って呼び出されたのは翌週のことであった。

 冷や汗が流れた。あの日のこと、やはり不審に思われただろうか。あんな近くで俺の挙動を見ていれば流石に気付いてしまうものなのだろうか。迂闊なことをしてしまった、上手く誤魔化せていればいいが。戦々恐々指定された時刻に指定された場所へ行くと、劉傑は何故か涙をいっぱい目に湛え、俺を待ち受けていた。


「献血の後、担当の方から呼び出されたんです。」


 彼はそう切り出した。俺の話題には全く触れなかった。

 外国人留学生の献血は十六歳未満とは違い、別に認められていない訳ではない。日本への入国後、四週間は制限されるが、劉に関しては一年以上祖国へ帰省していなかったためその条件もクリアしていた。しかし、彼から採血された血液を検査した結果、ある観点において異常な数値を示していたため、担当者から正式な機関における再検査を促されたそうだ。


「週末に紹介された病院で血を診てもらいました。したら、びっくりすることを教えてもらったのです。簡潔に言います。それはつまり、ボクの両親から受け継いだ遺伝子が互いに似通い過ぎているということでした。」


 彼は、そこで耐えきれず涙を流した。俺へ向けたまっすぐな眼差しはそのままで、ひたすらに大粒の涙をアニメのようにぼろぼろと零した。

 俺は戸惑った。掛ける言葉を失った。てっきり自分の常軌を逸した振る舞いについて追及されるものだとばかり思っていたから、あらゆる意味で驚いた。


「……ボクは、ボクはバケモノです。近親相姦で生まれてしまった、望まれない子供だったのです。両親はこの事実を僕に隠していました。二十年間も!」


 そう言って、もっとたくさん劉は泣いた。足許に水溜りが出来るんじゃないかというほど、大粒の液滴は留め戸なく溢れ、掌の付け根の内側で擦るように彼は目を押さえた。巨体を震わせ、みっともない姿だったが、しかし俺はそんな彼をうつくしいと思った。


「泣くなよ、ホラ、ホラ。」


 俺だって泣きたいよ、多分、俺は別に親同士マトモなんだろうけど、なんでか俺だけはこんなに異常体質なんだ。俺の方がバケモンだよ、お前なんかよりもずっと。訳わかんないよ、なんで泣くんだよ。純粋でさ、かわいいお前がなんで泣くんだよ。


 でもそんなことは、彼には決して言えなかった。

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Vamp Psychedelia 腺沼優ニ子 @megroren_miura

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