帰り道
斎藤リマ(旧:何にでもごま油をかける人)
帰り道
会社へ行くまでの通り道に、古びた商店街のアーケードがある。そこにはほこりをかぶった木製の小さなストリートピアノがあるのだが、誰かが弾いているのはみたことがない。なんだか気の毒な気もするのだが、私も通勤で余裕がないのでいつも素通りして会社へと急ぐ。
新卒でこの会社に勤めてからもう何年の月日が過ぎただろう。私もある程度の責任を持つようになり、中間管理職としての立場もそろそろ板についてきた。
その日はたまたまいつもより早く退勤できたので、夕方、まだ日のあるうちに帰り道を歩くことになった。家の前の細い路地に入ってしばらく歩いていると、古い洋館のような家が建っていることに気付いた。
「不思議だな。こんな場所があったなんて今までずっと気づかなかった。」
そう思いながら立ち止まると、その脇にさらに細い道があることに気付いた。薔薇や椿のような植物の枝によってアーチができていて、薄暗くて先が見えない。私道かもしれないが公道に見えなくもない。
「なんだか物語がはじまりそうな道だな。」
心の中でそんなことを思った。子供のころ夢中で読んだ児童文学に登場しそうな、不思議の世界へ通じていそうな通路。社会人になって久しい自分にはすっかり縁遠くなってしまった、そんな世界だ。
私は出来心でその道を歩き出した。少し歩いて、先がどうなっているかわかったら戻ろうと思った。しかし進んでいくと、なかなか終わりがみえない。薄暗いが、植物の隙間から西日が射していて、真っ暗ではない。ずんずん歩いて、気づくと随分と奥まで来てしまった。さすがにもう戻ろうか、と思いその先に目をやると、ようやく少し開けた場所があるのがわかった。そこまで歩いていくと、そこには小さな池があった。
水は澄んでいるようで、陽の光を反射してオレンジ色に輝いていた。もっとよく見ようと思い、さらに近づいた。池のそばでしゃがんで中を覗き込むと小さな魚が泳いでいた。それを観察していると、驚いたことに水の奥に不思議な光景が映し出されていることに気付いた。
小さな女の子が、喜んでピアノを弾いている光景だ。私ははっと息をのんでそこから目を離せなくなった。下にスクリーンがあるのだろか。こんな小さな路地の池に、なぜそのような仕掛けがあるのだろうか。そんなことを考えながらその光景を見つめていると、彼女の母親らしき人物が彼女に近づいてきた。その人の顔を見て、私は再び息をのんだ。
なぜなら、それは私の母親の顔と全く同じだったからだ。次に私は、まさかと思ってその小さな女の子を注意深く見つめた。
「私だ。」
彼女は私だった。彼女の着ている服、そこに映っている部屋、弾いているピアノ、すべてに見覚えがあった。
にわかには信じがたい光景に、頭が混乱し、夢を見ているのだろうかと思った。一体どういうことだろうと思ってさらに池に映るその光景を見つめているうちに、彼女――幼いころの私――が、とても楽しそうにピアノを弾いているのに気づいた。
「この頃はただ楽しくてピアノを弾いていたんだっけ。」
幼いころの私を見続けていると、心の中でピアノに関する思い出が蘇ってきた。中学生まで習い続けたが、だんだん重荷となってしまい、高校受験を機にやめてしまったのだ。どちらかというと、ピアノは楽しいものというより、面倒なものという思い出のほうが、私の中には強く残っていた。最近は仕事に追われ、自分がピアノを弾いていた事実さえも遠い出来事となっていた。
池に映る子供の私は、母親に無邪気な笑顔を向けるとこう言った。
「私、将来ピアニストになる。」
その言葉を聞いた途端、目の前が真っ暗になり、気づくと私は先ほど見た洋館の前に立っていた。洋館の脇に路地はあるものの、そこに絡まっていたはずの植物は綺麗さっぱりなくなっており、代わりにフェンスが道の脇に建てられていた。見通しもよく、道の奥は行き止まりとなっているのが見えた。思わず二度見したが、もう私がさっきまで見つめていた池や細く長い路地は跡形もなく消えていた。受け入れがたい状況だったが、金曜日で連日の疲労も溜まっていたので「疲れているんだな。」と思い、再び家に向かって歩き出した。
帰路の途中でふと思った。
「私、ピアニストになりたいなんて思っていたことがあったんだな。」
そんなことすっかり忘れていた。だんだん嫌になってやめてしまったけれど、それからは受験や就活など日々の忙しさに忙殺されて、夢なんて考えたことなかったな、と思った。
子供のころは人生が真っ白なキャンバスのようで、皆当たり前に夢を持っているし、それを躊躇せずに公言する。しかし、その夢はいつ消えてしまうのだろうか。強制で入らされた部活に忙殺された中学生活、高校は大学受験で余裕のない毎日、大学は当たり前のように卒業時に就活があって、とりあえず受かった会社に勤めて、日々の仕事に追われているうちに、今に至る。子供のころ思い描いた将来って、一体いつのことなのだろうか。就職後あたりだろうか。漠然と世間に敷かれたレールを歩んでいるうちに、夢なんてすっかり忘れてしまっていた。
「すっかり大人になった気がしたけれど、私はいつから子供でなくなったのだろう。」
そんなことも考えた。
◇
次の日は休日だったので、のんびりと起床した。良い天気だ。私は朝食を食べると着替えて、通勤途中のアーケードにあるスーパーに向かった。
一通り買い物を済ませると、あの小さなストリートピアノが目に入った。いつもなら素通りするところだが、その日はなんだかそれができなかった。近づいて、ピアノをしげしげと眺めると、手でほこりをはらって、ゆっくりと鍵盤蓋を開けた。
私はそっと鍵盤を押してみた。ポロンポロンと、少しくぐもった音がする。しかし、誰かが調律しているのか、音程はそこまで狂っていないようだった。
私は荷物を降ろして、椅子のほこりを払うと、ゆっくりとそのピアノを弾き始めた。
中学生のころ好きだったジャズの一曲、「スターダスト」のメロディをゆっくりと奏でた。
弾いているうちに、小さな子供が近づいてきて、私の横に立ってこちらをじっと見つめてきた。するとその子供の母親らしき人物が下の子供を引き連れて近づいてきた。さらに、アーケードを歩いていた一人の老人も私のそばに立ちどまった。
弾きおわると、その老人がゆっくりと拍手してくれた。それにつられるように私の横に立っていた子供も手をたたき、母親も拍手をおくってくれた。
なんだか照れくさくなり、小さくお辞儀をすると私は荷物を持ってそそくさとその場を去った。振り返ると、今度は先ほど私のことを横で見ていた子供がそのピアノを弾いていた。
不思議とすがすがしい気持ちになった。
アーケードを抜けてしばらく歩くと、昨日の路地にたどり着いた。行き止まりになっているその路地の奥で、キラっと何かが光った気がした。
「夢も魔法も、子供の専売特許ではないのかもしれない。」
その路地を立ち去りながら、私はそんなことを考えていた。
帰り道 斎藤リマ(旧:何にでもごま油をかける人) @solideogloria
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