第5章:深い淵より

 学校の開校から半年が経った頃、進は一つの決断を迫られていた。


 サム・ウィルソンからの求婚だ。


「エミリー、君と共に歩んでいきたい」


 彼の真摯な想いは伝わってくる。確かに、サムとは多くの時間を共に過ごし、信頼関係も築いてきた。


 しかし――。


「時間をください」


 進は返事を保留にした。これは単なる恋愛以上の問題だった。


 自分は本当に、完全にエミリーとして生きていけるのか。高橋進としての意識を持ちながら、一人の女性として結婚生活を送ることができるのか。


 その夜、運河のほとりで一人考え込んでいると、懐かしい声が聞こえた。


「やあ、進」


 振り向くと、そこには大学時代の恩師、山田教授の姿があった。しかし、周囲の人々は彼の存在に気づく様子はない。


「先生……これは?」


「君の意識を通じて、こうして話ができているんだよ」


 教授は穏やかな笑みを浮かべた。


「なぜ私は、ここに?」


「それは君自身が一番よく分かっているはずだ」


 進は黙って水面を見つめた。


 確かに、高橋進は現代社会から逃避していた。女性との関係を恐れ、人との触れ合いを避け、バーチャルな世界に閉じこもっていた。


 そして今、エミリーとして生きることで、かつての自分には想像もできなかった世界を知った。人々との関わり、社会への貢献、そして……愛情。


「私は、逃げ続けていたんですね」


「そうだ。しかし今の君は、正面から現実と向き合っている」


 教授の言葉に、進は深くうなずいた。


「でも、これは一時的な出来事なのでは? いつか元の世界に戻るのでは?」


「それは君次第だ。ここでの人生を全うするのか、それとも……」


 教授の姿が徐々に消えていく。


「選択は君自身が行うものだ」


 最後の言葉を残して、教授は完全に姿を消した。


 運河の水面には、満月が美しく映っていた。


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