第8話 鏡の中の影

 大和は洗面所の鏡の前に立っていた。顔を洗おうと蛇口をひねると、水が冷たく指先を包む。

だが、ふと顔を上げた瞬間、彼の心臓は凍りついた。


 鏡の中の自分。その背後に――黒い影が立っていた。


 不気味な存在

 「……誰だ?」


 大和は振り返った。だが、そこには何もいない。ただ、無人の白い壁があるだけだった。


 再び鏡を見る。影はまだそこにいた。ぼんやりとした輪郭だが、人型であることは分かる。だが、顔はなく、漆黒の塊のように見える。


 「気のせいだ……疲れてるだけだ。」


 彼はそう自分に言い聞かせた。だが、その日以来、鏡を見るたびに影が見えるようになった。




 影はただ立っているだけではなかった。次第に、それが言葉を発することに気づいた。


 「お前は無力だ。」


 その声は低く、耳の奥に直接響くような感覚を伴っていた。


 「何を言ってる?」


 「お前はすでに自分を差し出した。後戻りはできない。」


 大和は必死に目をそらそうとするが、鏡の中の影から逃れることはできなかった。どの部屋の鏡を見ても、影はそこにいる。バスの窓ガラスやスマホの画面にさえ、時折その輪郭が映るのだ。




 影の出現が始まってから、大和の生活は急速に崩れ始めた。


 職場では資料を取り違え、会議で何度も上司に叱られる。食事をしても味がしない。周囲の人々が何を話しているのかも、言葉として理解できなくなってきた。


 「俺はおかしくなってるのか……?」


 だが、バッテリーパックを使うと、一時的に影は消える。それが大和にとって、わずかな安息の時間となった。




 ある夜、大和はベッドの中でふと考えた。


 「この影は一体、何なんだ?俺が見ている幻覚に過ぎないのか、それとも……」


 だが、深く考えると得体の知れない恐怖が押し寄せてくる。影は単なる幻覚ではない――そんな直感が彼の中にあった。


 翌朝、意を決して彼は影に問いかけた。


 「お前は誰だ。何のために俺の前に現れる?」


 鏡の中の影は静かに揺れたあと、答えた。


 「お前自身だ。」




 その言葉に、大和は凍りついた。


 「俺自身……?どういう意味だ?」


 「お前が見ている影は、お前が捨てたはずの感情の欠片だ。」


 影の声は淡々としていたが、その言葉は彼の胸を鋭く刺した。


 「お前はエネルギーを得るために、心の中にある大切な何かを削り取ってきた。それが形を成し、こうしてお前を追い詰めている。」


「嘘だ……そんなはずが……」


 大和は頭を振った。だが、影の言葉は彼の記憶を呼び覚ます。確かに、バッテリーパックを使い始めてから、何かを失っているような感覚があった。




 その夜、大和は鏡をじっと見つめていた。影は彼の背後で微動だにせず立っている。


 「俺はどうすればいい……?」


 問いかけても影は答えない。ただ、じっと大和を見返しているようだった。


 翌朝、彼は鏡に向かって再び話しかけた。


 「お前を消すには、どうすればいい?」


 その瞬間、影がわずかに動いたように見えた。そして、低い声で一言だけ答えた。


 「諦めろ。」


 「諦める……?」


 「全てを手放せ。それ以外に救いはない。」




 その言葉を聞いた大和は、初めてバッテリーパックを破壊しようと思った。だが、装置を手に取ると、恐怖で全身が震えた。


 「これなしでは、俺は何もできない……!」


 その時、鏡の中の影が笑ったように見えた。


 「お前がそれを信じる限り、俺はお前の中に居続ける。」


 大和は鏡の前で膝をつき、声にならない叫びを上げた。その姿はまるで、自らの影に飲み込まれそうな男のようだった。


 鏡の中の影。それは大和自身が作り出した闇の化身だった。そして、その闇から逃れる方法はただ一つ――全てを捨てること。だが、彼にその覚悟はまだなかった。


 影はこれからも、彼のすぐ背後で、じっと見守り続けるだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る